1話 大統領府南芝生、内心は土下座
怖いのは、嫌われることではなかった。
測られる側に戻ることだった。
最初に言い訳をすると、私は別に、地球へ降りる瞬間を格好よくしたかったわけではない。
したかったのは、事故を起こさないことだった。
それだけだ。本当にそれだけ。
ただ、私の文明では「事故を起こさない」という発想そのものが、たいてい地球側から見ると大げさになる。階段を踏み外さないための補助を入れる。転倒の予測線を先読みする。反射的な筋出力を補正する。視線の揺れを抑える。姿勢の乱れを拾って、足の接地角を一ミリ単位で調整する。呼吸のリズムに合わせて肩の稼働範囲を自動で制限する。指先の震えをカットする。そういうことを、こちらでは誰でも普通にやる。
普通にやるのだけれど、普通の基準が違う。
地球人だった頃の私は、しょっちゅう何かに躓いていた。コンビニの段差、駅の階段の最後の一段、職場の床に這っていたLANケーブル、家に帰って靴を脱いだ直後の自分の足。重症ではない。ただ、絶妙にみっともない転び方をする人生だった。会議室の椅子の脚に爪先をひっかけて資料をぶちまける。書類整理の引き出しに小指をぶつけて声にならない悲鳴を上げる。給湯室のポットの取っ手にセーターの袖を引っかけて、お湯を自分の足にかけて、それでも「すみません」と先に言ってしまう。そういう人生だった。
だから、こっちへ来て最初にありがたいと思った技術のひとつが、運動補助だった。
歩くときの軸がぶれない。角を曲がるとき肩をぶつけない。コップを落とさない。寝起きにふらつかない。階段の上り下りで膝が変な音を立てない。椅子を引くときに脚が床を擦らない。私はその文明的恩恵を、星間移動より先に愛した。
文明というのは、たぶんこういうところで信仰に似てくる。銀河航行に感動するより前に、「あ、もう壁に小指をぶつけなくていいんだ」で泣きそうになる。実際、なった。
文明ありがとう、と心の中で何度も言った。
銀河航行より先に、小指をぶつけない技術に感動する。これがたぶん、転生後の私のいちばん正直な感想だった。
その補助には段階がある。
高い安定設定にすると、ほとんど転ばない。筋出力、重心制御、表情筋の震え、視線の散り、呼吸の揺らぎ、声帯振動の基音、全部がひとつのシステムに支えられる。代わりに、少しだけ機械っぽくなる。歩幅が整いすぎる。瞬きが少なくなる。首の傾きがきれいすぎる。まっすぐ立ちすぎる。言い換えれば、いかにも「高位存在」っぽく見える。
低い設定にすると、自然になる。自然になるが、うっかりも増える。小石で足を取られる。ちょっとした風で髪が顔に張り付く。座るとき布を踏む。振り向いた拍子に袖を机へ引っかける。つばを飲むのがやけに大きな音に聞こえる。そういう、地球人だった頃の私には馴染みのある失敗が戻ってくる。
私は今日、南芝生へ降りる直前まで、その設定を最大に近いところへ上げていた。
理由は単純だ。
怖かったからである。
怖くて、怖くて、格好悪いところを見せたくなかった。
最初の接触で世界中の軍事系統に安全装置をかけ、挨拶文を盛りに盛って送りつけ、その後の補足で宗教層と倫理層の神経を同時に逆撫でし、さらに毎日エゴサして勝手に落ち込んでいた私が、いまさら「ちょっと自然体で行こうかな」と思えるわけがない。
自然体の私なんて、地球人の前に出していい代物ではない。
出したら絶対に変なことを言う。
向こうは国家元首だ。宗教者だ。安全保障の専門家だ。たぶん、ものすごくちゃんとした顔で、悲しみとかケアとか社会の分断とかについて質問してくる。そこへ私の中から出てくる答えが、「えっと、夜にカップ焼きそば食べるとちょっと元気出ることありますよね」だったらどうする。どうもしない。文明間接触が終わる。
だから私は、接触用形態の安定設定を上げ、発声補助を整え、視線制御を鈍らせ、表情を平坦に保つようにしていた。完全に、やりすぎだった。
でも、やりすぎなくらいでちょうどいい気がしていた。
格式へ逃げる癖は、数百年生きても抜けない。
前世の私も、部長面談の前にはトイレで三回深呼吸していた。就活のグループディスカッションの前には、マナー講座で習った「第一印象の黄金七秒」を反芻していた。初対面の取引先の前では、声がワントーン高くなっていた。謝罪メールの文面は、どれだけ本気で謝っていても「この度はご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございませんでした」で始まる。
そういう癖が、たぶん私の魂にそのまま張り付いている。
数百年経っても、剥がれていない。
地球は、今ごろ私をどう思っているだろう。
その問いをここ数日、私は何百回も繰り返した。
悪魔。天使。侵略者。観察者。マスコット。偶像。兵器。気持ち悪いもの。かわいいもの。理解を拒否するもの。無理解を笑うもの。何でもよかった。むしろ、憎まれている方が楽かもしれなかった。
嫌われているなら、嫌われている前提で話せる。
怖いのは、そのどれでもなく、「この人は自分たちをどう見ているのだろう」と測られることだった。
私は測る側として降りる。
でも、元地球人の心は、どうしても測られる側へ戻る。
*
連邦首都の空は、映像で見ていたより低かった。
もちろん、大気圏内の散乱とか湿度とか、そういう要素の話ではない。感覚の話だ。ここへ来るまで私は何度も地球の空を見ていた。観測窓越しにも、擬似投射でも、無人端末の映像でも見た。見ていたのに、実際に上から落ちてくると、空は「広い」の前に「低い」だった。
手を伸ばしたら届く、という種類の低さではない。人間がその下で生活しているせいで、体温を持って見える。そういう低さだった。
私は移動場の縁に立ち、最後の同期確認を受けていた。
付き添いはいる。いるが、地球人には見えない。共同圏の規約上、私は単独来訪という扱いになる。たとえ後方支援の監督が何層もいても、地球側に見せる窓口は一個体だけ。そこは最初から決まっていた。
規約番号十二編、千二百項目、第七条。
初期接触においては、受容側文明の認知負荷を最小化するため、発信側は単一個体をもって応対するものとする。
要するに、一人で行け、ということだ。
会社の新規取引先への初回訪問を、新入社員ひとりに行かせるようなものだと、私はつい前世の会社の話に置き換えて考えてしまう。そんな会社、ブラックだとネットで叩かれる。でも、銀河共同圏では規約である。文明の格差がついていると、「ひとりで行け」は礼儀の範疇になる。複数で圧を出す方が悪いのだ。
そう言われると反論できない。
反論できないけれど、怖いものは怖い。
監督者のひとつが、私の肩のあたりで柔らかく明滅した。
声ではない。けれど私には意味が入る。
**緊張していますね。**
「してます」
私は正直に答えた。
ここで格好をつけても仕方がない。少なくとも、こちら側には。
**安定設定が高すぎます。**
「分かっています」
**歩容が不自然です。地球人類は、あれを威圧と読む可能性があります。**
「分かっています」
**なら、なぜ維持しているのですか。**
「転びたくないからです」
少し間が空いた。
相手が沈黙したのではない。私の返答を、どの程度まともに扱うべきか検討している感じの間だった。
「あと、怖いので」
私は付け足した。
「怖いと、私はわりと雑にやらかします」
その明滅は、前回より長く沈黙した。
高位の共同監督層は、私のそういうところを最初から把握している。把握していて、それでも送り出している。たまに私は、そのことがいちばん怖い。
まともな人格が他にいないわけではない。もっと立派で、外交的で、歴史認識も厚く、しかも転ばない個体はいくらでもいる。なのに私が来ている。
その理由を考えると、共同圏が地球をそこまで重く見ていない可能性と、逆に「元地球人であること」が思った以上に重要視されている可能性の両方が浮かぶ。どちらにせよ、胃に悪い。
私に胃はないが、比喩として。
**最終確認を行います。**
視界の端に、接触地点の構造図が開いた。
南芝生。南ポルチコ。群衆導線。報道足場。警備線。礼節距離。発話優先権。
各要素に、色分けされた数値が浮かぶ。
警備線の第一層、第二層、第三層。それぞれに「UPD──制服部門」「CAT──対襲撃展開」「CST──対狙撃班」と注記。距離、射線、想定脅威レベル、初動所要秒数。隣接して「民間警備」「敷地境界外の群衆圧」「プレス・プール配置」「医療緊急展開」。
私はそれを見ながら、奇妙な気分になった。
地球の、あの国の、あの建物の南芝生が、いま私の面接会場になっている。
前世の私が知ったら卒倒する。
いや、しないかもしれない。前世の私は案外そういうことに鈍い。会社帰りにコンビニでプリンを買うかどうかの方が重大だった。レジ前でプリンを棚に戻し、レジを通ってから「やっぱり買えばよかった」と後悔し、翌日また買いに行って、前日のプリンが売り切れていて愕然とする。そういう小さい起伏の方が、国際情勢より切実だった。
そういう自分が嫌いではなかったし、今もたぶん根本では同じだ。文明がどれだけ上がっても、私は「とりあえず今日をやり過ごしたい」側の人間だ。
だからこそ、いまやっていることが分不相応に思える。
分不相応だと分かっているから、ロールプレイへ逃げる。
超然。平坦。威厳。高位存在。
そういう型へ自分を押し込んでおかないと、足がすくむ。
実際には、すくんでいる。
*
地球側の音声が薄く届き始めた。
完全な盗聴ではない。接触相手の安全確認の一部として、表層の音を拾っているだけだ。規約上グレーだが、死ぬよりはいい。私は自分にそう言い訳をした。
いろいろな声が重なっていた。
報道の実況。警備の短い符号。群衆のざわめき。抗議のシュプレヒコール。祈りの言葉。誰かの泣き声。遠くの笑い声。英語だけではなく、もっとたくさんの言語。スペイン語、フランス語、アラビア語、中国語、ヒンディー語、ポルトガル語、韓国語、日本語。世界中から人が集まっている。
プラカードのフレーズも断片的に拾える。
*GO HOME.*
*WELCOME.*
*IS SHE THE ANGEL?*
*STAY AWAY FROM OUR CHILDREN.*
*WE COME IN PEACE TOO.*
*ANDRO, PLEASE SMILE.*
それを聞いた瞬間、私は急に、前世の花火大会を思い出した。
地元の小さいやつだ。河川敷の、夜。出店の匂い。混んだ駅。帰りの電車で疲れ果てた子どもが寝ている感じ。たいした規模じゃないのに、当人たちは一生に一度みたいな顔をしている。屋台の焼きそばが異常に高い。でも買う。ビールが紙コップで、ぬるくなっていく。それでも飲む。隣に座った知らないおばさんが、上を向いたまま「きれいねえ」と言う。花火が終わったあと、ゴミ袋を広げて歩くボランティアの学生たち。
たぶん私は、そういう人間の集まりを見るのが好きだった。
好きだったから、地球を見に来たのだろう。
好きだったのに、来るまでの手順を全部間違えた。
笑えない。
笑えないけれど、その事実はもうどうしようもない。
監督者が最後の確認を流す。
**防御系は自動です。あなたの意識とは独立しています。**
「ありがたいです」
心からそう思った。
私はいざというとき、たぶんちゃんと守れない。守れないというか、最初の零・五秒くらい普通にびっくりする。びっくりしてから守る。つまり間に合わない。自動防御がある文明でよかった。
**ただし、あなたが意図的に下げた表層安定設定によって、着地後の所作には多少のゆらぎが残ります。**
「はい」
私は返事をしながら、さっき自分で少しだけ設定を落としたことを思い出した。
ほんの少しだ。
最大値から、一段だけ。
理由は自分でもはっきりしない。たぶん、このまま完璧に近すぎる形で降りると、地球人は私を永遠に人間ではないものとしてしか見ない、という予感があったからだ。予感というより、願望かもしれない。私だって本当は、向こうに対して「完全な何か」でいたいわけではない。
でも、少し落としただけで、急に不安になった。
風が頬に当たる感覚が増える。足の裏の接地が生々しくなる。視界の端の群衆が、さっきよりうるさい。髪の束がこめかみをかすめる。それだけで、いきなり転びそうな気がしてくる。
最悪だ。
この期に及んで、私は「人類史上初の本格接触」より「歩き方が変じゃないか」の方を気にしている。
*
移行は、痛みを伴わない。
体がほどける感覚も、空間が折れる感覚も、もう何度も経験している。慣れたものだ。慣れたものなのに、地球へ降りるこの瞬間だけは、手が冷える感じがした。
手が冷える、という比喩は不正確だ。私の現在の形態において体温は高度に調整されているし、局所冷却の発生もほとんどない。それでも、冷えるとしか言いようがなかった。
前世の記憶がまた一つ、勝手に浮かんだ。
就職面接の日、最寄り駅のトイレで手を洗ったときの冷たさ。水の温度ではなく、たぶん自分の指先の温度の方がおかしかった。ハンカチで拭きながら、鏡の自分と目が合って、そっと目をそらした。
あの冷たさと、今の冷たさは、たぶん同じ系譜のものだ。
数百年経っても、血縁みたいに残っている。
視界が切り替わる。
青。
白。
人の顔。
芝。
建物。
旗。
そして、ものすごい量の視線。
私は南芝生の上にいた。
*
南芝生は、思ったより柔らかかった。
これも感想としては最悪だ。最初に考えることがそれなのか。人類代表みたいな顔で降りてきておいて、「芝、やわらかいな」が第一印象。あとで知ったら地球人は怒っていい。
でも本当に柔らかかった。よく手入れされている。足を置いた瞬間に分かる。踏み荒らしたくない種類の芝だった。この下で何百人かの庭師が、毎朝、夜明け前から、芝の長さをミリ単位でそろえている。式典や表敬のために、毎週のように刈られ、水をもらい、踏まれ、また整えられる。
その労力の上に、私はいま立っている。
前世の自分がガムを吐き捨てた駅前のアスファルトとは違う。
視線は刺さるようで、実際には音に近い。
ざわめきが、一瞬だけ引いた。
ああ、と思った。
この沈黙は、恐怖の沈黙だ。
そして、期待の沈黙でもある。
人類は、いま私を見ている。
国家も市場も宗教もネットも、その全部が、いったんこの一点へ集まっている。元地球人の私からすると、これほど気まずいことはない。全員が自分を見る会議なんて、部長面談でも嫌なのに、今のスケールは銀河間だ。
部長面談。
思い出しただけで、うっすらと嫌な汗が出そうになる。今の形態では汗は出ないが、比喩として。あのときも、部屋に入る前に三回深呼吸した。座る椅子の角度が中途半端で、身体をどこへ向けていいか分からなかった。部長の顔を真正面から見てはいけないし、机ばかり見るのも卑屈に見える。だから斜め四十五度の空中を見ていた。
今の私は、それの拡大版をやっている。
正面はリード大統領と城崎首相。斜め四十五度の空中には、世界中のカメラ。
逃げ場がない。
私はゆっくりと一歩を出した。
安定設定はまだ高い。高いが、一段だけ落としてある。そのせいで、自分の足音が前より大きく聞こえる。芝を踏む柔らかい音。衣の端がわずかに揺れる感触。肩甲の翼状構造に沿って流れる風。全部が少しだけ、私を「完璧」から遠ざける。
いい。
たぶん、これでいい。
*
リード大統領が見えた。
その左に、城崎首相。
さらに後方に宗教者、軍人、補佐官たち。みんな顔を作っている。作っているのが分かる。分かるけれど、その奥にある睡眠不足と怒りと恐怖と責任が隠し切れていない。
リード大統領の喉のあたりが固い。右の肩がわずかに上がっている。両手は意図的に身体の脇で自然に垂らされているが、指先が一度だけ軽く丸まってまた伸びた。怒りだ。怒りを、彼は取引の温度まで冷やそうとしている。
城崎首相はもっと静かだ。静かな分だけ危ない。あの人は今、私よりも先に、これが「どう見えるか」を計算している。
ここ数日のあいだ、私は何度も彼らの映像を見た。エゴサだけではない。公式声明、会議、記者会見、切り抜き、分析、嘘字幕、フェイク画像、その全部の中に彼らがいた。
画面越しの人物が、いま同じ空気の中にいる。
変な感じだった。
しかも、私はこの人たちに謝りたい。
謝りたいのに、最初の一言として口から出すわけにはいかない。
ここで「すみません、ちょっと安全装置をやりすぎました」と言ったら、たぶん全部終わる。いや、終わらないかもしれないが、少なくとも外交の教科書には載らない。そして、教科書に載らないタイプの謝罪は、国家元首相手ではただの軽視と読まれる可能性が高い。
だから私は、練習したとおり、平坦な表情で立ち止まり、発話の準備をした。
した。
その瞬間だった。
何かが空気を切る気配があった。
音ではない。音は遅い。地球人だった頃の私は、こういうものを「なんか嫌な感じ」としか呼べなかったと思う。視界の端の、わずかな収束。遠方の一点で、人間の意志がまっすぐ細くなる感じ。
そして、同時に。
怖い、と思った。
ものすごく普通に。
ヒッ、という、完全に格好のつかない方向の感情が、内側で跳ねた。
撃たれた。
そう理解するより先に、自動防御が先に仕事をした。私の前方数メートルで、透明な層が一瞬だけ白く曇る。そこへ何かが当たり、はじかれ、芝へ落ちた。
一発目。
頭が真っ白になった。
なったけれど、顔は動かなかった。安定設定と表情固定が勝手に維持してくれている。ありがたい。本当にありがたい。文明ありがとう。
群衆が遅れて悲鳴を上げる。
警備が動く。
肩越しに、CATの隊員が発動する気配がする。彼らの装備の音、靴底が芝を噛む音、短い無線符号。「Sierra,Sierra──敵狙撃。方位二七〇、仰角ゼロ度帯、建物屋根群」「Shield,Shield──シールド前進」「Pool to the ground──プール伏せろ」。
誰かが私に覆いかぶさろうとする。
やめて、と思った。危ないからではない。危なくはない。危なくはないけれど、そこで人類代表に覆いかぶさられると、絵面がすごく気まずい。それに、地球人があの白い曇りに触れたら、向こうにとってあまりよくない。私のシールドは、人間を弾く形で展開する。触れた人間の骨にひびが入る可能性がある。
*
そして二発目の気配が来た。
今度は、一発目より少し遅れて理解した。遠方の一点がもう一度、こちらへ意志を絞る。発砲の前振れ。こちらの文明では、あそこまで「撃つ」が見えるのかと、場違いに感心しそうになった。
次の瞬間、私は右手を上げていた。
上げていた、というのも半分嘘だ。正確には、危険排除用の局所出力が腕の動きと連動して発生した。つまり私は半自動で手を上げ、その先から細い光が走った。
銃弾と銃身が、遠方でほどける。
金属が粉になるのを、私は見た。
見たくなかった。
できればこんな目立つこと、やりたくなかった。
でも、やってしまった。
しかも、たぶん人類側からは、ものすごく「余裕でやった」ように見えている。
違う。
全然違う。
私はいま内心でほぼ土下座している。
余裕でやったように見える防御ほど、内心は土下座している。
撃たれたこと自体に驚いたし、怖かったし、なにより「うわ、これまた絶対に誤解される」と思っていた。
やばい。
やばい、やばい、やばい。
まただ。最初の通信のときと同じだ。私は善意か、せいぜい最低限の安全確保のつもりでやっていることを、いちばん大きくて、いちばん怖い形で見せてしまう。
たぶん今の二発目の処理も、人類側には「こいつはこちらの武器を秒で無力化できる」という理解として入る。正しい。正しいが、私の内心としては「ヒィッ、危なっ、もうやだ、帰りたい」である。
けれど、その本音を言うわけにはいかない。
私は一度だけ呼吸のような動作を挟み、表情を固定し直した。
固定し直した、ということは、少し崩れかけていたのだと思う。もし撮影倍率が異常に高ければ、一瞬だけ目が泳いだのが見えたかもしれない。見えていたら困る。いや、見えていても少しは人間味があっていいのかもしれない。でも今はまだだ。
今はまだ、だめだ。
私は口を開いた。
*
「抽象的すぎたようです」
出た声は、練習どおりの温度だった。
中身はぐしゃぐしゃなのに、外側だけがよく出来ている。最悪である。
「補足します。私は、あなたたちが理解できる範囲で十分に危険です。ですが、あなたたちを殺しに来たのではありません」
言いながら、私は自分の言葉の硬さに内心で頭を抱えた。
またこれだ。
もっと言い方があるだろう。たとえば、「びっくりしました」「怖がらせてごめんなさい」「でも大丈夫です」とか。そういう、人間が人間に言う感じの言葉。
なのに、土壇場になると私は“高位存在の定型文”へ逃げる。
なぜか。
たぶん、前世の会社員時代と同じだ。
怒られそうな場面ほど、人は自分の声ではなくテンプレートへ逃げる。謝罪文、定型回答、社内向けの無難な表現。「この度はご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございませんでした」「引き続き何卒よろしくお願い申し上げます」「お手数おかけしますが、ご確認のほどお願いいたします」。自分の言葉で責任を負いたくない時、人は格式へ逃げる。
私は何百年生きても、そこから完全には抜けていない。
たぶん抜けない。
そのことを、いまさら少しだけ受け入れた。
「安全を過剰に確保しました。修正します」
またしても、表現が硬い。
でも、前よりはいい。
私はその小さな前進に、場違いなくらいほっとした。
数百年生きた人格というのは、こういうところで期待を裏切る。悠然と宇宙を見下ろす賢者ではなく、「前回よりはマシな言い方ができたかもしれない」と少し安心するだけの、小さい達成感で出来ている。
それで十分だと思うしかない。
十分であるはずもないが、今日のところはそれしかない。
*
リード大統領の顔が見えた。
彼は恐怖と怒りをかなりうまく均していた。だが、均しきれてはいない。喉のあたりが固い。右の肩が少し上がっている。人間はそういうところに本音が出る。
城崎首相は、もっと静かだった。
静かな分だけ危ない。あの人は今、私よりも先に、これが「どう見えるか」を計算している。地球側の国家元首の中では、たぶんいちばん先に「いま大事なのは謝罪か、威厳か、次の質問か」を測っている顔だった。
私は、その顔を見て少しだけ救われた。
ああ、と思った。
この人たちは、ただ怯えているだけではない。処理しようとしている。意味にしようとしている。最初の会話を作ろうとしている。
なら、私も逃げてはいけない。
怖くても、帰りたくても、ここで黙るのは一番よくない。
私は視線を正面へ戻した。
風がまた吹く。
安定設定を一段落としたせいで、髪がほんの少し頬に触れた。くすぐったい。最悪のタイミングだ。私は衝動的にそれを払いたくなったが、ぎりぎりでやめた。今ここでぺしっと髪を払ったら、すべての映像分析者が「初の非言語反応」とか何とか言って騒ぐ未来が見える。
その未来は嫌だった。
嫌だったが、その嫌がり方自体がもう、かなり地球人的だとも思う。
「……驚かせたことについては、意図の外でした」
私はそう続けた。
言ってから、少しだけ息が楽になった。
完璧な謝罪ではない。謝罪としては弱いし、たぶん外交的にも中途半端だ。それでも、最初の通信や補足文よりは、自分の言葉に近かった。
*
──同時刻、ホワイトハウス地下、危機対応室。
天井の低い部屋で、壁一面のモニターに南芝生の映像が並んでいた。多角度、多倍率、熱源、音響、群衆密度、射線解析。右下の時計は連邦標準時で午後一時四十七分。ちょうど二発目の処理が終わった直後だった。
「CSTから報告。方位二七〇、三百二十メートル、東側建物屋根、シューター確保。負傷なし。銃身は粉末化。自動小銃、民間流通型の改造機種」
UPD指揮官の声は、意図的に平らにされていた。
「身元──照会中。顔認証ヒット、中西部出身、白人男性、四十代前半、失業状態、前妻との親権係争あり、過去三年間の処方薬履歴に抗うつ剤と鎮痛剤、オピオイド系の疑い。過去六か月のSNS投稿にアンチ・コンタクト系の陰謀論アカウントを複数フォロー」
「単独犯か」
副大統領代理が、短く訊いた。
「現時点では。共犯者ゼロを保証する根拠はまだありませんが、この射線位置に到達する許可を受けている第三者の記録はありません」
「届けは」
「地元の地方銃砲取扱い登録は通っています。合法購入の銃を改造した可能性が高い。NCIC類似システムで前科照会中。DV通報が二件、どちらも不起訴」
「よくあるパターンだ」
危機対応調整官が、冷えた声で言った。
「経済苦、家族崩壊、薬物、陰謀論。今回は対象が宇宙人になっただけで、構造は我々がずっと見てきたものと変わらない」
誰かが頷いた。
「問題は、対象が自動防御を持っていて、たぶんこの国の予備兵力の総和よりも余裕で強いということだ」
別の誰かが続けた。
「防御の作法が、攻撃と見分けがつかない」
映像の中で、南芝生に立った銀髪の個体が、右手を下ろし、表情を固定し直すのが見えた。
「発話開始します」
オペレーターが告げた。
部屋の全員が、一瞬だけ息を止めた。
スピーカーから、平坦な声が流れた。
──抽象的すぎたようです。
──補足します。私は、あなたたちが理解できる範囲で十分に危険です。ですが、あなたたちを殺しに来たのではありません。
──安全を過剰に確保しました。修正します。
──驚かせたことについては、意図の外でした。
部屋が沈黙した。
「……最後の一行」
広報責任者がぽつりと言った。
「あれだけ、人の言葉に近い」
誰もすぐには応じなかった。
やがて、危機対応調整官が低く言った。
「DEFCONは据え置きで行く。上げない。理由は、相手側がはっきり“修正します”と言ったからだ。修正するということは、こちらの反応を見ていて、こちらに合わせる意思があるということだ」
「敵性ではないと?」
「敵性かどうかは、まだ判断しない。ただ、こちらの反応を受信してこちらに合わせる対象であることは、今のでかなり確度が上がった」
統合軍事指揮センター類似の地下では、別の会議が同時に走っていた。戦略潜水艦への伝達系統、空母打撃群の位置、偵察衛星の窓、同盟国軍との通信ホットラインの確認。どこにも、新しい発令は加えられなかった。加えなかったこと自体が、判断だった。
*
──同時刻、東京、総理官邸、地下会議室。
鴨下真帆は、中継映像の前で息を止めていた。
目の前のモニターで、銀髪の個体が右手を下ろしたところだった。二発目の処理。金属が遠方で粉になる映像。十倍速に拡大した射線解析の赤い線。群衆の悲鳴と伏せる動き。
城崎総理は、ほんの数メートル先、現地にいる。中継越しでは、その後頭部しか見えない。後頭部が、ほんの少しだけ動いた。短く頷いた。
真帆は、ずっと城崎の表情を見ていた。
同じ部屋にいるときよりも、中継越しの方が、城崎の感情は読みやすい。たぶん、あの人は同じ部屋にいる相手に対しては二重三重にフィルターを掛ける癖がある。中継カメラの向こうの自分は、少しだけ素だ。
その素の後頭部が、いま、ほっとしていた。
銀髪の個体の、最後の一言を聞いて。
「──驚かせたことについては、意図の外でした」
真帆は、その声を、二度巻き戻して聞いた。
三度目は、音を切って、口の動きだけを見た。
四度目で、気づいた。
──あの子、いま、内心で謝っている。
根拠はなかった。平坦な声、固定された表情、整った所作。数値的には、どれも「余裕」の証拠にしかならない。二発の銃弾を、文字通り余裕で粉にした個体の姿だ。
なのに、真帆にはそうは見えなかった。
余裕でやったように見える防御ほど、内心は土下座している。
そんな言葉が、どこからともなく頭に浮かんだ。たぶん、この先自分が誰にも言わないタイプの言葉だった。言ったら、外交分析として失格になる。情緒で国を読むな、と叱られる。
でも、真帆はその第一印象を、自分の手帳の端にだけ書いた。
「余裕と見えるが、実はびびっている可能性」
鉛筆で、小さく。
あとで消せるように。
消せるように書いたが、たぶん消さないだろうと自分でも分かっていた。
隣に座っていた木原が、真帆の手元を一瞬見て、視線を戻した。何も言わなかった。それもまた、この官邸の作法だった。
テーブルの反対側では、防衛部門の城島補佐官が、別のモニターに向かって話していた。
「自衛隊、各方面隊、警戒水準据え置きを維持。上げない。理由は米側と共有」
彼の声も、意図的に平らにされていた。
真帆は、手帳の端のメモの下に、もう一行だけ書き足した。
「この子はたぶん、謝り方を知らないわけではない。ただ、謝る形式が違う」
書きながら、前世という言葉が、なぜか頭の隅をかすめた。
*
──同時刻、聖都、教皇公邸。
大型モニターの前に、黒い衣の男たちが並んで立っていた。椅子はあったが、誰も座っていなかった。
中央で、アレクシウス十三世は目を閉じていた。
映像は、二度目の攻撃処理の瞬間で止められている。
細い光が走り、遠方で金属が粉になる、その一フレーム。
「これは──」
若い枢機卿が、言いよどんだ。
「これは、罰でしょうか。あるいは、奇跡でしょうか。それとも、ただの技術でしょうか」
沈黙を破ったのは、教皇本人だった。
「どれでもあり、どれでもない」
目を閉じたまま、ゆっくりと続けた。
「あれは、処罰ではなかった。復讐でもなかった。報復でもなかった」
目を開けて、画面を見た。
「あれは、防御の作法だった。作法であるということは、規範に則っているということだ。規範に則っているということは、個体がひとりで決めたものではないということだ」
枢機卿たちが、わずかに身じろぎした。
「つまり、あの背後には、合意がある」
教皇は淡々と言った。
「我々が気にすべきは、撃ち返さなかったことでも、銃弾を粉にしたことでもない。その合意の中身だ。どういう合意が、彼らに『武器と弾のみを選択的に破壊し、射手の身体には触れない』という処置を採らせたのか」
沈黙があった。
「声明は、今日は出さない」
教皇は告げた。
「保留とする。我々は、彼女の言葉が『修正します』で終わったことを、まず黙って受け取る」
誰も異を唱えなかった。
広報担当の枢機卿だけが、小さく息をついた。
「ただ、祈りの言葉だけは、用意しておきます」
「そうしなさい」
教皇は短く応じた。
「祈りは、声明ではない。人の形から人の形へ渡す、いちばん古い形式だ。それは今日、まだ許されている」
*
──同時刻、マンハッタン。
株式市場は先週から停止していた。価格発見機能は封印されたまま、決済システムだけが動いている。
それでも、動かないはずの数字がいくつか、異常値を示していた。
金の先物。地域大手行のCDS。軍需関連の非上場債の気配値。主権国債のCDSスプレッド。
南芝生で二発の銃声が鳴った直後、それらの気配値が、ほんの一瞬だけ跳ねた。
誰が取引したのか、正確なところは分からない。停止市場の外で、指数連動のOTC契約を回している一握りのプレイヤーの動きが、かすかに滲んだだけだ。
ただ、その滲みは、防御成功の映像が配信された直後に、逆方向へ戻った。
「脅威が通用しない側に張った人間が、いた」
誰かがブルームバーグ風の端末に向かって呟いた。
「通用しない、しかし撃ち返してこない。その場合、普通は人類側の不利が強まると読む。読むはずなんだ」
「でも戻ってる」
「修正します、と言ったからだ」
「たった一言で」
「たった一言で、だ」
その端末の隣で、別のトレーダーが舌打ちした。
「言葉で市場が動く。最悪の状況だ。数字じゃないものが、数字を動かしてる」
彼は、画面を閉じて、ただ息を吐いた。
窓の外は、昼下がりだった。いつもより人通りが少なかった。
*
──同時刻、世界中のSNS。
短文SNSのトレンドに、新しいタグが一気に上がった。
#SouthLawn
#AndroShield
#TwoShots
#ShePardoned
#FindTheShooter
ショート動画アプリでは、二発目の処理を三秒に切り抜いた動画が、世界同時で数百本投稿された。再生数は一時間で億を超えた。コメント欄は多言語で混ざった。
*Did she just disintegrate the gun?*
*Didn't hurt the shooter. That's the point.*
*This is a warning shot for humanity.*
*No, this is restraint. Learn the word.*
*彼女、怖がってる顔してた気がする*
*いや表情ゼロだったろ*
*ゼロすぎるのが逆に怖い*
*そこじゃない、そこじゃない*
中東SNSでは、宗教者の解釈動画が流れた。「これは審判ではない、これは作法だ」と主張するシャイフもいれば、「審判の前触れだ」と語るイマームもいた。
中国国内SNSでは、関連ワードが検索結果から一時的に消えた。公式報道だけが流れた。「対応には細心の注意を払う」。それ以上は言わなかった。言わないこと自体が、いつものメッセージだった。
日本の地上波では、速報テロップが重なった。「南芝生で銃撃/アンドロメダ使節に着弾せず/米大統領は健在」。専門家と称する人々が、順番に電話でコメントを入れた。ほとんどが慎重な言い回しで、結論は避けた。結論を避けたのは、今日いちばん正しい姿勢だった。
米国の保守系ネット番組では、若いキャスターが興奮気味に叫んでいた。
「彼女は撃った人間を殺さなかった! この意味を分かるか! 彼女はもしかすると、我々の──」
ミュートされた。
別チャンネルでは、もっと落ち着いた論客が静かに言っていた。
「殺さなかったことと、我々の側に立っていることは、同じ意味ではない。殺さなかっただけだ。それ以上のことは、彼女はまだ何も示していない」
そのコメントは、切り抜きにされなかった。切り抜きにされるには、静かすぎた。
*
──テーブルへ案内されるまでの短い距離が、やけに長く感じられた。
歩幅は整っている。整っているが、内心は散らかっている。
私はいま、南芝生を歩いている。
ホワイトハウスの南芝生。
前世の私がニュースでしか見なかった場所。イベントも式典もチーム表敬も、ああいうものが行われる場所。そこを今、自分が歩いている。
変だ。
本当に変だ。
しかも私は、着地して数秒で撃たれた。
撃たれて、それでも帰らず、歩いて、座ろうとしている。
たぶんこの時点で、前世の私よりは少しだけ偉い。少しだけだが。
前世の私だったら、たぶん会議の途中でトイレに立ったふりをして、そのまま帰っていた。そういう小市民的撤退を、何度も実際にやった人間だ。帰って、家でカップ焼きそばを茹でて、ネットで誰かの愚痴を読んで、寝た。そしてたいてい、翌朝後悔した。
今日は、帰らない。
帰れない、が正しい。
でも、帰ろうと思わなかったのは事実だ。
それは、たぶん、小さな成長だ。
数百年分の、本当に小さな。
テーブルの手前で、私は一瞬だけ足の接地を誤りかけた。
本当に一瞬だ。
芝と仮設床材の切り替わりの硬さがわずかに違って、足首の補正が一拍遅れた。高い安定設定のままだったら起きなかった程度の、ほんの小さな乱れ。
私はそれを、誰にも見られないうちに回収した。
回収したのだけれど、その瞬間、なぜか少しだけ嬉しかった。
ああ、まだ転べるんだ、と思ったからだ。
もちろん、本当に転んだら最悪である。世界中の中継で、初接触の宇宙人が段差でこける。見たいような、見たくないような。たぶん歴史には残る。
でも、転ぶ可能性があるという事実そのものは、少しだけ私を楽にした。
完璧ではない。
だから、ここから先で少し失敗しても、全部が終わるわけではない。そう思えた。
*
私は席の前で立ち止まり、ようやくリードと城崎の目を正面から見た。
ここからが、本当の意味での会話だ。
撃たれた瞬間より、きっとこっちの方が怖い。
怖いけれど、怖いままでいいのかもしれない。
怖くなくなったら、たぶん私は完全に地球の外側へ行ってしまう。
それは、それで少し困る。
私は元地球人で、数百年生きて、いまはアンドロメダの市民で、そしてたぶん、そのどれにも完全にはなりきれていない。
なりきれていないから、ここにいる。
完璧な代表ではなく、半端な橋として。
それで足りるのかは分からない。
分からないけれど、もう始まってしまった。
リードが最初の言葉を探している。喉の奥で、取引の温度と、元軍人の本能と、政治家の計算が三つ巴で走っているのが見える。彼はたぶん、最初に「ようこそ」とは言わない。「ようこそ」は、彼の辞書には存在しない単語だ。でも「帰れ」とも言えない。撃った人間を殺さなかった相手に、帰れとは言えない。彼は彼なりに、新しい最初の一語を探している。
城崎は、その一拍を見守っている。
城崎が探しているのは、自分が話す番になったとき、自分の一言が、どの国際配信の一行目に切り取られるか、そのパターンのどれを取るか、だ。彼は一拍の余裕を自分に許している。許せるだけの冷静さを、まだ持っている。
私は無表情を保ったまま、内心でだけ深く頭を下げた。
すみません。
いろいろ、たぶん最初からやり方が悪かったです。
言葉のチョイスも、通信の時刻も、アバターの盛り方も、補足説明の量も、エゴサの頻度も、安定設定の段階調整も、全部、どこかで一つずつ間違えました。
でも、来たかったのは本当です。
交流したかったのも、本当です。
憧れていたのも、本当です。
あと、できれば、この会話が終わったあとで少しだけ、地球の空気をちゃんと吸ってみたい。
できれば河川敷で、花火を見たい。出店の焼きそばを食べたい。紙コップのぬるいビールを飲みたい。隣に座った知らないおばさんに「きれいねえ」と言われたい。
そんなことは、たぶん、今日は言わない方がいい。
今日は、言わない。
言わないけれど、いつか、この人たちの誰かに、一度だけでも伝えたい。
私は、ただ、そういう理由で、ここに来ました、と。
そんなことを考えながら、私は椅子へ手を伸ばした。
芝の匂いが、風に乗って、私の頬のあたりを通り過ぎていった。




