きみだけの天使 2
「あの、さ」
言いにくそうな彼が、つ、と視線を落とす。それでもまた視線は交わり、そっと、彼の手がイヴの指先をさらった。
「絵を、描かせて、ほしいんだ」
言う彼は真剣そのものだった。幼い子の告白のような勢いで、彼はじっとイヴを見つめるけれど、彼女のほうはと言えば、それどころではない。
(手が、手を握られてる)
きゅっと自分の指先を包んでいる手のひらに、イヴは体が硬直してしまっていた。
心臓がどくどくと大暴れし、酸素がうまく吸い込めない。顔に熱が集まっているのに、指先に感じる熱が酷く熱い気がする。
(手を握るなんて、いつもしていることなのに)
イヴは天使として、教会を訪れる人に触れられる。
祝福を、と望まれれば頭に触れるし、赤ん坊には口付けの祝福も贈る。祈りをささげる人に手をとられることなどしょっちゅうだ。
なのに、どうしてノックスに手を握られただけで、こんなにも胸が高鳴るのだろう。
イヴには分からなかった。
分からなかった、けれど、このドキドキが何故か、うれしかった。
「……イヴ? ねえ、聞いてる?」
「あっ」
いきなり、ノックスの顔がしたから覗き込んで、イヴはびくりと体を揺らした。
心配そうに見上げる瞳に、彼女はごめんなさい、と気を取り直す。
「絵を、描かせてもらえるかな……?」
弱弱しい言葉は、いやかな、という不安がにじみ出ていた。うっかりイヴがぼんやりしたのでそう思ってしまったノックスに、イヴは慌てて「違うの」と首を振る。
「ちょっと、考え事をしていただけなの」
「かんがえごと……そっか」
安心したらしいノックスは、ふわりと笑う。
もう、イヴの目の前には、かつての傷ついた獣のような瞳はなかった。ただ、歳相応の純粋に光る瞳があるだけ。
それが、イヴはたまらなく嬉しかった。
「絵って、わたしの、絵?」
イヴが首を傾げる。
ノックスの描く絵は、いままで全部が風景画だったから、人は描かないものだと思っていたのだ。だから、描かせて欲しいといわれるのが、よくわからない。
そんな彼女に、ノックスは躊躇いがちにうなづいた。
「イヴを描きたいんだ」
そう言うノックスの眼が、夢を追う少年のようにきらきらと光る。
「……神父さんが、油絵のセットを持っていて、それを貸してくれるって」
「油絵?」
「それで、キャンパスに描くなら、イヴがいいって、思ったんだ」
だから、と続けるノックスは、頬も耳も赤くして、真剣な声音で話した。
確かに、教会の中には油絵のセットが一そろい、置いてある。
けれどそれは、イヴを育てた神父の前任の神父が置いていったものの筈だった。絵画が趣味だったようで、今も教会の中に何点か飾ってある。
前任の神父がいたのは、もう何十年も前のこと。同じ歳月だけ物置に置かれている油絵のセットも、もう使えなくなっているはずだと、イヴは思った。
けれど、ノックスは神父が貸してくれると言った、という。絵の具はもちろん、キャンパスや筆も、もうないはずで――
(もしかして、新しいのを買ってきたのかしら)
買ってきたのか、それとも教会に来る人に譲っていただいたのか。
譲ってもらったにしては、タイミングが良すぎて、しかも一揃いともなれば、やっぱり買ったのだろう、とイヴは思う。
「ねぇ、おれに、イヴの絵を描かせてくれる?」
じっと見つめられて、イヴはふわりと笑んだ。
こくん、とひとつ頷く。柔らかなその仕草に、ノックスの顔がぱあっと輝く。
「ありがとう!」
喜びを抑えきれないように大きな声が出て、静謐な室内に響く。うっかりエコーまでかかってしまって、でもノックスは興奮冷めやらぬまま、ぎゅっとイヴに抱きついた。




