十話
口の中が、酷い味と温もりで満たされていく。錆びた鉄の味。自分で噛んだ舌から出てくる血の味。ゴミ箱に吐き捨てる。
「どうぞ」
サチがハンカチを差し出してくる。私はそのハンカチを受け取って口元を拭う。口元を拭ってから気付いたけど、特に薬物とかは使われてないらしい。サチも特に、何かという変わった反応はしなかった。ひょっとするとハンカチに何か仕込んでおけば良かったとか思ったのかも知れないけど。サチは顔に出さないからほんとわからない。出す時は、わざと出してる気がするし。
サチはむしろ、わざとらしく肩をすくめ、大きく息を吐いて見せた。パフォーマンスにしか見えない仕草。私に見せびらかすような仕草。
「漫画じゃあるまいし、何でそこまでしますかねえ。たぶん口内炎出来て、しばらく痛いの続きますよ」
「なんでそこまでってのはこっちのセリフだ。催眠術かなんかしようとしてただろ。何でそこまでするんだよ。いい加減怖いよ」
「何を言ってるんですか。そんなもん、愛ゆえに、ですよ。愛のためなら何でもしますよ」
「昨日会ったばっかりなのに愛が重すぎるんだよ。もうちょっと駆け引きぐらいしろよ。恋愛観が攻撃戦すぎるんだよ。稲妻のように攻撃してくるんだよ」
「それはサチの性分なのもありますけど、言ってしまえばお姉様が押しに弱そうなので」
暗にちょろそうって言われてるのか?まあちょろいのかも知れない。ぶっちゃけもう、ちょっと好きだし。というか胡散臭さ満点とは言え、ここまで分かりやすく好意を向けられて嫌な気はしない。勿論同性だから許せてる部分とか、シンプルに見た目が良いとか、そんなのもあるから誰でも許せる訳じゃないだろうけど。まあそんな事を言ったら調子に乗るのは目に見えてるから言わないけど。
それにしたって、もうちょっと手加減して欲しいところではある。勢いが良すぎる。こっちとしても捕球しきれる程度にして欲しい。
「頼むからさ、もっとじわじわ来てくれ。そういうの得意だろ。真綿で首を絞めるみたいなの」
「得意なことは得意なんですけどねえ、この局面だとそれは正直、サチが満足できませんから。ぐいぐいいきたいというか、したいことなんかひとつなんだから変に隠してどうすんだよというか」
「ほんと攻撃的だな。肉食獣でももうちょっと控えめだろ」
ほんとぐいぐいきすぎなんだよなあ。上手いこと立ち回るのが一番近道な気がするけど。残念というか勿体ないというか。
「色恋沙汰で計算とか立ち回りとか、そんなのしたくないですから」
ある意味ではとっても男らしいんだけどな。ド直球というか火の玉ストレートというか。確かに変に小賢しいよりは好きだ。男だったらセクハラで殴るか通報か両方だけど。む
そうなんだよな、基本セクハラで通報ものなんだよな、こいつの言動。そこさえ何とかなればなあ。
いや、冷静に考えれば問題のほうが圧倒的に多い。セクハラが酷すぎて他が霞んでしまってるだけで。騙されるな、私。
「けどそこまで本能のままに行動されてもな。もうちょっと理性ってものに仕事してもらってくれ」
「そうですねえ、一度持ち帰らせて頂いて、熟慮ののち回答させていただきますね」
「絶対に考える気のないやつがする返事だな」
正直こっちだって、何かを言って改善してもらえるなんて思ってないけど。ただ放っておいても悪化しかしないだろうし、言うことは言わないとだからなあ。
「まあいいですけど、もうちょっとご褒美くらいあってもいいと思いません? 一応ご飯とかも作ったんですけどね」
「何かお礼とか考えてたんだけどな、ご飯作ったぐらいじゃあ許されないぐらい散々されてんだよ」
「サチには何のことやらさっぱり。お姉様の記憶違いじゃないですかねえ」
「言い訳にもなってないぞ」
「お姉様のそういうところが好きなんです」
口元に手を当てて、サチはくすくすと笑う。悪戯をした子供のような、極めて無邪気に見える笑み。本当に冗談のつもりなのだろうか。これで冗談のつもりだと言うなら、相当たちが悪いだろう。
「言い訳も何も、最初から今まで全部愛情表現で、求愛行動してるだけですから。どう思われようと止まらないし止まれないんです」
それが事実だとするなら、なんて厄介な愛なんだろうな。さすがにそんなわけがないのはわかってるけど。口先ではなんと言おうと、サチは絶対に全部計算と打算で動いているのに違いない。
彼女はその程度には計算高くて腹が黒いだろうから。
腹芸で勝てるとは思えないけど、けどまあ無抵抗でやられるのは癪だしな。まずそもそも、絶対に嫌だというわけでもない事だし。もうちょっと違う形でお願いしたいだけで。サチの事は、決して嫌いなわけではないのだから。
「それでももうちょっと、考えてから動いてくれ。求愛なのはわかったけど、正気を疑うと言うか、ドッキリテレビにでも騙されてる気分になる」
「本当に変に勘繰りますねえ。細かいこと気にしなくていいと思うんですけど。幸せしか待ってないですよ?」
「生憎と人生そう都合よくいくとは思ってないもんでな。むしろうまい話ほど裏があると思ってる。一目惚れされて激しく求愛されたとか、怪しすぎると思わないか?」
勿論そんな都合の良い話を真に受けるやつもいるんだろうしけど、生憎と私はそうじゃあない。嘘とか裏とかをきちんと疑える人間なんだ。そもそも。
「そんなわかりやすいエサにパクっと食いつくような間抜けがいいのか、サチは?」
サチはまた口元を覆い隠し、くすくすと音を立てて笑ってみせた。
「そんなバカをパートナーにはしたくないですね。駒として使う分にはバカのほうが扱いやすいのかも知れないですけど」
そういうサチの目付きは、性格と人格の歪みを隠し切れていなかった。
本当に本当に、どうしたらこんな風になるんだろうな。サチは聞いたところで何も話さないか、嘘ばっかりつくに違いないから、私にそれを知るすべはないけど。
それでももう少し話してくれればいいのにな。あんだけ好き好きいうからには。
私は何も言わない。何かを言わない事だけが、私にできる事。せめて何にも聞かずに、サチが自分から言いたい気持ちと、自分にもっと関心を持ってほしい気持ちを煽る。そんな浅はかな考えすら、サチには見抜かれてるかもしれないけど。
サチは一度こちらを見た。細められたその眼は、沼のように不気味に濁って見えた。
「さて、たっぷり遊ばせて頂きましたし、今日のところはこの辺りで失礼いたしますね」
「おお、そうか。意外に早いんだな」
意外と言えば意外だったな。もっと遅くまでいるもんだとばっかり思ってたけど。
「サチも、もの凄く暇なわけでも自由なわけでもないですからね。それに今日はもう、やることはやりましたし」
とても聞き捨てならないことを言われた気がする。こいつのやりそうなことか。まあ盗聴器とか盗撮カメラとかそういう類か? そこまでするとか思いたくはないけど、そんなことをやらかしても不思議じゃないところがあるからな。
サチは荷物をまとめると、立ち上がる。玄関までついて行く。途中でサチはボソリと言った。
「冷蔵庫の中にありますよ、答え」
答え、か。誘導するようなことを言った、それに対する答え。きっとそれが本命ではないんだろう。なにかをごまかすための撒き餌。彼女なら私がそこまで読むことぐらいわかってるだろう。本命はさらに別なのか。
「それでは失礼しますね。また明日」
少し長いスカートの裾を翻し、サチは踵を返して去っていった。
冷蔵庫を開けると、中には『三時のおやつにどうぞ』と書かれたメモの貼り付けられたプリンが入っていた。
部屋に戻ると、一応部屋中を調べてみた。ベッドの下やタンスの上から、謎の折り鶴が計三つ見つかった。開いてみると、裏にメモが書かれていた。
『盗聴器なんて仕掛けてないですよ』
『勿論隠しカメラもありません』
『というかサチが本気で仕掛けたら、お姉様じゃまず見つけられませんからね?』
探すことまで見越してやった冗談ってことか。なかなか手の混んだことをするもんだ。
それにしても最後の一枚は気になるな。まず見つけられないと来たか。これをどう解釈するかだな。これ以上探しても無駄だと捉えるか、本当にそうそう見つけられない場所にあると捉えるか。
折角だからもうちょっと調べてみる事にした。本気で仕掛けられてるとかじゃなくて、サチの仕掛けてきた遊びの一環として。
結論として、部屋の中からはこれ以上見つからなかった。まあそもそも、仕掛ける時間とか殆んどなかったしな。私がサチから目を離した時間なんて限られてるから。
一応変なところも調べてみた。電気のカバーの中とか、エアコンの上も。流石にそこに仕掛ける暇はなかっただろうが。
どこからも発見できなくて、まあ流石になあ、と結論付けて捜索は終了して。
部屋着に着替え用として、服のポケットの中身を取り出していると、ポケットの中から折り鶴が発見された。中には『お疲れ様でした』とだけ書かれていた。




