追記の追記
水瀬凜子は主婦だ。三十歳で学生時代からの友人の一人と結婚し、長男の颯太を授かった。
若い頃は大きな事務所に所属して雑誌モデルなども務めた美人だが、出産を経てぽっちゃりした現在は、誰が見ても普通のアラサー主婦にしか見えない。
若き日の彼女を知る友人知人の一部は陰で「昔はあんなすごい美人だったのに、歳はとりたくないわよねぇ」と笑っているが、凜子自身はまったくそう思わない。
若さと、それによる美しさにあふれていた頃。凜子は気が休まる日はほとんどなかった。
美女美少女が無限に存在する芸能界に入って、ようやく『埋没する』という安心感を得たくらいだ。
老いて一介の主婦になった今こそ、凛子は自分の人生をとり戻したと実感していた。
この先の人生に不安があるとすれば、息子の颯太が六歳で負った心臓の病気のこと。
そして妹の透子の将来だった。
透子が「結婚を前提に付き合っているの」と工藤謙人を連れて来た時、有り体に言えば、凜子は「失敗だ」と直感した。
透子は会社の御曹司の執拗なアプローチ――――ほぼセクハラから守ってくれた謙人を心から信頼していたが、生来の美貌ゆえに長年性質の悪い男達に悩まされてきた凜子の男を見抜く眼力は、ずば抜けている。
凜子にいわせれば工藤謙人は『見栄っ張りな男』、その一言だった。
見栄っ張りだから、社内で密かに人気の女子社員が困っていれば助けた。
見栄っ張りだから、社内で女子人気を自分と二分していた御曹司を拒絶した女性を助け、感謝されることに優越を感じた。
見栄っ張りだから、男性人気の高い女子社員を結婚相手に選び、見栄っ張りだから、透子より若くて『事務所所属』『元読者モデル』というわかりやすい肩書きを持った永井愛美が現れると、そちらに乗り換えた。
それだけの男だった。
ただ、透子はそこまで見抜くことができなかった。
姉を見てきて男性への苦手意識を育てた妹は、姉と違って男性への対処法や洞察力を身につけるのではなく、遠ざかるほうを選んだ。
そのため透子の男を見る目は、凜子に言わせれば「小学生レベル」に留まり、あの結果に終わった、と凜子は思っている。
とはいえ、凜子とて手をこまねいて妹の破局を見守っていたわけではない。
婚約前、凜子は透子に、工藤謙人が凜子から見て信用できる人物ではないことを、はっきり伝えていた。
そのうえで透子自身が「彼を信じる」と言ったのであれば、それはもう透子自身の選択であり、責任だ。
妹といえど、三十前の成人女性。姉がいつまでも口出ししていい年齢ではない。
仮にこれで失敗しても、それもまた人生の学び。工藤謙人も確実に透子を裏切ると決まったわけではなく、案外、向こうが透子に感化されて、誠実な人間に成長するかもしれない。
そう考え、妹の結婚が決まってからは、凜子は口をはさまずにいた。
結果、凜子は人生で三本の指に入る深さと激しさで、己の甘さを悔やむ羽目になるのだが。
それでも妹が事故に遭わず、生きて、くだらない男との離婚を成立させて、当選金も彼女一人のものになっていれば。
なにより、新たな幸せを得ていれば。
凜子もここまで悔い、恨むことはなかっただろう。
凜子を止めたのは妹の事故後、家族で見た不思議な夢の記憶だった。
妙にリアルなその夢で、妹は姉や両親に「大事なのは健康だから。もめごとに時間をとられるより、さっさと病気を治して、健康に長生きしてほしいの。約束!!」と訴えていた。
あの夢ゆえに、凜子も両親も工藤家と争うことを断念して、縁切りを選んだのだ。
今ふりかえれば、あの選択も間違っていたとは思わない。
凜子にも家庭があり、息子の将来がある。
いつまでも妹を傷つけた男にばかり、かまっているわけにはいかなかった。
しかし。
(最低限の借りは返さないと、ね)
きっぱり忘れて先に進むためにも。それは必要不可欠だった。
とはいえ、すぐに動いたわけではない。
遺産相続後。凜子も夫も両親も、まずは治療とそれぞれの仕事に専念した。
母と颯太はすぐに入院して様々な検査をくりかえし、凜子達夫婦と父は必要な準備のために駆けずりまわって、必要な書類に片っ端から記入していく。
手術が終わったあともすぐに退院できるわけではなく、退院しても経過観察があるので即、安心というわけにはいかない。
それでも幸い、母と息子の手術は成功し、術後の容態も安定して、後遺症などの気配もない。
凜子は忙殺されながらも、妹の事故から久々に幸せを感じた。
そしてその一方で、ひそかに借りを返す機会をうかがっていた。
凜子はすきま時間を利用して、忍耐強く永井愛美の情報を集めた。
察していたとおり、口が軽くて自己顕示欲の強い永井愛美は、芸能活動をしていることもあり、イ○スタやブロ○が大量にあっさり見つかった。
それら一つ一つに目を通していきながら、事務所時代の後輩達とも連絡をとる。
事務所に所属していても、モデルやタレントの多くはろくな仕事ももらえず、バイトや仕送りでしのいでいる者が大半だ。「奢るから出てこない?」と誘えば、ほいほいやって来る。
凜子は現役時代、愛美よりも大手の事務所に所属し、主戦力の一人にも数えられていた。読者モデルといっても、数回仕事をこなしただけで鳴かず飛ばずに終わった愛美とは、知名度も顔の広さも段違いなのだ。
凜子は、永井愛美と同じ事務所に所属する別のモデルが大きなCMに起用される話を知ると、そのCMのプロデューサーに連絡をとった。
そして彼に「永井愛美を最終候補に入れてほしい」と依頼した。
むろん、プロデューサーは難色を示した。
誰を起用するかで億単位の金額が左右される世界である。たかだか「昔の知り合いに頼まれた」程度で、知名度も実績もない三流モデルを起用するはずがない。
「もちろん、本当に起用する必要はないんです。ただ『起用するかも』と匂わせてくれれば。断る口実は用意してあります」
そういって、凜子はプロデューサーに一枚の紙を見せた。
それは、永井愛美と工藤謙人が透子の式をめちゃくちゃにした時の写真、そのプリンアウトだった。
新婦である妹の顔は隠して、身元がわからないようにしてある。けれどウェディングドレスを着ているし、なにより愛美は私服にヴェールをかぶり、白いタキシードを着た男性と手をとりあって笑顔で走り出しているのだから、状況は一目瞭然だ。
プロデューサーは了承した。
かくて、永井愛美は「急だけど、CMの最終選考に入ったって」と事務所から連絡をうけ、翌週「残念ですが、永井さんは落選です。匿名でこんな写真が」と、例のプリントアウトを突きつけられたのである。
CMはそのまま本来のモデルが起用され、愛美は事務所にも結婚式の件がばれて、クビとなったのである。
事情が事情なだけに、別の事務所に入り直すこともできない。この世界は存外せまいのだ。
凜子は、たんに事務所に密告して永井愛美をクビにするのではなく、わざわざCM起用の可能性をちらつかせて一度希望を見せることで、よりクビのショックを大きくしたのである。
ちなみにこのプロデューサーは女癖の悪い男で、凜子も現役時代によく困らされた一人であり(ただし凜子は逃げきった)、それも凜子が今回の話を持ちかけた理由の一つだ。
この男なら「CMに採用してほしければ…………」とタレントを誘うなど、日常茶飯事。
誘われた永井愛美が、どんな選択をするか。それは当人達の問題である。
凜子はあくまで写真を渡して「一時の夢を見せてやってほしい」と頼んだだけなのだから。
その後も、凜子は少し手を打った。
永井愛美は事務所をクビになったあともSNSはやめておらず、工藤謙人との結婚式でも大量の写真をアップしていた。
前妻が亡くなって一年も経たないうちに挙式する神経に、もはや怒りをとおりこして呆れ果てたものの、金のかかった古城ウェディングの写真を見て、凜子は確信した。
永井愛美はもろちん、工藤謙人も浮かれている。
二億は大金だが、二十代と三十代の夫婦が一生遊んで暮らしていける金額ではない。子供を持つ気があるなら、なおさらだ。
ならば話は早い。
凜子はすぐに事務所関連の後輩や知人に情報をばらまいた。
永井愛美が結婚した工藤謙人は、二億円を越える資産を持つ、と。
それで充分だった。
永井愛美の事務所仲間の女達は、愛美が資産を持つ男と結婚した幸運をやっかみ、そのやっかみや嫉妬は愛美の優越感の養分となった。
一方、愛美の周囲の男達は、愛美自身を養分にした。
タクやヒロト、その他の顔だけはいい男達は、愛美が金持ちのパトロンを得たと知るや、彼女をとりまいて誉めそやし、気持ちよく酔わせてお姫様気分を味わわせ、せっせと愛美から金を引き出した。
そして最終的には、愛美が夫の貯金を奪って自分達のもとに転がり込むよう、仕向けたのである。
その後SNSでは、愛美に群がる男達の何十万、何百万円という高額の買い物の報告がどっと増えた。億単位の貯金が底をつくのは時間の問題だ。
永井愛美本人は有名インフルエンサーを夢見てインス○などをつづけているが、フォロワー数はかわいらしいもので、とても商売にできる代物ではない。
金がなくなった永井愛美に魅力や価値を見出す男は、どれほど存在するか。
むろん永井愛美が勤労や反省に目覚めて、まっとうに生きていく可能性もゼロではない。だが泡銭による浪費を覚えた「お金はほしいけど、働くのは嫌」という若い娘の選ぶ道は、だいたい決まっている。
ここまで来れば、もう凛子のすることはなかったし、何かする必要もない。
永井愛美は一人で勝手に自滅していくだろう。
彼女は一度は資産を持つ夫を手に入れ、豊かに安全に暮らせる道も用意されていた。それを捨てたのは、永井愛美自身の選択にすぎないのだ。
数年後。愛美に応援されていた男達は鳴かず飛ばずに終わってホストクラブなどに流れ、愛美は彼らの常連客となる。
その頃には愛美自身もすっかり夜職が板につき、客として来た元夫とも偶然の再会を果たすこととなるのだった。
愛美の周辺に情報をばらまき終えた凜子は、昔の同級生の一部と連絡をとった。
同級生達も十年以上も経てば、いろいろあったのだろう。何人かは怪しげな情報商材やら投資やら宗教やらに手を染め、まともな友人達からは相手にされなくなっている。
凜子は彼らから定期的に送られてくる「久しぶりに食事でもどう?」のメールに「OK」と返してファミレスで会い「水瀬さん、ずいぶん変わったね…………」と驚かれるのを聞き流して「ちょっと愚痴っていい? 知り合いの話なんだけど」と、さり気なく工藤謙人の名前と連絡先、なにより資産額を吹聴した。
「いい話を聞いた」と思い込んだ同級生達は、さっそく工藤謙人に接触を試みる。
工藤謙人も、普段なら彼らの話に耳を貸さなかっただろう。
しかし人間、弱った時には本当に判断力が落ちるもので。
若い新妻に貯金の大半を持ち逃げされた工藤謙人は、出会ったばかりのよく知らない人間が勧める怪しげな銘柄に片端から手を出し、見事、大暴落を招いたのである。
その事実を凜子は父から聞かされた。
工藤謙人の親が父に連絡してきて『悪い女に引っかかって』全財産を失った息子の不幸を延々語り、家族三人いかに苦労しているか散々訴えた挙句、
「水瀬さんご夫婦にも、透子さんの遺産が一億ほど入りましたよね? 少しでいいから、支援していただけないでしょうか」
と、厚顔無恥なお願いをしてきたからである。
父は「うちは、妻と孫の治療費で使いきりました」と言い捨てて電話を切り、水瀬一家は全員、工藤家の番号をブロック設定にする。
「馬鹿じゃない? 取り分はあっちのほうが多かったのに、なんでこっちに無心するんだか」
まったく、長女のいうとおりだった。
実家の両親のもとに長女一家がやって来て、持参した大きなケーキを切り分ける。
手術後、母にも息子にも大きな異変や後遺症が出ずに一年たった、そのお祝いだった。
次女の遺影にも、ケーキの分け前が供えられる。
変わらぬ遺影の笑みに、ふと凜子は笑った。
「どうした?」
「なんか、変な気がして。あの子、今でもどこかで、元気に笑っている気がするの。あの子のキャラかしらね?」
「――――かもな」
父と娘は笑いあい「ママもじいじも、早く来ないと食べちゃうよ」という息子の声に呼ばれて、リビングに戻っていく。
「ただいまー」
玄関の扉が開いて、若い夫婦が帰宅する。妻の頭や外套には雪が少し、ビーズの飾りのように乗っている。
妻の肩にいたスズメが「ちゅん」と一声鳴いて、窓際へと、ぱたぱた移動した。
「まさかの雪でしたね。涼竹国は雪が早いんでしょうか」
「かもな。予想外だ、明日もっと薪を買い足そうぜ」
「幸い、今度の原稿の出版が決まりましたし」
「俺も仕事が見つかったしな。お互いに祝いだ、今夜は少し飲もうぜ」
妻の頭の雪を拭いた夫が、買ってきた小さな酒瓶を掲げて白い息と共に笑えば、妻も竈の火に薪を足しながら笑顔を返す。二人で用意したその日の夕食は、ちょっと豪華な献立になった。
「すずさん、どうぞ」
妻が米を盛った小皿をスズメに差し出すと、「ちゅん」とスズメが鳴く。
「え? すずさんもお酒ですか? スズメなのに? やめたほうが…………」
「ちゅんっ!」
スズメの要求に「ええ…………」と妻は戸惑うが、夫が「大丈夫だろ、女神の分身だし」というので、小皿に数滴分注いでみると、スズメは上機嫌で酒と米を交互についばみはじめる。
やれやれ、と妻は別の酒杯を卓に置いた。
「みんなも一杯どうぞ」
卓には数葉の写真が並べられている。
紅霞と翠柳の幼い頃の家族写真と、二人の結婚記念写真。
それから女神様のサービスでコピーして来てもらった、透子も映る水瀬家の家族写真。
そして透子と紅霞が寄り添って映る一葉。
裏に二人の名前と撮影した日付が記された、『結婚記念写真』だった。
やっと完結できました!




