第38話 保存区の景色
エレナは、テーブルに戻された端末を見た。
「見に行くって、紙を?」
「いえ。入口から、同じ所を通ってみたいんです。どこで気付くのか」
「もう、どこにあったか知ってるじゃない」
「だから、同じにはならないでしょうけど……」
ダリオはそこで言葉を切った。
あの時の光景を思い浮かべるたび、最初から柵の紙を探してしまう。それでも、実際にその場へ戻れば、記憶だけで考えているよりはましになるはずだった。
「事件現場だから、勝手には入れないわよ。まず確認してもらいましょう」
「はい」
「あと、それならパティちゃんと行ってみたら?」
エレナが向かいの席へ顔を向けた。
「私も一緒に見つけたから、同じものばっかり見るかもしれないし。何が引っ掛かるのか、整理してもらえるでしょ」
「同行は可能です。現地で見えるものなら確認できます」
パティが答えると、エレナは隣のグレアムを見た。
「グレアム。その間、久々に私とサルースに乗りなさいよ。パティちゃんに助けてもらえるグラディヴスばっかりじゃ、腕が鈍るわよ?」
「鈍ってねえし!」
「ふふん。じゃあ、見せてもらおうかしら?」
グレアムが空のカップを持ち上げ、もう一度置いた。
「お前、そっちが目当てか?」
「訓練よ、訓練!」
以前の搭乗員交代訓練でも、こうして組み合わせを替えていた。エレナはもう、グレアムと訓練の内容を話し始めている。
「じゃあ、パティ。お願いします」
「はい。ただ、行っても分からない可能性はあります」
「今も分かってませんからね、別に大丈夫ですよ」
今度は端末を開いた。
紙に気付く前の見学路を、もう一度確かめたい。ダリオはそう思いながら、適当な理由を代休申請書に書いた。
◇
フォボスへ向かえることになったのは、ヴィクターを通してMNSAと港湾保安側の確認が取れてからだった。
入れるのは指定された見学路だけで、保存地表や規制中の設備には立ち入れない。紙は既に回収されており、今回は鑑識資料を見せてもらう予定もなかった。
保存区の入口で、ダリオはパティとともに許可を示した。
保安員が二人の名前を確かめ、進んでよい範囲を指した。
「柵の向こうへは入らないでください。戻られる時も、こちらへ」
「分かりました」
入口を抜けると、見覚えのある岩肌が広がっていた。
頭上を覆う観光用与圧ドーム。その先の星。ここだけなら、前に来た時と変わらない。
ダリオは手すりを緩く握った。
足で床を押し、体が浮きすぎないように手で速さを抑える。以前は後ろに続く点検班を気にしていたが、今日はパティがついてくるだけだった。
「どこから見ますか」
「少し、そのまま進ませてください」
柵へ目を向けたくなるのをこらえ、通路の先を見た。
あの時は、点検する人を通せるかどうか確かめていた。通路に物がないか。先へ抜けられるか。
柵の外よりも、自分たちが進む場所を見ていた覚えがある。
入口から少し進んだところで、ダリオは止まった。
保存地表がよく見える方へ体を向けると、紙のあった柵が視界に入った。今は、その向こうの岩肌まで見通せる。
「……あの辺です」
「ここからも、柵は見えますね」
「ええ。見えない所に貼ってあった、ってほどじゃありませんでした」
ダリオは報告時に添えた自分の発見記録を開いた。
映像では、柵と白い紙が一緒に収まっていた。今の景色へ視線を戻す。位置は確かめられるが、ここから紙がどの程度目立ったかまでは、もう同じようには見られなかった。
「結果がわかってると、どうしてもそこばかり見ちゃいますね」
「私も、今は位置を教わっています」
「そうでした」
端末を下げ、再び手すりに沿って進んだ。
紙のあった場所へ近づくと、地表の細かな凹凸が見えてきた。大きな岩の間に土がたまり、照明に向いた面と影になった面で、色が違って見える。
ダリオは、柵の手前で体の動きを止めた。
岩を眺めに来たなら、ここまで来るだろう。わざわざ入口の脇に留まって、遠くから見る理由もない。
「これなら、普通に見学に来てたら誰でも見つけますね」
「はい。入口で気付かなくても、ここへ近づく人はいると思います」
柵の向こうへ視線を落とした。
踏み込まずに眺めるための場所だった。天然の地表を残し、その周りに人が来られる設備を造ってある。
【保存ではない。標本だ】
あの紙にあった言葉を思い出した。
主張に賛成はできなくても、ここを選んだ理由は分かる。別の通路へ貼ってあれば、同じ文面でも、この岩を見ながら読むことにはならない。
「……ここに置く意味は、分かるんです」
ダリオは入口を振り返った。
保安員の姿は見えたが、こちらへ来る者はいなかった。
「でも、あの時これをここで読ませる意味が、まだよく分からない。港の方じゃ、みんな船に乗ろうとしてたんですよ? わざわざこっちへ来る人はいなかった」
「その時に読ませる必要はなかったのかもしれません。事件の後でも、見つけてもらえばよかったのなら」
「グレアムさんも、そう言ってましたね」
「営業が再開してからの発見でも構わなかった、という考え方もできます。人通りより、この場所を優先した可能性は残ります」
ダリオはうなずいた。
誰にも見つからない場所ではない。それは来てみて、前よりはっきりした。
だから余計に、すぐに読んでほしかったのか、後からでもよかったのかが気になった。
「紙を貼った時、どんな状況を考えてたんでしょうね」
「そこは、今見えるものだけでは分かりません」
パティは柵の向こうを見たまま答えた。
ダリオも、しばらく同じ岩を眺めていた。
◇
「少し、いいかね?」
格納区へ向かうところでその声を聞き、グレアムは足を止めた。
火星圏航路保安庁のヴィクター・ハルデンが、通路の脇に立っていた。手には端末がある。
「よくねえ。これから訓練だ」
「じゃあ、その前に」
「……聞いてたか?」
「聞いてるとも。出動じゃなくて、訓練なんだろう?」
隣でエレナが時刻を確かめた。
「少しって、どのくらい?」
「答えがすぐ出れば、早く済むと思うがね」
「……嫌な言い方ね」
通路を塞いで話し続けるわけにもいかず、脇の打ち合わせ用の席へ移った。
グレアムは立ったままでいたかったが、ヴィクターが開いた記録の量を見て、椅子を引いた。
「フォボスで軌道変更用の大型AEドライブを移設する前、保守班から何を聞いた?」
「報告に書いた」
「読んだよ。その報告を書く前の話を聞いてるんだ。現場で口頭で聞いたこともあるだろう?」
グレアムは、台車の側へ近づいた時のことを思い返した。
画面だけでは決められなかった。保守班に確認してもらい、動かせる条件を一つずつ揃えていた。
「給電と冷却を残せるか。台車を動かしても、レールが荷重に耐えるか。そういう話だ」
「それを現地で確認する前から、全部知っていたわけじゃない?」
「知ってたら、あんなに聞かねえよ」
ヴィクターは端末へ目を落とした。
続いて、情報を受け取った相手と、MRSSへ返した連絡について聞かれた。思い出せるものには答えたが、何時何分と求められると、グレアムも記録を見るしかなかった。
「ここは、パティと確認してくれ。俺の記憶で時刻まで決められても困る」
「そうしてくれると助かる。曖昧な時刻をきっぱり言う人もいるもんでね」
「だったら最初から記録を見ろよ……」
「記録に残っていない話も聞きたいのさ」
ヴィクターは今度はエレナを見た。
「港側も同じだ。管制から来たもの、設備担当から直接聞いたもの。ダリオが知ったのは、あんたと同時かね」
「私が先に受けた連絡もあるわ。操縦中に全部聞けるわけじゃないもの」
「それを、どの時点で彼へ渡した?」
エレナは予定を開いていた端末を閉じ、作業記録へ切り替えた。
「一件ずつでいい? まとめて答えたら、違う話になるわよ」
「ぜひ、そうしてくれ」
ヴィクターが椅子を寄せた。
グレアムは、訓練の開始時刻が近づいていく表示を横目で見た。
◇
ダリオはパティとともに、見学路を入口へ戻った。
今度は足元の経路を確かめる必要もない。前を見て進むだけなら、紙のあった柵は背中の方へ離れていった。
保安員へ退出を告げたところで、声を掛けられた。
「あら。今日はそっちの組み合わせなの?」
簡素な作業服姿のエイドリアン・ケラーが、共用通路からこちらを見ていた。
ダリオが挨拶するより早く、パティが顔を向けた。
「ケラー主任。お疲れさまです」
「お疲れさま。グレアムは?」
「エレナと訓練の予定です。今日は、私がダリオに同行しています」
「そう。あっちは久しぶりね」
ケラーは手元の端末をしまった。
「そちらも、フォボスの件ですか?」
「ええ。支社の設備確認。向こうで異常なしと言われても、こっちで確かめなきゃ済まないことがあるのよ。貴方たちは?」
「前にここで紙を見つけたんです。それが、どうにも気になって」
「ああ、声明の。まだ置いてあるわけじゃないでしょう?」
「紙はもう回収されたのでありませんね。それが置かれてた場所を改めて見てきました」
三人は人の通り道を空け、通路脇の見晴らしのよい場所へ寄った。
ここからも、ドーム越しに保存区の岩肌が見えた。先ほどの柵は斜めになり、見学路の一部は見えなくなっている。
「ふぅん、場所?」
「はい。内容と場所は合ってるんです。でも、あの時ここへ来る人って、設備を見に入る俺たちくらいでしたから」
「なるほどね」
「別に、変だって言い切れるわけじゃないんです。後から見つかればいい、ってこともあるでしょうし。でも、なんか……引っ掛かってて」
ケラーは、ダリオの顔へ視線を戻した。
「ふぅん。……あの人が推すだけはあるのね」
「えっ、誰がです?」
「貴方の名前、試験の話でも出るのよ。ダリオならどうするか、って」
「俺がいないところでですか。勘弁してくださいよ」
「じゃあ、そのうち自分で答えてちょうだい」
ケラーはそう言って、保存区へ目を向けた。
「図面でも記録でも、それだけ見てると気にならないことはあるわ。現場へ行って、初めて引っ掛かることもね」
「今回は、来ても分からなかったですけど」
「そういうこともあるわよ。来れば答えが書いてあるわけじゃないんだから」
ダリオは少し笑い、彼女と同じ方を見た。
保存された岩のさらに向こうには、人工の構造物が重なっていた。ドームの縁を越えた先に外壁が見え、その間を通る設備が隣の施設へ伸びている。
そのうちの一つに見覚えがあった。
「あれ、AOEですよね?」
「そう。あれ、うち」
ケラーが指したのは、岩肌の奥に見える火星支社の施設だった。
ダリオはそこで初めて、声明を見つけた場所と支社の位置を、同じ景色の中で捉えた。
岩を覆い、削り、都市を築く。
あの文面に工業企業の名前はなかった。けれど、もし同じ主張で別の場所を狙うのなら、あそこも入るのだろうか。
「次はうちだったりしてね」
ケラーが言った。
ダリオが振り向くと、彼女は肩をすくめた。
「こんな所で、嫌なこと言わないでくださいよ」
「ええ。仕事が増えるのはもう十分」
パティが、岩肌の向こうから通路へ視線を戻した。
「この位置から施設が見えることは確認できます。ただ、それを理由に紙を置いたかどうかは、別です」
「そうだね。向こうから見れば、ほかの建物だってあるし」
ダリオはうなずいた。
最初に紙を見つけた時、自分はAOEの建物を見ていなかった。
ケラーの端末が短く鳴った。
彼女は表示を確かめ、通路の先へ体を向けた。
「それじゃ、私は戻るわ。No.003、グレアムに、記録の抜けは作らないように言っておいて」
「承知しました」
「ダリオ」
「はい?」
「近々、貴方の好みの子が来るかもね」
「……何の話です?」
「ふふっ、楽しみにしてて」
ケラーはそれ以上答えず、共用通路を先へ進んでいった。
呼び止めるほどの用か迷っているうちに、ダリオは聞きそびれた。
「パティ、今のどういう意味か分かる?」
「何を指しているのか、私にはわかりません」
「そうだよね」
ダリオは、しまいかけていた端末を開いた。
再訪して分かったことを残しておく。紙の位置と、入口からの見通し。見学者なら近づく場所だったこと。
最後に書いた疑問の行は、消さずに残した。
◇
「――それで、マーカスにはいつ伝わった?」
グレアムは顔を上げた。
ヴィクターの指先が止まっていたのは、現場からMRSSへ返した連絡の箇所だった。
「こっちが送った時刻はそこにあるだろ」
「送った時刻と、本人が知った時刻は同じとは限らんからね」
「なら本人に聞けよ」
「あんたが直接話した分もあるんじゃないかね」
グレアムは端末を引き寄せた。
現場から返した報告と、向こうから来た指示。通信記録で相手を確かめ、覚えているやり取りを答えた。
ヴィクターは、そこで話を終えなかった。
出動前に見られた設備情報は何か。現地で初めて受け取った資料はどれか。交代する班へ何を渡したか。答えるたび、別の時点へ戻される。
「何を調べてんだよ。さっきから、行ったり来たりしやがって。また俺を犯人扱いするつもりか?」
「その情報を、いつ、誰が持っていたかさ。事故の後なら誰でも知っていることでも、前から知れたかとなると話が違うだろう?」
エレナが、作業記録の一箇所を指した。
「この設備の状態は、現地で担当者に聞いたの。それより前にMRSSへ伝わっていたかどうかは、私たちからは分からないわ」
「それでいい。あんたたちが情報を受け取った経路を確かめたい」
グレアムは口を閉じた。
自分が聞かれるだけなら、文句を言っていれば済んだ。だが、同じ資料を見られたからといって、全員が同じ時に読んだわけではない。そこを混ぜられないよう、こちらも答えを選ぶ必要があった。
ヴィクターはひと通り確認すると、別の項目を開いた。
「マーカスは、あんたとダリオを長いこと見てるんだって?」
「ああ。新米の頃からな」
「操縦の腕だけじゃなく、どう動くかも?」
「仕事を振るんだぞ。知らなきゃ困るだろ」
「なるほど。本人ができると言う前に、任せられるかどうか分かるわけだ」
その言い方に、グレアムは眉を寄せた。
「何が言いてえんだ」
「いつ頃から知ってるのか、という話だよ」
「付き合いが長い上司だ。昔から、誰に何をやらせりゃいいか、よく見てる。俺たちだけじゃねえ」
ヴィクターは何かを書き留めた。
グレアムはその手元を見たが、短く動く指からは、何を残したのか読み取れなかった。
「じゃあ、その上司になる前は?」
「前?」
「今の立場へ来るまで、どこで何をしていたか。本人から聞いた話で構わない」
エレナが端末から顔を上げた。
ヴィクターは二人を見比べ、それからグレアムへ視線を戻した。
「マーカス・レインの昔のこと、どこまで知ってる?」
◇
基地へ戻ったことを報告したところで、ダリオはマーカスに呼び止められた。
「保存区はどうだった?」
「入った範囲を、ここに残してあります。現場で見た分も」
ダリオは端末を差し出した。
マーカスは入口から柵までの画像を送り、最後の行で手を止めた。
「疑問は解決したか?」
「いいえ。ただ、見つかりにくい所に隠してあった、って話ではなかったです。目立つ場所ですし、誰だってあそこへ近づきますから」
「それで?」
「場所は声明の内容に合っています。でも、あの時そこへ読みに来る人はいなかった。後で見つかればよかったのかもしれませんけど、そういうつもりだったと分かったわけでもないです」
「パティも、同じか?」
「はい。確認できた位置と見通しは、ダリオの記録のとおりです。設置した人の意図を判断できる材料はありません」
「分かった。見たことと考えたことを分けておけば、向こうでも扱える」
マーカスは記録を戻した。
ダリオは続けて、保存区を出たところでケラーに会ったことを伝えた。AOE火星支社が岩の向こうに見えることも話したが、それと声明の関係は分からないと添えた。
「そうか。で、お前はどうしたい」
ダリオは端末を持ち直した。
もう一度行けば何か分かるかもしれないと思っていた。実際には、別の説明がいくつも成り立つことを確かめて帰ってきた。
「今日見た分は、MNSAへ渡したいです。大した話じゃないかもしれませんけど、後で何かと合うかもしれないので」
「ああ」
「次に何かあってから、あの時こうだったって思い出すのは、嫌なんです。これが関係ないなら、それでいいんですけど」
マーカスは、しばらくダリオを見ていた。
「お前は、そこが変わらんな」
「そうですか?」
「壊れた後の仕事をしてても、その前に気付けなかったかを考えてる」
ダリオは返す言葉を探した。
今日の保存区では、救助を求める声も、急いで止めなければならない設備もなかった。だからこそ、柵の前で考えていられた。
「……何も起きないうちなら、その方がいいでしょう」
「そうだな」
マーカスは自分の端末を開いた。
「窓口へ回しておく。確認が来たら、お前が答えろ。分からんところまで埋めなくていい。あとな、わざわざ代休申請を出して仕事をするんじゃない、休みの意味が無いだろ。もう一日、どっかで休みを取れ」
「はい」
ダリオは送信する記録をもう一度確かめた。
柵の画像に、パティと確認した範囲を添える。最後に残した疑問には、まだ答えを書けなかった。
そのまま、マーカスへ送った。




