2 娘が映画のオーディションに応募する
|原島義行は仕事机を前に、どうしても落ち着けなかった。パーティションで仕切っただけの社長室ではあったが、あの仕切りがあるのとないのとでは、まるで勝手が違う。なんとも心もとない。資金繰りがいっそう心配になった。
『これは抵当にあずかる。もはや、おまえは社長でもなんでもねえ』
と伯母の君代に決めつけられ、福田と名のったヘルパーの手で、パーティションを持っていかれた。
あれをいったい何に使うんだ? 老人ホームの談話室では、伯母は一人で座っていた。その周囲に仕切りを立て、人嫌いを決めこむつもりだろうか――。
そのとき工藤真也の能天気な笑い声がした。
またもや、日向まどかとバカ話をしている。いままで黙認していたのは、仕事が暇なのは自分の責任だと自覚していたからだ。それも、さぼっている姿が見えなかったから我慢できたのだろう。目の前でやられると、むやみに腹がたつ。
「おい、真也。四時の打ち合わせに、日向まどかと行くんだろ」
思わず、義行はどなりつけていた。
「だめですって。おれの体は債権者に差し押さえられてますから。事務所の家賃を払うまで使ってはなんねえぞって、あのばあさんに言われたじゃないですか」
真也がふてくされた顔つきで、言い返しやがった。
「おまえには給料を払っているんだ。仕事はちゃんとしろよな。おれは出かける」
「わかってますって。ほんと冗談が通じないんだから」
真也の顔を見ているだけで、いらいらがつのってくる。とくに金策のあてはないが、こんな落ち着かない場所には、もう一分たりともいたくない。
義行は立ち上がる。
「――社長」
パソコンの前から、経理の谷口征史が青ざめた顔を向けてきた。
「心配するな。金は今日じゅうになんとかする」
何度も同じ言葉を聞かされているせいか、谷口が疑わしげな表情をうかべる。こいつの不安そうな顔も、もはや一秒たりとも見ていたくない。
義行は事務所のある雑居ビルを出て、あてもなく歩きだした。
やはり、伯母になんとかしてもらうしかない。それでも土下座して頼むのはしゃくにさわる。事務所の備品に差し押さえの貼り紙をされ、社長室まで奪われた。そんな嫌がらせを受けたうえは、なおさら頭を下げたくない。
会うか否かと決断に迷っているうちに、伯母の居住する老人ホームが見えてきた。白い塀にもうけられた立派な門の前を素通りし、義行の足はその施設から遠ざかった。
――伯母の嫌な顔なんか、二度と見たくない。
義行は、目に止まった喫茶店に入った。
アイスコーヒーを頼み、顔の汗をぬぐって一息ついた。外はむしむしと暑かった。沖縄では梅雨入りしたらしい。コーヒーが来るのを待つあいだ、スマートフォンで、劇団〈トビ猫〉のホームページを開いた。
娘の楓が高校の映画研究会をやめたのは知っていた。劇団〈トビ猫〉で活動しているのは、先日、娘が原島プロにやって来たとき初めて聞いた。
母親が芸能界にいい印象をもっていないので、娘は周囲には黙っていただけで、ずっと女優の夢を持ち続けていたのだろう。そうとわかっただけに、できるだけ娘の力になりたい。おり悪しく事務所が経営難におちいった。義行は歯がゆくてしかたない。
劇団〈トビ猫〉の所在地は、楓の通う高校の最寄り駅に近かった。活動は火曜日と金曜日の週二回、午後五時半から九時半頃までだ。そして今日がその活動日にあたる。
義行は娘の舞台稽古をのぞくつもりだ。父親として稽古場にあらわれたら娘は嫌がるだろうが、事務所の社長の立場として演技の下見をするならいいだろう。
喫茶店で四時半まで時間をつぶし、劇団〈トビ猫〉に向かった。
その稽古場は、古いビルの地下一階にあった。地上から直接、せまい階段を下り、突き当たりの両開き扉の前が受付カウンターだった。
原島プロの名刺を渡すと、係員はすぐに通してくれた。いまだ無名の事務所だが、『芸能プロダクション社長』の肩書は、いまでも有効だった。
義行は両開き扉を開け、薄暗い稽古場に入った。
そこは小学校の教室ほどの大きさで、奥の舞台で稽古が行なわれていた。舞台の前に、五、六人の人影が立っている。義行は扉のかたわらから、劇団員の演技に見入った。
ほどなく場面が変わり、楓が登場した。
舞台に運び込まれたベッドに、古い異国風の衣装をまとった楓が腰かける。そわそわと落ち着かない演技をはじめた。誰かが来るのを待っている様子だ。
はっと楓の表情が変わり、待ち人があらわれたらしい。立ち上がった楓の視線は不安定で、その足取りはおぼつかない。盲目の人物を演じているのだろうか。
楓の手がとられ、その顔に喜色が浮かぶ。相手の体に腕をまわし、爪先立ちすると、瞳を閉じて熱烈なキスを交わす。だが、その恋人は舞台にいないのだ。全ては楓の一人芝居だった。
いったい、これは――?
劇団〈トビ猫〉の来月の演目が、『新透明人間』だった。ヒロインの恋人は、誰の目にも見えないのだ。そして盲目の彼女には、その事実がわからない。そんな二人の逢瀬をパントマイムだけで演じる。
なんて難しい役柄だ、と義行は感じいった。
楓の演技は自信にあふれていた。オーディションを受けたいと打ち明けたときの、受からないから――とうつむいた娘とは別人のようだ。今回、ヒロインに抜擢されたのも、それだけの演技力が劇団主宰者に認められたからだろう。
ヒロインの顔つき、しぐさ、肢体の動きから、その恋人が目に見えるようだ。もし娘に彼氏ができたら、あんなふるまいをするのかと想像し、義行はかーっと身内が熱くなった。
ヒロインをかばった透明人間の恋人が、そのために命を落とし、舞台は暗転した。
照明がつくと、なかなかの男前が舞台に横たわり、その胸にヒロインがとりすがっている。二人の周囲には、悲しみにくれる役者がたたずむ。命をうしなった恋人は、その代わりに目に見える姿となり、これで終幕となった。
義行は思わず大きな拍手をしていた。
その場にいた全員が驚いた顔で振り返った。稽古に集中するあまり、部外者の義行の闖入には気づかなかった様子だ。
劇団〈トビ猫〉の主宰は猫丸太夫とあった。主宰者らしき男の顔に見覚えがあった。
「原島じゃないか。おれ、飛山だよ」
呼びかけてきたのは、若いころ、俳優養成所の仲間だった飛山浩明だ。義行とは同年配だが、頭はすでにはげあがり、両頬はたるみ、目だけがぱっちりしている。小太りの体を丸め、スイートピーのアロハに短パンだ。
「おう、なつかしいな。劇団を主宰しているとは知らなかった」
彼は猫好きで、自宅に何十匹も猫を飼っていた。おっとりした雰囲気が、どこか猫を思わせる。ペットは飼い主に似るというが、飛山のほうが猫の影響を受けているようだ。
「芸能プロダクションを起こしたそうだな。まだ続いているのか」
原島プロが羽振りのよかったころ、その噂を聞いたのだろう。
「当たりまえだろ」かろうじてだけどな。
すると舞台に横たわっていた男前が、すぐさま近づいてきた。
「その社長が稽古の下見ですか。ヒロインの恋人を演じたおれの演技、どうでした?」
おまえは何もしていないだろ、と言いたいところを、
「迫真の死んだふりだったよ」と、大人の対応をした。
「――お父さん。どうして?」
片手を口にあてた楓が、驚き半分、恥ずかしさ半分といった様子で立っている。
飛山主宰のぱっちりした目が、義行と楓のあいだを行き来する。二人の関係がわかり、その場にいる七、八人の劇団員が、言葉を交わしはじめた。原島プロの社長が父親だと、楓は劇団の誰にも言わなかったらしい。
「そうか、秋山楓はあんたの娘か。――秋山?」
「そういうわけだ。せんさくするなよ」
「悪かった。人生にはいろいろあるからな。おまえもおれもな」
眠り猫を思わせる、とろんとした顔つきになって言った。
それから飛山を中心に、劇団員の反省会が始まり、午後九時半少し過ぎに終了した。ビルの前で団員と別れた楓と、義行は歩きだした。
「劇団に入っていると聞いたとき、あんなに活躍しているとは思わなかった。女優志望だなんて、いままで一度も話してくれなかったじゃないか」
「ずっと芸能界で仕事をしてきたお父さんに打ち明けたら、女優を目指すのはそんなに甘いもんじゃないって、しかられると思ったから」
「バカ言え。どうして、おれがしかる」
確かに女優の世界は厳しい。そんな道に踏みだそうとする娘を、思いとどまらせたい気持ちはある。だが、なにを目指そうと楽な商売はない。どんなに大変だろうと、好きなら続けられる。どれだけ好きになれるかが、その人物の才能だ。それを試したいと娘が望むなら、おれは全力でサポートしよう。
駅までくると、自宅まで送ると言って、楓と同じ電車に乗った。
楓は、飛山が義行の古い仲間だと知っていたという。ネット検索で、高校の最寄り駅近くに劇団〈トビ猫〉を見つけたとき、その主宰の経歴も調べたらしい。過去に飛山と共演した映画から義行との関係を知り、劇団に応募したという。
「だからわたしのお父さんだって、主宰は知っていたのよ」
「そうなのか。さっきの初めて聞いたという態度は、あいつの芝居か」
飛山との出会いは、かならずしも偶然ではなかったようだ。食えないやつだ、となんだか愉快な気分になった。
知人の娘だと劇団員に知られると、楓を配役するさい、その便宜を疑われる。そうならないための配慮かもしれない。おっとりした雰囲気で抜け目がないのは、昔も今も変わらない。猫かぶりめ。
最寄り駅で降り、月に照らされた川沿いの道を楓と歩いた。
娘と並んで歩くのは何年ぶりだろう? 年四回の面会では、店で差し向かいに座って話すだけだ。ふと、外灯に照らし出された娘の横顔が、ぞっとするほど美しく見えた。
自宅マンションのオートロックの前で楓と別れかけた。
「前に相談されたオーディションの書類だが」
振り返った楓に向かって、
「うちの事務所から応募しておいた。書類審査さえ通れば、ひょっとするかもしれないぞ。きょうの楓の演技を見て、そう思った。見えない恋人には嫉妬を覚えたほどだ」
「本当に? ありがとう、お父さん」
楓が嬉しそうに言い、はずむ足どりで、オートロックのなかに消えた。
オーディションに受かるかもしれないというのは親の欲目じゃない。これでも芸能界でずっと飯を食ってきた男だ。役者を見る目はある。娘の力になるためにも、ここは会社を立て直さなければならない、そう決意をあらたにした。
五月末になり、原島プロダクションは一回目の不渡りを出した。
義行は自分の机の前で頭を抱え込んでしまった。
一回では取引停止にはならないが、その事実は全金融機関に知れ渡る。融資を受けられる可能性は、まずなくなるだろう。二回目の不渡りは六月八日に出る予定だ。その日が、原島プロの最後の日になる。銀行取引ができなくなれば、業務は困難となり、事実上の倒産だ。
「社長、帳簿の数字をいじりましたよね」
目の下にくまをつくった谷口が、うらめしげに続ける。
「実際に不渡りが出るまで、ここまでひどい状態だったとは気づきませんでした」
「おまえに余計な心配はかけたくなかったんだ」
「いっそう不安になりました。つぎの支払い期日までに必要なのは二百万円となっています。本当に二百万ですか? もう数字をごまかしていないですよね」
「ごまかしていない。なに、たったの二百万円だ」
「いまの経営状態では致命的な額じゃないですか」
「きょうを入れて、まだ十一日ある。それまでに、足りないぶんはおれがかき集めてくる。おまえは会社の心配より、臨月の奥さんを気にかけてやれ。原島プロは倒産しない。おまえも奥さんも、生まれてくる子供も安泰だ」
「金策のあてはあるって、あったためしがないじゃないですか」
谷口が涙声で言い、ずるずると鼻をすする。
「今回は本当にある。古い知り合いに――」
飛山浩明の、おっとりした顔が浮かんだ。
「心当たりに電話してみる」
義行は携帯電話を取り出した。
飛山はたくさんの猫と暮らしていて、まだ独身なのではないか。道楽で劇団を立ち上げるくらいだ、金に不自由していないかもしれない。試してみる価値はあるだろう。
「もしもし、原島だ。この前は、あまり話せなかったな」
谷口が、じっと耳をすましている。
義行は席を立ち、廊下に出て、飛山と会話を続けた。今日、ひさしぶりに飲まないかと誘うと、稽古の終わる午後九時半ならいいという。十時に劇団の最寄り駅で約束した。
事務所に戻ると、谷口のうらめしげな顔に迎えられた。
「話しはついたぞ。よかったな、谷口」
ことさら陽気に報告した。飛山には、なんとしても借金を承諾させよう。
定刻より早めに仕事を切り上げ、事務所を出た。ここにいると、谷口がちらちら視線をよこすので、気づまりでしかたない。
飛山と約束した時間にはずいぶん早いので、映画を一本見てから、待ち合わせた駅に向かった。
飛山は約束より三十分遅れてあらわれた。
「すまない。稽古が少し長引いた。おわびに今日はおごるよ」
「いやいや、いいんだ。おれもいま来たばかりだから」
二百万円を借りようというのに、高だか五、六千円を払わせるわけにはいかない。遅刻したくらいで、おごると言うんだ、これは期待できそうだぞ。
義行は飛山と飲み屋街に入り、目についた居酒屋に入った。
「劇団を立ち上げたとは驚いたよ。いまでも芝居は続けているんだな」
乾杯のあと、義行はそう水を向けてみた。
「実は、会ったこともない伯母が死んで、思いがけず遺産が入った。それを元手に旗揚げしたわけだ。道楽みたいなもんだよ。劇団の収益は望んでいない。逆に運営費がかさんで、自分の貯金を切りくずしているのが現状だ」
ビンゴ! どうやら当たりを引いたみたいだぞ。
「いずれは、劇団〈トビ猫〉で名前を売る気はないのか」
「ないなあ。もうプロの世界にはうんざりだよ。芝居はあくまで趣味だ。おれが育てた役者が、大きな舞台に跳びだしてくれれば、それで満足だよ」
「おれの娘の秋山楓なんだが、どうだろう?」
「あんたも目をつけたか。もと奥さんに渡したのが惜しくなったんだろ。あの娘はまだのびるぞ。これはお世辞じゃない。アングラでうもれてちゃいけない。もっと注目度の高い芝居に出て、おおいに箔をつけたほうがいい」
「本人は、プロジェクト大和のオーディションに出たい、と言っているんだ」
「大和満の監督作品か。若手の監督のホープだろ。それはいい」
「実は原島プロダクションから、すでにオーディションの応募書類を送った」
「それで気にしていたのか。うちから引き抜くのはかまわない。オーディションに受かったとして、クランクインはずっと先だろう。〈トビ猫〉の公演に影響はない。むしろ、楓ちゃんを応援したいくらいだよ。これは前祝いだ」
飛山が店員を呼び、ジョッキをふたつ追加した。
二人でひとしきり飲むうち、飛山の目が細く垂れてきた。〈眠り猫〉みたいに柔和な表情になる。酒好きの飛山だが、多く飲める口ではない。いい心持ちになってきたらしい。
「肝心の原島プロダクションの調子はどうなんだ?」
とろんとした目つきで、飛山が訊いてきた。
「うん。実は一回目の不渡りを出した。来月の八日には二回目が出る予定だ。そこで相談なんだが、少しばかり金を融通できないか」
「なるほどねえ。で、いくら必要なんだ?」
「二百万ほどだ。全額とは言わない。できる限りでいいから、なんとかならないか」
「おれも助けたいのはやまやまなんだが、さっきも言ったとおり、〈トビ猫〉を運営するので、伯母の遺産は減っていくいっぽうなんだ」
「そこをなんとか」
義行はテーブルに額をこすりつけた。
「そうだなあ。ここは楓ちゃんのためだ。百万……百十万円だったら都合しよう」
「ありがとう。恩にきるよ。残り九十万円なら、支払い期日までになんとかなるだろう。原島プロの底力で稼ぎだしてみせる」
義行は飛山の両手をつかみ、何度も頭を下げた。あの嫌な伯母に下げるのを思えば、これくらいなんでもない。酔いと感動で顔がのぼせあがった。
不渡りを回避できるめどが立ち、義行はほっと安堵した。金策の成功を祝い、自宅に戻ってウイスキーで祝杯をあげた。いままでは融資を求めてずっと走りまわっていたが、週末はひさしぶりにくつろいだ気分で過ごせた。
週があけて、六月一日、月曜日の朝――。
義行は携帯電話の着信音で目覚めた。
「――社長。事務所に入れないんですけれど」
経理の谷口から事情を聞いたとたん、義行の眠気はふきとんだ。
冷たい水で顔を洗い、急いで身支度をととのえる。身体が汗くさいのに気づき、オーデコロンをたっぷりふりかけた。
原島プロダクションに着いたのは、午前九時十分だった。
三階の事務所のドアの前には、谷口をはじめ、マネージャーの真也、所属女優のあわせて五人が顔をそろえていた。ドアには大きな貼り紙がしてあった。
『立ち退き命令。賃借人である原島義行は、再三の警告にもかかわらず、賃貸料を支払わなかった。そこで本日より事務所の使用を禁ずる。原島君代』
くそったれ――。義行は乱暴にドアノブを回すが開かない。鍵を差し込んでも回らない。週末のあいだに錠前を変えやがったに違いない。
「くそっ」義行は力まかせにドアを蹴飛ばした。
「社長。どうしましょう?」
谷口が完全にうろたえている。
「どうもこうも、あのばあさんと掛け合うしかないだろ」
「事務所に入れないと、こんごの業務に差しつかえるんですけど」
真也が不平たらしく言う。
なかにいたって無駄話をするだけじゃないか、という言葉はのみこみ、
「アイパッドがあるだろ。今日のところはそれでなんとかしろ。賃貸料の心配はするな。これからオーナーに話しをつけてくる」
義行は原島プロダクションから飛び出した。
――本当に嫌なばあさんだ。
続




