契約その212 Adult達の懇親会!
―――五月下旬、金曜日―――
徐氏堂駅東口側の繁華街に、夜しか開かない「バーさなぎ」という居酒屋があった。
店主の芽ヶ森紗凪は、今日もまたグラスを用意し、お客さんを待っていた。
少しすると、入り口のドアがゆっくりと開いた。
「はい、いらっしゃいませ」
入店してきたのは女性である。
紗凪は、その女性の姿を見て驚いた。
「あら先生!」
入店してきたのは、紗凪の娘、芽ヶ森アゲハの担任を務める丁井千夜だったからである。
「こんにちは。いや、こんばんはというべきですか」
丁井先生は、隣の座席にカバンを下ろしながら言う。
そういえば、ここはアゲハの母親が切り盛りしているバーだった。
それを思い出した丁井先生は、まるで家庭訪問だなとこっそりぼやいた。
「何にしますか?」
メニューを渡しながら紗凪が聞いた。
「そうですね……とりあえずまずは麦焼酎と焼き鳥を」
「わかりました」
しばらくして、麦焼酎と焼き鳥が出てきた。
「では、いただきます」
丁井先生はそう言うと、麦焼酎をぐいっと飲んだ後、焼き鳥に舌鼓を打った。
「うん。おいしいです」
焼き鳥を飲み込んでから、丁井先生は言った。
「本当ですか。ありがとうございます」
「次はレモンサワーをいただけますか?」
丁井先生は、メニューを指さしながら言った。
「はいただいま」
紗凪が、冷蔵庫から取り出した瓶のレモンサワーを注いでくれた。
それを一口飲む丁井先生。
さっきの麦焼酎も合わせて程よく酔っ払ってきたのか、丁井先生は自分が今回「バーさなぎ」を訪れた理由を紗凪に教えた。
「いやー、アタシは瀬楠家に度々お邪魔させて頂いているのですがね、あまりにも飲み過ぎだってんで外で飲んでこいって言われたんですよ」
丁井先生は照れくさそうに言った。
「あらそうなんですか」
瀬楠家……もとい瀬楠由仁の事は紗凪は娘からよく話は聞いていた。
「ユニはね、とにかくすごい女の子で!強くて!優しくて!前にヤクザに絡まれたでしょ?あの後のヤクザ退治もユニがやってくれたんだから!」
そう語る娘の顔は、まさに「恋する乙女」そのものだった。
紗凪は、結婚に失敗している。結婚前は優しかった夫が、結婚と同時に変貌した事を昨日の事の様に覚えている。
「恋は盲目」とはよく言ったものである。娘が自分と同じ失敗をしないか、紗凪は親としてそれが心配だった。
「……?どうかしました?」
いきなりぼうっとし始めた紗凪に、丁井先生が聞いた。
「あ、いえ……すみませんね……。お客さんの前で」
紗凪は、丁井先生に慌てて謝罪した。
「いえいえ。積もる話もあるでしょうし……そうだ。焼酎を一本下さい。奢りますよ」
「いえいえ。お客さんに……そんな悪いですわ」
丁井先生の厚意を、紗凪は断った。
「いえ、アタシが頼むんだから、誰に飲ませようがアタシの自由のはずです」
未成年以外には。と最後に付け加えて丁井先生は言った。
「そうですか……では一杯だけ……」
そこまで言うならと、紗凪は丁井先生の厚意を受ける事にした。
「では……乾杯」
二人は、互いにグラスを当てて乾杯した。
二人の大人の晩酌は、こうして始まったのだった。
しばらく二人で飲んでいると、普通に他の客も入ってくる。
丁井先生の貸切というわけではないのだから、当然と言えば突然である。
紗凪が他の客の相手をしている間、丁井先生は一人で飲んでいた。
それも数時間後には落ち着き、改めて乾杯をする事にする。
「それじゃあ改めて乾杯を……って大丈夫ですか!?」
紗凪が見たのは、すでにベロベロに酔っ払った丁井先生の姿だった。
紗凪が他の客の相手をしている間中ずっと飲んでいたのだ。
「これはちょっと……」
この状態では、乾杯もできそうにない。帰らせるしかないだろう。
紗凪が携帯を取り出してタクシー会社に電話しようとしたその時である。
「あーいたいた!」
そんな言葉が聞こえたかと思うと、入り口のドアが勢いよく開いた。
入ってきたのは、紗凪の娘のアゲハとユニである。
「あんまり飲むから由理にお酒取り上げられて!外で飲んでくるって言ってたから案の定ここにいたのか!」
ユニは帰りますよ!と言いながら、丁井先生に肩を貸してやる。
「アゲハはおれの逆の方を頼む」
ユニはそうアゲハに指示を出す。
「表に火殿グループの車が止まってくれてるから、そこまで何とか運ぼうか。お会計はどうする?」
そんなユニに、丁井先生がボヤボヤした口調で言う。
「アタシのサイフにカード入ってるから、それで支払いしてくれ〜」
ユニは、言われるままに隣の席に置いてあるカバンの中からサイフを取り出すと、カードを紗凪に渡す。
「カードに対応しててよかった」
ユニが呟く。
「じゃあこれで……」
ユニはそう言うと、丁井先生に自分の肩を貸してやると、それとは逆の肩に、丁井先生のカバンをかける。
「じゃあお母さん、またね。慌ただしくてごめん」
アゲハもユニと同じ様にした後、アゲハもそう言うと、退店しようとする。
「ちょっと待って!」
紗凪が三人を……いやユニを呼び止める。
「私ごとだけど、私は結婚に失敗してる。あなたはどうなの?私の娘を、ちゃんと幸せにできる?」
ずっと、心の中に溜め込んでいた、紗凪の本心であった。
それに対して、ユニは少し考えてから、紗凪の方を振り返って言った。
「……わかりません。だって自分が幸せかどうかを決めるのは、おれじゃなくてアゲハだから。でも少なくともおれ自身は、この子を幸せにしたいと、心からそう思っています」
「……そうですか……」
その返答を、紗凪は意外だと感じた。
「幸せにする」と、口先ではいくらでも言える。それはかつて紗凪が惚れたあの人も同じだった。
だがユニは違う。幸せかどうかはあくまで本人が決める事でユニにはわからないので、せめて「幸せにしたい」と言ったのである。
「でもねお母さん!安心して!ウチは幸せだから!」
アゲハはそう言いながら、母親にVサインを返した。
紗凪は、自分の娘がなぜ瀬楠家に移住したのか、その理由の一端が少しわかった様な気がした。
「せめて……後悔しないでねアゲハ。応援してるから」
母の言葉に、アゲハは大きく頷いたのだった。
改めて、三人はどれみが用意してくれた車に乗り込み走り去って行った。
その後ろ姿を、紗凪は見えなくなるまで見送ったのだった。
「娘を……よろしくお願いします」
紗凪は、心の中で静かに祈った。
その後、カードの支払い額を見て、丁井先生の酔いが一気に冷めた事は、また別の話である。
悪魔との契約条項 第二百十二条
瀬楠由仁は、彼女達全員を幸せにする。
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