いつもと違う朝
窓から差し込む朝日が、廊下の床に淡い光を落としている。
遠くから聞こえる鳥のさえずり。
木々を揺らす柔らかな風。
そして、朝の冷たい空気を運んでくる、薄い霧。
いつもと変わらない朝だった。
ただ一つ、今日が特別な日であることを除けば。
「……遅い」
廊下の壁に背を預けて小さく呟いた。
目の前に妹の部屋の扉。
返ってきたのは「もうちょっと!」という元気な返事だけ。
それから物音は続いているものの、一向に出てくる気配がない。
「トワー。まだー?」
「もうちょっとー!」
「それ、さっきも聞いたよ」
「今度こそ本当に! もうちょっとだから!」
扉の向こうからは何かをひっくり返したような音が響き、僕は思わず天井を仰いだ。
「えーっと……大丈夫?」
「だ、大丈夫! 何でもないよ!」
明らかに何でもなくない音だったが、本人がそう言うのなら仕方がない。
着替え中であろう部屋に入るわけにもいかないので、苦笑しながらもうしばらく待つことにした。
今日、妹のトワは十五歳になる。
そしてそれは、僕たち二人が故郷を離れて<冒険者>として旅立つ日を意味していた。
本来であれば、僕は数か月だけ早く旅に出ることもできた。
けれど、トワが十五歳になるまでは待つと決めていたのだ。
何しろ、幼い頃からずっと一緒だったのである。それこそ双子のように。
今さら妹を置いて一人で冒険に出るなどありえない。
「ノア!」
「はいはい、どうしたの?」
「ちょっと入ってきて!」
「着替え終わってる?」
「終わってるってば!」
念のため確認してから扉を開ける。
途端に、見慣れていたはずの妹の姿に目を奪われる。
トワは見慣れたいつもの部屋着や仕事着ではなく、真新しい旅装に身を包んでいた。
風を受けて翻りそうな軽やかな衣装。
動きやすさを重視した仕立てでありながら、白を基調とした布地にどこか神官の装束を思わせる意匠が施されている。
髪と同じ淡緑色の刺繍が装いに華を添えていた。
受け取った時に聞いた話だと、この旅装は母ミリアが若い頃に冒険者として、各地を巡っていた際の衣装を参考に作らせたものだという。
トワはその場でくるりと回ってみせた。
「どう? 似合ってる?」
「うん。すごく似合ってるよ」
「えへへ。でしょ?」
満足げに笑ったトワは、すぐにもう一度、鏡の前へと向き直る。
「でもね、ここの留め具がちょっと気になってて……」
「もしかして、それでずっと出てこなかったの?」
「だって初めての冒険だよ? ちゃんとしておきたいじゃん!」
「まあ、それはわかるけど」
そう言って肩をすくめる。気持ちは分からなくもない。
現に自分だって、今朝はいつもよりずっと早く目が覚めてしまったのだから。
両親から贈られたばかりの手甲と脚甲。
火の国の鍛冶師、グニル・スミスが鍛えたというそれらはピカピカの新品で傷一つない。
かつて父アインツが冒険者として活動していた頃の装備を模した僕の旅装も、どこか落ち着かないほどに真新しかった。
それでも、不思議と身体には馴染んでいる。今日から、これが自分たちの普段着になるのだ。
「ねえ、ノア」
「ん?」
「……楽しみだね」
鏡越しにトワが笑う。
先ほどまでの慌ただしさとは違う、少しだけ静かな笑顔だった。
僕も静かに頷く。
まだ見たことのない街。
会ったことのない人々。
知らない景色に、知らない魔物。
きっと、楽しいことばかりではないだろう。
父からは何度も、冒険者という仕事の厳しさを聞かされてきた。それでも。
「僕たち二人一緒なら、何とかなるよ」
僕がそう言うと、トワは一瞬きょとんとして、それから頬を膨らませた。
「もう! それじゃダメだよ!」
「え?」
「何とかなる、じゃなくて! 何とかするの!」
びしりと人差し指を突きつけられる。
「だって、私たちはこれから<冒険者>になるんだから!」
その自信がどこから湧いてくるのかさっぱり分からない。
けれど、こういうときの妹は昔から決まっている。
一度言い出したら、簡単には譲らない。
「……そうだね」
「うん!」
「じゃあ、まずは時間どおりに出発するところから頑張ろうか」
「……かっこよく決まったと思ったのに!」
次の瞬間、階下から母の声が響く。
「二人とも! ご飯が冷めちゃうわよー!」
「「はーい!」」
「それじゃあお先!」
階段を降りる僕を追いかけて、トワは慌てて部屋を飛び出してきた。
慌ただしい音を背中に感じながら小さく笑う。
きっと、これからも変わらない。
行く先がどこであっても、どんな冒険が待っていようとも。
トワはこうして、僕のことを追いかけてくれるだろう。
――少なくとも、この朝の僕は、そう信じていた。




