第1話 プロローグ
「まだ接舷許可は下りないのか」
グレアム・ヴェイルは、第二世代クアドリガQR-12A【サルース】の四本の推進脚を事故船へ向けたまま訊いた。
返事はすぐには来なかった。
正面では、巨大な船体がゆっくりと姿勢を崩し続けている。火星圏救難作業公社――MRSS所属のサルースは、その動きを追うように向きを変えながら、近づくことも離れることもできずにいた。
大型定期旅客貨物船【セカンド・ホライズン】。
地球圏と火星圏を結び、人間と物資を一度に運ぶ巨大船である。
長大な中央船体を背骨として、前部の居住区には二基の大型居住ドラムが軸方向に近接して並び、中央に貨物モジュール群、後部に電力区画と主機関を備えている。
二基の居住ドラムは、平常時には互いに反対方向へ回転し、内部へ人工重力を生む。その回転反力を互いに打ち消すことで、中央船体そのものは静止したまま航行する仕組みだった。
今、その均衡は完全に崩れている。
未登録だったデブリ群は、中央貨物区画の片側を斜めに貫いていた。
貨物コンテナと推進剤タンクを保持していた支持構造が、肋骨ごと抉り取られている。
複数の破片はさらに貨物区画の奥まで抜け、中央船体を走る生命維持と動力の幹線を連続して傷つけていた。
重心を外れた衝撃を受けた長大な船体は、そのまま縦方向へ回転を始めている。
それだけではない。
破損した配管から噴き出すガスと、半端に作動を続ける姿勢制御器が、船体へ不規則な力を加え続けていた。
セカンド・ホライズンは、ただ回っているのではない。
長い船体の軸そのものが、倒れかけた独楽のように大きな円錐を描いている。
損傷部が太陽を向くたび、捲れた外板と断熱材が白く光った。
次の瞬間には船体の陰へ沈み、代わりに帯状の窓と居住ドラムの外壁が現れる。
外れかけた貨物コンテナが船体へぶつかるたび、細かな破片が新たに宇宙へ散っていった。
当然、接舷口も静止していない。
船体中央から離れた位置にあるため、船全体の回転に引きずられ、直径数百メートルの円を描いている。
救難艇から遠ざかり、巨大船の陰へ消え、しばらくして反対側から再び現れる。
グレアムは表示へ重ねた軌跡を見ながら、その周期を数えていた。
歳差運動のため、接舷口が描く円は一周ごとに少しずつずれていく。
同じ場所へ戻ってくることはない。
それでも、近づける。
少なくとも、自分たちなら。
『MRSS管制よりグレアム機へ。現在、地球側管理局が船籍管轄を主張している』
ようやく管制官が答えた。
『積荷の一部に機密指定があるらしい。我々による船内進入と貨物区画への接触は認められない。地球側の救難船を待て、とのことだ』
「……どのくらい待てばいいんだ?」
『最短でも4時間』
グレアムは黙って表示を見た。
セカンド・ホライズンの生命維持状況は、先ほどから少しずつ悪化している。
損傷の少ない居住区画には、まだ空気が残っている。だが、一部区画では酸素供給と空気循環、二酸化炭素除去系がまとめて傷つき、中央船体を通る電力系統も複数箇所で切断されていた。予備電源も不安定だ。
AEドライブ本体の大半は生きている。だが、大電力給電と冷却系の損傷による短絡と過熱を避けるため、安全装置が主機を停止させていた。残った反動推進器だけでは、姿勢を支え、最低限の軌道を修正するのが精一杯だった。
居住ドラムの回転数にも差が生じ始めている。
一基は速度を落とし、もう一基は制御不能のまま回り続けていた。
中央船体との接続部へ偏った荷重が加われば、ドラムそのものが脱落する可能性もある。
表示の隅で、生命維持の残り時間が減っていく。
4時間。
口にすれば短い数字だった。
その向こうには、今も息をして待っている人間がいる。
「そんなに待ってたら、残ってるのは船体と死体だけだ」
管制官は答えなかった。
グレアムは小さく息を吐き、通信回線を切り替える。
「セカンド・ホライズン、こちらMRSS所属の【サルース】だ。応答できる者はいるか」
雑音。
途切れた信号。
断片的な自動警報。
船体が回転するたび、通信状態が大きく変化している。
事故船のアンテナが火星側を向いた一瞬だけ、雑音の奥から人の声が浮かび上がった。
『こちら……第3区画……聞こえますか』
若い男の声だった。
ひどく荒い呼吸の合間に、何かを叩く音が聞こえる。
『隔壁が開きません。こちらには8人います。2人が負傷しています』
「位置を送ってくれ。酸素残量は分かるか」
『表示は……2時間40分。でも、減り方がおかしい』
「分かった。動くな。必ずそっちへ行く」
回線の向こうで、男が息を呑んだ。
『来て、くれるんですか』
グレアムは答えるまでに、ほんの一瞬だけ間を置いた。
自分たちには装備がある。
第二世代クアドリガの四本脚なら、回転する船体へ速度を合わせられる。
固定用アンカーも、外板を切断する工具も、気密接続できない場所から人を回収する装備もある。
距離も足りている。
推進剤も足りる。
表示の中では、接舷口がまた船体の陰へ消えていった。
まだ手は届く。
「行く」
『ありがとうございます』
通信を切ると、すぐに管制官の声が飛んできた。
『ヴェイル、許可は出ていないぞ』
「聞こえてる」
『船体へ接触すれば、国際救難協定と船籍管轄の問題になる。積荷に触れれば、お前だけの責任では済まない』
「じゃあ、許可を取ってくれ」
『やっている』
「もっと急いでくれ」
『……っ、こちらも全力だ!!』
怒鳴り返した声には、苛立ちよりも焦りが滲んでいた。
グレアムは言い返さなかった。
誰も助けたくないわけではない。誰も、人が死ぬのを望んでいない。
だが、誰が責任を負うのか。誰が船内へ入る権限を持つのか。救助を認めた結果、何が失われるのか。
その答えを決めるために、人々は今も会議を続けている。
その間にも、船内の空気は減っていた。
「セカンド・ホライズンへ寄せるぞ、エレナ」
グレアムが言うと、後席の救難員が前席越しにグレアムを見た。
「接舷するの?」
「まだしない。許可された距離の端まで出る」
「端を少し越えたら?」
「船体の方から近づいてきたことにする」
「ずいぶん都合のいい回転ね」
エレナはそう言って、固定用アンカーと切断装置の起動確認を始めた。
グレアムは左右二本の推進脚を外側へ開いた。
後方の一本を主機関と同じ方向へ向け、最後の一本を事故船の回転軸へ向ける。
四本の推進器が、それぞれ別の方向へ噴射した。
機体は船首方向を保ったまま横滑りし、同時にゆっくりと回転を始める。
セカンド・ホライズンの首振りへ、自分たちの姿勢を重ねていく。
その表面にある一点が描く円軌道へ、サルースを乗せる。
接舷口が船体の陰から現れた。
グレアムは一度だけ短く噴射する。
身体がシートへ押しつけられ、機体が横へ滑った。
接舷口がこちらへ近づく。
さらに一本の推進脚を折り畳み、別の一本を伸ばす。
今度は機体全体が、事故船の歳差運動に合わせて斜めに傾いた。
警告音が鳴った。
推進脚同士の出力差が許容域を越えかけている。
グレアムは表示を一瞥しただけで、入力を続けた。
「このままじゃバランスが崩れるわ」
「マスリデューサー最大稼働、なんとか誤魔化せ」
「当たったら余計弾かれるわよ?」
「ぶつけねえよ」
事故船の外壁がモニターいっぱいに広がった。
船体そのものが回転しているせいで、外壁は巨大な地面のように下へ流れ、同時に左右へ揺れている。
その上を、割れた配管と抉れた外板が次々に横切った。
固定点を見失えば、巨大船の外板へ機体を叩きつけられる。
グレアムはそこで一度、距離を取り直した。
まだ接触しない。
焦って飛びつく場面ではない。
今は、周期を読む。
その時、船の反対側で動き続ける小さな機体が目に入った。
MRSSの救難作業機ではない。
細い中央胴体に、簡素な推進器と観測装置を備えた航路監視機だった。
クアドリガではない機体が、固定された主推進軸と複数の姿勢制御器だけで、セカンド・ホライズンの複雑な動きへ食らいついている。
監視機から伸びた牽引索が、事故船の荷役用アンカーへ接続されていた。
ただ引いているわけではない。
事故船の船首が大きく振れる瞬間だけ、監視機は横向きに噴射する。
歳差運動を完全に止めることはできない。
それでも、船体の首振りが最大になるたび、ほんの少しだけ回転軸を重心へ戻していた。
牽引索の張力が限界を越えれば切断される。
切れなければ、今度は監視機そのものが事故船へ振り回される。
それでも機体は離れない。
「管制、あの青と白の機体は?」
『事故発生時、最も近くにいた航路監視機だ。船体状況と漂流者の位置情報を送ってきている』
「救助能力はあるのか」
『ない。気密接舷設備も収容スペースもない』
「操縦者は?」
『ダリオ・ケイン』
「……良い腕だ」
グレアムは、もう一度その小さな機体を見た。
今度は名前と一緒に、その動きを覚えた。
◇
ダリオ・ケインは、残量表示が赤く染まった推進剤計を見ていた。
監視機の固定式主推進器は、事故船の回転を抑えるようには作られていない。
船首を牽引方向へ向ければ、姿勢制御器だけで歳差運動へ対応しなければならない。
横向きに噴射するため船体を傾ければ、牽引方向がずれ、事故船の回転をかえって悪化させる。
何をしても、別の何かが足りなかった。
牽引索の張力が警告域へ近づく。
セカンド・ホライズンの船首が大きく振れ、監視機を横へ引いた。
身体がベルトへ押しつけられる。ダリオは主推進器を絞り、右側の姿勢制御器を連続噴射した。
牽引索が緩む。
次の瞬間、事故船の回転方向を先読みして機首を振り、索が再び張る直前に主推進器を点火する。
船体の首振りが、わずかに小さくなった。
完全には止まらない。
止められるはずもなかった。
彼の小型機は、人を運ぶための船ではない。船体を切断する工具もなければ、損傷した区画へ接続する装置もない。
できるのは、見ることだった。
どこが壊れたか。
誰がどこに取り残されているか。
船体のどの面が、次に救助側へ向くか。
居住ドラムの接続部に、どれほどの荷重が加わっているか。
救助に必要な情報を拾い、絶えず送り続ける。
今の自分にできるのは、それだけだった。
「第3区画との通信が途絶しました」
機体の自動音声が告げた。
ダリオの視線が通信表示へ移る。
すぐに回線を開いた。
「第3区画、応答して下さい!」
返事はない。
「こちら監視機。聞こえたら何でもいい、音を返して下さい!」
雑音だけが返ってきた。
セカンド・ホライズンが一回転する。
窓の帯が陽光を反射し、暗い宇宙へ沈む。
先ほどまで八人いた。
少なくとも、そう聞いていた。
ダリオは唇を結び、次の首振りへ合わせて牽引出力を上げた。
警告音が鳴る。
回転を少しでも抑えれば、亀裂の拡大を遅らせられるかもしれない。
通信アンテナが火星側を向く時間を長くできるかもしれない。
接舷口が描く円を、ほんの少し小さくできるかもしれない。
それで何人助かるかは分からない。
一人も助からないかもしれない。
それでも、何もしないよりはましだった。
視界の端に、新しい光が入った。
四本の推進脚を大きく開いた、紅白のカラーリングをした救難作業機。
脚の一本を事故船の回転軸へ、二本を接線方向へ、残る一本を後方へ向けている。
不格好な姿勢だった。
だが機体は、事故船の船首が描く円の内側へ滑り込み、回転する外壁とほとんど同じ速度で並走していた。
ミスリルマスリデューサー搭載の、第二世代クアドリガでなければできない動きだった。
救難作業機は四本脚を畳みながら外壁へ近づき、二本の脚を船体へ向けた。
接触の直前、残る二本が別方向へ噴射する。
機体と事故船の速度差が消えた。
脚部先端のアンカーが、外板へ突き刺さる。
救難機の胴体が大きく振られた。
二本の脚が関節を曲げて衝撃を吸収し、残る二本が噴射して姿勢を支える。
まるで巨人の身体へ、小人がしがみついているようだった。
ダリオは一瞬だけその動きを追い、すぐに事故船の情報表示へ視線を戻した。
「そこのクアドリガ、こちら監視機。船体中央、第4隔壁の後方で船内通信の応答を確認した。外部通路は潰れている。上面から入れ」
『了解した。情報に感謝する』
落ち着いた男の声だった。
「第3区画にも8人いました。今は通信がありません」
短い沈黙。
『後で行く』
「先に中央区画をお願いします。そっちの方が人数が多いですから」
『分かった』
返事には苛立ちも反発もなかった。
ただ、諦めていない人間の声だった。
クアドリガの一本の脚が、船体の外壁を掴む。
別の一本がプラズマ切断トーチを展開した。
残る二本は推進器を外側へ向け、事故船の回転に逆らうように噴射を続けている。
四本の脚すべてを使って、取り付き、切り開き、姿勢を保っていた。
船体を一つの身体として扱うには、あまりにも複雑な操作だった。
それでも操縦者は迷わない。
外壁を切るトーチの白い光が、暗い宇宙を照らした。
光が走るたび、切断された外板の縁が一瞬だけ白く浮かび上がる。
ダリオはその光を見ながら、牽引を続けた。
その日、グレアム・ヴェイルは多くの人間を救った。
そして、救えなかった人間の数を、生涯忘れなかった。
ダリオ・ケインもまた、多くの人間を救うために動き続けた。
そして、自分たちの命を救うためにさえ、火星には地球の許可が必要だったという事実を、生涯忘れなかった。




