1 ついにおれは嫌なばあさんに会いにいく
経営する原島芸能プロダクションは傾きだしていた。事務所の一角をパーティションで仕切った社長室で、原島義行は金策に苦悩していた。
パーティションの向こうから、原島プロに所属する女優と、そのマネージャーの工藤真也の笑い声が聞こえてくる。義行は、若白髪の目立ってきた頭をかきむしった。昼間から仕事もしないでと叱りたいところだが、それは自分の責任なのだ。
事務所のかかえる四人のタレントも、その四人をまとめて担当するマネージャーにも、経営状態についてはまだ知らせていない。義行はずっとそれを隠してきた。うすうす気づいているのは経理担当者だけだろう。
義行は三十九才、四年前に離婚し、一人娘は元妻が引き取った。マンションで一人暮らしを始めてから、身なりには気をつかってきた。羽振りの良かったころと同じ服装、同じ装身具で身をかためる。経営不振を気取られないためだ。
アラフォーとはいえ、身ぎれいで、なかなかの男前だと自負している。かつては銀座のおねえちゃんによくもてたものだ。若いころ、俳優を目指した時期もあった。芸能プロダクションの起業を思い立ったのも、そんな経緯からだ。
「今月はいよいよですよ」
社長室のなかに、経理担当の谷口征史が入ってきた。
いよいよ、というのは一回目の不渡りのことだが、パーティションで囲ってあるだけのスペースなので、所員の耳をはばかり、そんな曖昧な言い方をしてくるのだ。谷口は三十才、来月に子供が生まれる予定で、なおさら事務所の資金繰りが心配なのだろう。
「金策はおれにまかせろ。あてがなくはない」
義行は声をひそめた。
「本当にたのみますよ。夕月まひるがいてくれたらなあ」
「すんだ話しをくどくどするな。金は今日中になんとかする。心配するなって」
原島プロダクションは、夕月まひるの人気でもっていたようなものだ。彼女には、妙にはすっぱな魅力があり、演技力もあり、歌もそこそこうまい。なによりも、舌ったらずのトークが面白がられる。そのまひるが大手芸能プロダクションに引き抜かれた。思えば、それから原島プロの経営は悪化しだした。
まひるを担当していたマネージャーは彼女についていき、いまでは工藤真也一人で、残り四人の女性タレントの面倒をみている。まだ二十六才の真也にはさぞ重荷だろう。
「工藤さんには本当にお世話になってますう」
所属女優の日向まどかが言っている。
「いいよ。両手に花どころか、四人の美女に囲まれて、最っ高に幸せだから」
真也がなにか冗談を言い、二人そろって軽薄な笑い声をあげた。
あいつの心配はいらなさそうだ。
義行は立ち上がった。ついに、あのばあさんに頼むときがきたようだ。心当たりにはすべて融資を断られ、頼みの綱は原島君代だけとなった。君代は母親の姉で、義行の伯母にあたる。母より六才年上だから、いまでは七十才を超えている。
義行は三階にある事務所を出て、エレベーターで降りながら、ことのほか気が重かった。君代にはずいぶん世話になってきたが、できれば顔を合わせたくない相手でもあった。
雑居ビルを出て、原島プロダクションの看板を見上げる。初夏の陽射しが看板の角にあたって乱反射している。まぶしくて目をすがめた。
君代は二十七才のときに資産家と結婚し、三年で死別した。それからずっと独身をつらぬいている。子供はいない。義行は小学生のあいだ、共働きの父母に代わって、伯母の家で彼女に育ててもらった。
三十四才で脱サラした義行が事業を起こすにあたり、その資本金を出してくれたのが君代だった。彼女は事務所が間借りする、この雑居ビルのオーナーでもある。ずいぶん金を貯めこんでいるに違いない。いまでは君代は、有料老人ホームで優雅な暮らしをしている。その老人ホームは、ここから歩ける距離にあった。
なんとか借金を申し込めないものか。義行はどう伯母に切り出そうかと考えながら、裏通りの陽射しのふりそそぐアスファルトを歩きだした。
脱サラして芸能プロダクションを起こすと知った両親は猛反対した。足りない資金を出してくれる雰囲気ではなかった。そんなとき伯母が、不服そうな嫌な顔つきで、不足分を立て替えてくれた。
育ててもらっているときに聞いた話しでは、君代は昔から芸能界に興味があったらしい。時代劇俳優に入れ込んで、追っかけをしていたという。いままで再婚しなかったのは、その俳優に未練があるからだという。本当かどうかを本人に確かめたことはない。
義行は君代が苦手だった。うるさく教育され、伯母に頭が上がらないから――だけではない。性格的に合わないのだ。合う相手なんかいるだろうかと疑問にさえ思う。とくに金には細かい。義行が小学生のころには、おこづかいの使い方をとやかく言われた。融資を求めて頭を下げるのが憂鬱でしかたない。
場外馬券売り場のビルの前で足を止めた。
しばらくやってないなあ、と義行はギャンブラーの血が騒ぐのを感じた。ネットで馬券が買える時代に、ここまで訪れるのは昔からのファンだけだろう。義行もそうだ。伯母に融資を頼むくらいなら、事務所の金で大穴を当て、運営資金にあてたい誘惑にかられた。
それを思いとどまり、伯母のいる花園老人ホームに向かった。
その老人ホームは、ひっそりした住宅街にある、緑に囲まれた白亜の建物だ。白い外壁を見上げながら、入居金だけでも五千万はかかるだろうと見込みをつけた。原島プロの賃貸料も、その金にあてられているはずだ。そう考えると闘志がわいてきた。
――ぜったい融資をとりつけてみせる。
老人ホームに入ったのは午後三時過ぎだった。受付で身分を明かしてたずねると、いまの時間、君代は談話室でみんなとお茶を飲んでいるという。
この施設には今までに何回か来ていた。義行は、見通しのいい玄関ホールを抜け、一階にある談話室に向かった。
原島君代は入居者から離れ、フランス窓の前の席に一人で座っていた。白いカーテンをすかした陽射しが、君代のやせ細った姿を浮かび上がらせている。
「やあ、伯母さんの健やかな笑顔を見に来ましたよ」
義行はことさら陽気に近づいた。
君代の細い目が、じろりと向けられた。伯母は白い髪を結い上げ、骨ばった鼻をし、薄い唇の端を曲げている。背筋をぴんと伸ばし、不機嫌そうな顔をしているのは、いつもどおりだ。義行は、君代が笑っているのを見たことがなかった。
「なんの用だ? どうせ金の話しだろ」
「いやあ、事務所も近いし、たまにふと会いたくなるんですよ」
「会社の資金繰りが苦しいんじゃないのか」
「実はそうなんです。話しだけでも聞いてくれませんか。ここ、いいですか」
義行は、君代と差し向かいに座った。
「その事務所の賃貸料だが、三か月間、滞納しているのは知っているな」
「忘れるわけないですよ。あとでまとめて払いますから。三か月間、待ってもらって、本当に感謝しています。そのおかげで、なんとか会社を運営できているわけでして」
「おれは待つなんて一言も言ってねえぞ」
「小さい事務所ですが、タレントとスタッフを合わせて六人を抱えています。経営者ですから、みんなに給料を払わないといけない。なかには、来月に子供が生まれる男もいて、金が必要なんです。そこは理解してください」
「おれのふところにも、賃貸料を入れてもらわねばならない」
「伯母さんは、お金に困ってないじゃないですか。せっかくの財産を銀行に眠らせていたら、もったいないですよ。ここはあなたの甥に投資するつもりで、お願いします。今月さえ乗り切れれば、なんとかなりますから」
「おまえが金銭にだらしないのは子供のころも今も同じだ。おれは金で人を困らせない主義だ。貯めた金は全て、自分の葬式費用にあてる。死んだあとまで、親戚に迷惑をかけたくないからな。これからはいっさいおれに頼るな」
「よっぽど豪華な葬式になりますよ。伯母さんとお別れだなんて、まだまだ先の話じゃないですか。今回だけは、ねっ、この通りですから」
義行はテーブルに両手をつき、深ぶかと頭を下げた。
「だめだ。まずはビルの賃貸料を払ってもらう。今月中に、未納分をいくらかでも払わねば強制措置をとる。わかったな」
「わかったよ。もう、あんたには頼まない」
義行は頭を上げると同時に立ち上がった。
誰も好きこのんで頭を下げに来たわけじゃない。融資を受ける見込みがないとなった以上、嫌な伯母の顔なんか、一秒たりとも見ていたくない。
「あんたが死んだときには、おれが喪主になってやる。それはそれは立派な式にしてやるから、安心して往生しろよな」
そう言い捨てて歩きだした。乱暴な足取りになるのが自分でもわかった。二人のやりとりを見ていたらしい介護士や入居者の好奇の視線を感じた。くそっ、かまうものか――。
「楓には会っているか」
伯母の声で振り返った。
「三か月に一度会っている。娘がどうかしたか」
「なにか聞いているか」
「高校の勉強とか、部活をやめたとか、それがどうした」
「なんでもねえ」
君代がティーカップを手にし、しらっとした顔つきで紅茶をすすりだした。義行の質問には答える気はないらしい。
腹立つ義行はエントランスを出た。君代の機嫌をとろうと愛想をよくしたにもかかわらず、真反対の態度をとられ、なおさら腹がたった。
君代の亭主は結婚して三年でこの世を去った。妻の性格にたえられなかったのではないか。あの伯母とよく結婚する気になったと感心さえする。婚約をとりつけるまで、よほど猫をかぶっていたに違いない。化け猫め――。
ふと、娘の楓がどうしているかと気になった。
先月の末に会ったときには、とくに変わった話は出なかった。ときに君代に会いに行くのだろうか。さてはおれの悪口でもふきこんだかと疑い、まさか、と打ち消した。楓は高校二年生だ。おおかたボーイフレンドができたとか、ふられたとかで大伯母に相談したのだろう。いまどきの十七才ならめずらしい話じゃない。
金策のあてはつきた。事務所には戻らず、経理の谷口にはメールした。あいつとは顔を合わせたくない。すると、『どうでした?』と返信があり、『まずまずだ』と返した。
翌日、出社すると、すでに来ていた谷口がまっさきに近づいた。
聞かれる内容は予想がついた。
「社長、きのう――」と切り出されて、義行は身構える。「わたしの帰りまぎわに娘さんが見えられましたよ。なにか用事があるみたいでしたけれど」
「楓が来たのか。用事とはなんだ?」
「そこまでは聞いていません。社長のスケジュールを訊かれたので、一日中、仕事で忙しく歩きまわっています、と応えておきました」
仕事とは金策だが、なんだか嫌味に聞こえる。
「わかった。娘には、あとでおれから連絡する」
そう応えて、パーティションのなかの社長室に入った。
携帯電話の連絡先から娘の番号を探す。画面に表示されている時刻を見て、楓はいま授業中だと気づいた。昼休みを待ってかけよう、と携帯を机に置いた。
楓のことが気にかかる。ボーイフレンドがらみだろうか。おれの娘だけあって、なかなかの美人だ。高校生になって、いっそうきれいになった。男子生徒からはもてるだろう――。
義行は携帯をまた取り出す。思いなおしてポケットにしまった。
昼休みに喫茶店から電話した。
「お父さんに相談というか、お願いしたいことがあって」
がやがやした人声のなかから、楓の澄んだ声が伝わった。
「電話では、できない頼みなのか」
「そういうわけじゃないけれど、お父さんと会って話したいから」
「わかった。明日の午後三時でどうだ? おれの事務所で会おう」
そう約束して電話を切った。
『お願いしたいこと――』ボーイフレンドの相談ではなさそうだ。親権はないが、自分の娘には変わらない。ほっと肩の力が抜けるのを感じた。
翌日、義行は、楓が事務所を訪れる一時間前からそわそわと落ち着かなかった。三か月に一度しか会えなくなって、いっそう娘に対する関心が強まったらしい。いっしょに暮らしていたときはそれほどでもなかったのにと不思議に感じた。
秋山楓は午後三時少し前に事務所にあらわれた。
「やあ、今月の面会はこれで二回目だな」
「そうね」
簡単な挨拶のあと、それだけ言ってすぐパーティションのなかにみちびいた。マネージャーの真也が、興味深そうな視線を向けてきたが、なにも応えてやらなかった。
「わたしを女優として、お父さんの事務所に入れてもらえないかしら」
楓はそう切り出した。
義行には意外だった。娘が女優志望だとは、今のいままで知らなかった。聞けば、高校に入ってから何度もオーディションに応募しているという。全て落選だったらしい。
「母さんは、おまえの希望を知っているのか」
たずねると、楓は視線を落として首を振った。
まあ、そうだろうな。
芸能プロダクションを起こすにあたり、一番、反対したのは妻だった。それがもとでついには離婚した。夕月まひるを見いだし、ブレークしたときには、見返してやったと得意になれた。今では見る影もないけれど。元妻は芸能界にいい印象をもっていないはずだ。楓が母親に相談できなかったのも無理はない。となると――。
「おまえ、君代伯母さんに会いに行ったか」
「えっ」と二重の目がまたたき、「一度だけ。けれど、この話しを伯母さんにはしていないよ。お父さんに打ち明けたのが初めてだから」
「そうか。うちと契約するなら、お母さんの同意が必要だぞ」
「それでお願いなんだけれど、こんどプロジェクト大和で時代映画を作るの」
それは、いまもっとも注目を集めている自主制作映画チームだ。夕月まひるのブレークのきっかけになった映画を作った団体でもある。チームを立ち上げた大和満監督は、いまでは商業映画でも活躍している若手の注目株だ。大和監督が新作映画を作るにあたり、その俳優をオーディションで決めるという。
「原島プロから応募できないかしら」
個人で応募した書類はことごとく書類審査の段階で落とされたという。所属事務所の推薦が欲しいと考えたのだろう。夕月まひるを見いだした原島プロからとなれば、大和監督の興味をひくかもしれない。
「お母さんに内緒で、うちから応募書類を送るのはいいが、オーディションに受かって出演するとなれば、やはり、お母さんの同意が必要だぞ」
「受からないから大丈夫」
「おいおい、なんのために応募するんだ」
義行もかつては俳優を目指した。血は争えないものだと嬉しくなる。芸能界での成功はギャンブルみたいなものだ。賭けてみなければわからない。身内のギャンブラーの血が熱くたぎる。頭のなかでは、競馬のファンファーレが高だかと鳴りひびいていた。
黙りこんでしまった楓に、
「応募の締め切りはいつだ? おれのところから書類を送るのはかまわない。うちとの契約の話は、ひとまず保留としよう。お母さんには、まだ黙っていたほうがいいな。もし受かった場合は、おれから母さんに話しをつけるよ」
「お父さん、ありがとう」
楓の表情がぱっと輝いた。
はずむ足どりで事務所を出ていく娘の姿を見送りながら、なんとしても原島プロを立て直さなければならない、と義行は決意をあらたにした。
義行は帰り支度をはじめた。窓の外で車の止まる音がした。ブラインドの隙間からのぞくと、ケアセンターのライトバンがビルに横づけされている。
ほどなく事務所のドアが荒あらしく開けられた。
「滞納している家賃を回収にきた。神妙に支払え」
入ってきたのは君代だ。ぼくとつそうな青年を引き連れている。彼は、がっちりした体を青いジャージに包み、丸めた紙の束を片手に持つ。
「なんだよ、伯母さん。家賃はいずれ払うって約束したじゃないか」
「――滞納?」経理の谷口の顔が青ざめていた。
うすうす感づいていた谷口も、事態はいっそう深刻なんだと、おののいたに違いない。
事務所に残っていた女優の日向まどかとマネージャーの真也が、意外そうに顔を見合わせている。ついに事務所の人間にばれた。
「なんだ。ろくなものがねえな。そのパソコンを差し押さえろ」
君代に命じられた青年が、真也の机にあるノートパソコンに、『差し押さえ』とプリントされた張り紙をはりつける。
「おい、なにしやがるんだ」真也がくってかかった。
「そいつも差し押さえろ」
真也の額に、ぺたりと張り紙が貼られる。
さらに君代の指示で、テレビ、エアコン、ファックス、コピー機などに、青年が紙を貼っていく。社長室のパーティションにも手をつけられ、
「おまえは誰だ? なんの権利があって、こんな真似をする?」
義行は、青年の腕をつかんだ。
「ぼくは君代さんのヘルパーの福田っす」
よけいなヘルプをしやがって。義行は、かあっと頭に血が昇るのを感じた。
「滞納した家賃を払うまで、差し押さえた品は使ってはなんねえぞ。さらに、今月中になんらかの誠意を見せねば、このビルから出て行ってもらうからな」
君代が、強い目を向けて宣言した。
――本当に嫌なばあさんだ。
続