第18話 聖女の願い
礼拝堂の両面神は、表が聖女で裏が悪女だった。どちらも同じ石から彫られていた。
正面から見れば、聖女は微笑み、悪女は髪に隠れる。
祭壇の裏へ回れば、悪女は泣き、聖女の顔が見えなくなる。
「誰が見るかで、正しい顔が変わるのですね」
深夜の学院礼拝堂で、わたしは一人のふりをしていた。
実際には、聖杯にリゼが映っている。外にはアンネ、鐘楼にはルーカスの兵が二人。入口と地下道には、北境の封蝋をつけた糸を張った。
『遅い』
「約束まで、あと一分です」
『裏切る奴は、だいたい早く来て待ってる』
「それはあなたの経験?」
『偏見』
零時の鐘が鳴る。
最後の音と同時に、側廊の扉が開いた。
セシリアは制服ではなく、白い礼拝服を着ていた。両腕を胸の前で組み、顎を高く保っている。姿勢は完璧だった。
指先だけが震えていた。
「護衛を置いたのですね」
「あなたが大司教へ知らせた場合に備えました」
「知らせてはいません」
『本当』
「今のところは」
セシリアは祭壇を挟んで立つ。
「取引をお願いします」
「先に、あなたが公廷で隠したことを聞きます」
「隠してなど」
「リゼ」
『その言葉は嘘。こいつも分かってる』
銀杯の表面が揺れる。
セシリアの視線が聖杯へ落ちた。
「本当に、そこにいるのね」
『いるよ。あんたが悪霊って書いた女が』
「声は聞こえません」
「でも、何を言ったか想像はつくでしょう」
セシリアは白い手袋を外した。
右手首に、細い鏡形の痣がある。わたしのものより小さく、まだ輪が閉じていない。
「十九番です」
礼拝堂が、急に冷えた。
「わたくしが次の器。あなたの処分が終われば、正式に番号を与えると大司教から言われています」
『やっぱりな』
「いつから知っていたの」
「十歳のときです。初めて聖女に選ばれた夜、鏡の前へ連れていかれました。美しく笑い、正しい相手を非難できれば、順番を遅らせてやると」
「正しい相手?」
「教会にとって、器にしやすい娘です」
セシリアが革の手帳を開く。
名前が並んでいた。
笑い声が大きい。婚約者へ反論した。家の命令に背いた。男子学生より試験の点が高い。夜に一人で歩いた。
どれも罪ではない。
「一人を交遊録で孤立させるたび、わたくしの選定は三十日延びました」
「だから、何人も悪女にした」
「十三人です」
声は平らだった。
指先の震えだけが大きくなる。
「退学した人は?」
「五人」
「婚約を失った人」
「七人」
「亡くなった人は」
長い沈黙のあと、セシリアが答える。
「一人」
「名前は?」
「オフィーリア・デーン。十四歳でした」
セシリアは手帳の七頁目を開く。
『虚言。情緒不安定。鐘楼へ男子学生を呼び出した疑い』
「本当は?」
「父親の暴力を教師へ訴えた。助けを求める手紙を男子学生へ託しただけです。わたくしが虚言だと記録した翌週、彼女は鐘楼から落ちました」
『落ちた、じゃない』
リゼの声を伝える前に、セシリアが言い直す。
「自ら落ちました。わたくしの記録を読んだあとに」
その一行だけ、手帳の文字が滲んでいる。
「わたくしは彼女の葬儀で聖女として祈りました。皆が、優しい言葉をありがとうと言った」
「わたしたちは同じではありません」
「私たちは同じ。違うのは、あなたには一緒に逃げる人がいることだけ」
「違います」
今度は、はっきり否定した。
「わたしにも、一緒に逃げる人はいなかった。助けを求めず、リゼを怒りの役へ押し込み、処刑されました。二度目に、頼ると決めたの。あなたにも今、決める機会があります」
「決めなければ?」
「あなたの罪は消えない。決めても消えない。でも、次の一人を増やすかは変えられます」
セシリアはオフィーリアの頁を破らなかった。代わりに、名前の横へ自分の署名を書いた。
「それでも、あなたは被害者だから赦されると思う?」
「思いません」
『本当』
「では、なぜ取引を?」
「死にたくないからです」
完璧な聖女の顔で、彼女は言った。
「反省したからでも、あなたを友人と思ったからでもない。儀式の予定表に、わたくしの名が書かれたから。あなたが返鏡の儀で消えた七日後、次はわたくしです」
「正直なのですね」
「今さら善人を演じて、あなたに通じますか」
リゼが聖杯の中で目を細める。
『怖いのは本物。だから厄介だ』
「条件を聞きます」
セシリアは首から鍵を外した。黒い鉄の鍵。頭に、表と裏を向いた二つの顔が刻まれている。
「中央聖堂の地下へ入る鍵です。返鏡の儀は四日後、新月の夜。大司教は地下聖堂へ十七番の鏡と十八番の鏡を移しました」
「十七番と十八番は、同じ鏡では?」
「公には。地下の記録では別に数えています。十七番の鏡は、十二年前から一度も開かれていない」
「では、わたしたちの鏡に母の名があったのは?」
「地上へ出す管理鏡には、人格の移動元を刻むそうです。元になった鏡そのものは、地下へ残す。わたくしも記録で知っただけですが」
「守人とは、何ですか」
セシリアは別の薄い冊子を開いた。表紙に題はなく、各頁の上部だけが刃物で切り取られている。
「候補を選び、分離の可否を決め、鏡に残った人格を管理する者。地下の支出簿には、そうあります。ですが名前も、任期も、誰が任命するかも消されている」
「大司教ではない?」
「大司教への命令に『守人承認済み』とあるので、少なくとも別の存在です」
『人かどうかも分からないな』
「最後の守人承認はいつ?」
「十二年前。エレオノーレ様の返鏡の儀です」
母の死と同時に、守人の記録も途切れた。
冊子の次の頁に、短い観察記録が残っていた。
『器の近親者に鏡像記憶が漏出する場合あり。対象M・A。反復夢――大階段、背中を押す手、届かない姉の手』
マリアンヌの夢だ。
あれは彼女の恐れが作っただけの悪夢ではない。誰かが消した記憶か、鏡が抱えきれずに漏らした記録だった。
頁の下には返鏡の宣誓欄がある。第一面が第二面を返す場合と、第二面が第一面を返す場合。どちらにも署名欄は一つしかない。
「二人が互いを残す場合は?」
「記載がありません」
儀式は最初から、一人がもう一人を差し出す答えしか想定していない。
「それ以後の選定は?」
「大司教が代行しています。だから本来の守人を呼び戻す、と手紙には」
わたしとリゼは、同時に黒い封筒を見た。
母がいるかもしれない。
声が聞こえた鏡。名札のない棺。銀幕の奥の子守歌。
左手の痣が熱を持つ。
「鍵と日程だけで、何を望むの?」
「わたくしの名を候補名簿から消してください」
「候補からは外します。あなた一人だけでなく、全員を」
セシリアの唇が震えた。
「ただし、あなたが傷つけた人の記録は消しません。候補名簿と加害の記録は、別のものです」
「では、わたくしに処刑されろと?」
「いいえ。生きて、証言してください。あなたが傷つけた十三人の名前も、公にする。そのうえで守ります」
「守るという言葉を、どう信じろと?」
「信じなくていい。条件にしてください」
わたしは紙へ三つ書いた。
一、セシリアは器制度の記録をすべて渡す。
二、交遊録で傷つけた者へ、原簿とともに事実を告げる。
三、証言を続ける限り、北境とアルバート家が身柄を保護する。
「赦しは約束しません。無罪にもできない。でも、あなたも、ほかの誰も番号にはさせない」
セシリアは紙を読んだ。
「あなたは、わたくしを嫌っているのに?」
「嫌いな人が殺されてよいとは思わないだけです」
『それ、カタリーナにも言ってたな』
「練習中なの」
独り言に聞こえたのか、セシリアが怪訝な顔をする。
わたしは契約書を彼女へ回した。
「もう一つ確認します。わたしを大司教へ売るつもりは?」
「今はありません」
『本当』
「脅されたら?」
「何を盾にされるかによります」
『本当』
「わたしに隠していることは?」
「ありません」
『嘘』
リゼと同時に、わたしはセシリアを見る。
彼女は姿勢を崩さない。
「契約はできません」
「待って」
初めて、聖女の声が縋った。
「一つだけです。大司教へ、あなたが北へ向かったと知らせました。第十四番の記録を見せると言われて。けれど、あなたを捕らえるとは知らなかった」
「それが最後?」
「最後です」
『今度は本当。でも、こいつ自身が知らないことがある』
リゼの能力は、本人が真実だと信じる嘘を見抜けない。
わたしはその限界ごと受け入れ、署名した。
セシリアも続く。
文字の最後が震え、インクが一滴落ちた。
「大司教からの手紙と、地下の記録です」
彼女は祭壇下から木箱を引き出した。
白い封筒が十二通。どれにもアウグストの花押がある。
『よく実りました』
『次の娘を孤立させれば、あなたの収穫は春まで延期します』
『十八番の悪女化を優先してください』
令嬢を作物のように扱う指示が、穏やかな文章で並んでいる。
「これを公にすれば、大司教は逃げられません」
「ええ。だから、わたくしも逃げられない」
鐘楼から垂らした糸が、二度引かれた。
側廊の扉の下から、折り畳まれた紙が滑り込む。ルーカスの筆跡だった。
『重臣会議が、十一家連名の証拠保全請求を正式受理。救済金の一部が王家の税収と北方軍需を経由していたため、法務院も調査対象とした。公開の場で証拠廃棄が始まれば、即時停止命令を出せる』
助けが降ってくるのではない。
北で集めた運送証、学院の原簿、家々の署名が、ようやく王国の手続きを動かし始めたのだ。
木箱の底に、一通だけ黒い封筒があった。
封蝋に両面神の顔はない。空の鏡を抱く女の紋章が押されている。
「これは?」
「地下記録庫の最奥にありました。大司教も開封せず、次の儀式で鏡へ供えるようにと」
表書きを見て、息が止まった。
古い筆跡なのに、名だけは新しいインクで書き足されている。
『鏡の守人 リゼ殿』
「開けますか」
セシリアが問う。
「いいえ。相手がリゼを守人だと思っているなら、開封そのものが同意になるかもしれない」
『珍しく慎重』
「あなたに言われたくありません」
封筒を銀の箱へ入れ、鍵を二つ掛けた。一つはわたし、もう一つはセシリアが持つ。まだ信頼ではない。互いに一人で開けられない形を選んだだけだった。
聖杯を見る。
リゼは封筒を睨んだ。
迷いはなかった。
「アタシじゃない」




