117筋肉(マッスル)令嬢は裏切らない~「か弱き妹を虐めた」と婚約破棄されたので拘束用の鉄鎖を引きちぎって王都を出奔します~
パーティー会場のシャンデリアが煌めく中、ファーン王子の怒声が響き渡った。
「スカーレット!貴様との婚約を、今この時をもって破棄する!」
音楽が止まり、貴族たちの視線がスカーレット・ヴァン・マッスルに集中すると、隣には妹ルーノが嘘泣きをしながら王子に寄り添っていた。
「姉様は……転んだだけで体幹が弱いからよと嘲笑ったのです……!」
「なんと嘆かわしい!ルーノのようなか弱き花を虐げるとは!」
私は扇子で口元を隠しながら、小さく溜息をついた。
(違うわルーノ。あれは嘲笑ったんじゃない。「スクワットのフォームが甘い」と指導したのよ)
「弁明はあるか、スカーレット!」
王子の問いに静かに扇子を閉じた。前世、筋肉を愛し筋肉に愛された女。転生して公爵令嬢となっても魂は変わらなかった。
両親は妹ばかりを可愛がり、私には「可愛げがない」と冷たく当たったが地下室のトレーニングジムがあったから寂しくない。偽りない本音。
「殿下。虚言を真に受けるなど王族としての基礎代謝が足りていないのではなくて?」
「な、なにを訳のわからないことを……!衛兵、傲慢な女を捕らえろ!」
王子の合図で屈強な近衛兵たちが四方から取り囲み、魔封じの手錠と鎖を私にかけようとする。ルーノがニヤリと笑ったのが見えた。これで姉は終わり。修道院送りか国外追放か。
ガチャリ、と冷たい鉄鎖が私の手首に巻かれる。
「これで終わりだスカーレット。地下牢で反省するがいい」
ファーン王子が得意げに宣言した時、深く息を吸い込んだ。横隔膜を下げ、腹圧を高める。ドレッシングの締め付けがきついが関係ない。
「……解放」
ブチィッ!!
不穏な音が会場に響いた。手首を拘束していた分厚い鉄鎖が飴細工のように引きちぎられた音。
「は……?」
王子が間の抜けた声を上げるが止まらない。さらに力を込める。僧帽筋、三角筋、上腕三頭筋。長年ドレスの下に隠し続けてきた努力の結晶が唸りを上げる。
ビリビリビリッ!
最高級シルクのドレスが筋肉の膨張に耐えきれず弾け飛んで露わになったのは貴族令嬢にあるまじき、神々しいまでに鍛え上げられたキレてる肉体。動きやすいタンクトップとスパッツ姿。前世の記憶で作った戦闘服。
「な、なんだその身体はあああ!?」
「キャアアアア!お姉様は化け物!?」
悲鳴を上げる会場。ポージングを決めながら王子と妹を見下ろした。
「筋肉は裏切らない。裏切るのはいつだって、脂肪とあなたたちのような心の弱い人間」
近くにあった大理石の柱、直径1メートルに手をかけた。
「実家からの勘当喜んで受け入れます。ついでに慰謝料代わりに会場の壁を頂いていきます」
ズズズ……ズゴオオオオオ!!
大理石の柱を素手で引っこ抜くとバットのように構え、会場の壁を豪快に粉砕して外への道を作った。
「あばよですのヒョロガリたち!」
夜風が汗ばんだ肌に心地よい。窮屈な貴族社会と見る目のない元婚約者に物理的な衝撃とトラウマを与え、広大な世界へと走り出した。
王都の城壁を物理的に突破してから数時間。王都に隣接する迷わずの森。通称、魔の森を疾走していた。
「素晴らしい!なんという酸素濃度。なんという路面の起伏!」
夜の森は危険だと言われているが最高のクロスカントリーコースでしかない。ドレスを捨て、タンクトップとスパッツという正装になった今可動域を邪魔するものは何もない。
(とはいえ、少しお腹が空きましたわね……)
公爵家を出る直前に摂取したプロテインだけでは、破壊活動で消費したカロリーを補いきれない。筋肉分解は最大の敵。一刻も早く栄養を摂取せねば。
ガサリと茂みが揺れた。現れたのは全長三メートルはある巨体。赤く光る目。森の主とも呼ばれるAランク魔物レッド・グリズリー。
鋭い爪は鉄の鎧をも引き裂き、咆哮は弱い冒険者の心を折るという。
「グルルルルッ……!!」
グリズリーが私を見て涎を垂らした。また、グリズリーを見て口元を緩めた。
「あら、ごきげんよう。脂身が少なくて良質な赤身肉に見えるわ」
眼には凶暴な魔獣ではなく、三百キログラムの巨大なステーキが歩いているようにしか見えなかった。グリズリーが咆哮と共に飛びかかってくる。
速い。
普通の令嬢なら悲鳴を上げる暇もなく八つ裂きだろう。動体視力は高速で動くバーベルの軌道を捉え続けてきたのだ。
「甘い。初動で僧帽筋が力みすぎていてよ」
一歩踏み込み、振り下ろされた剛腕を自らの左前腕で受け止める。ドゴォッ!!という鈍い音が響くが筋肉は鋼鉄よりも硬い。
「嘘……だろ……?」
もしグリズリーが喋れたらそう言っていたに違いない。魔物の目が驚愕に見開かれる中、右拳を握りしめ腰を落とす。地面が踏ん張りに耐えきれず陥没する。
「教育して差し上げます。これが……正しい腹圧のかけ方」
ドッゴォオオオオン!
正拳突きがグリズリーの分厚い腹筋に突き刺さる。衝撃波が背中側へと突き抜け、周囲の木々の葉がざわめいた。巨体は一度宙に浮き、そのまま白目をむいて地面に沈んだ。一撃必殺。
「ふぅ。狩り終了。どうやって解体しましょうか。素手で引き裂くのはマナー違反?」
一方、王都の冒険者ギルド。翌朝。王都の冒険者ギルドは朝から異様な空気に包まれていた。扉を蹴破るようにして入ってきたのは見目麗しい、異様なほど姿勢の良い銀髪の美女。
「た、頼もう!新規登録をお願いしたいのですが!」
受付嬢が呆気にとられる。顔は深窓の令嬢。服装は露出の高い奇妙な服。トレーニングウェア。肩にはなんとAランク魔物グリズリーの死骸を軽々と担いでいた。
「え、あ、はい。……ええっ!?レッド・グリズリー!?ソロで!?」
「ええ。準備運動がてら、少し撫でたら寝てしまいました」
ギルド内がざわつく。
「撫でた?あれを?」「おい見ろよ、あの腕……美しいけど、血管の浮き方が尋常じゃねぇぞ」
受付嬢は震える手で登録用の水晶玉を取り出した。
「で、では、魔力測定とステータス確認を行います。水晶に手を置いて……」
「こう?」
スカーレットが水晶を握る。
パリーンッ!
「あ」
握った瞬間、水晶が粉々に砕け散った。
「も、申し訳ありません!少し昨日のパンプアップが残っていたようで……加減が難しいですわね」
「こ、高価な魔力測定器が……握力だけで……!?」
唖然とするギルドメンバーたち。喧騒の陰で、ギルドの隅で酒を飲んでいた黒いローブの男が、鋭い視線をスカーレットに向けていた。
(魔力反応ゼロ。古代の魔水晶を素手で粉砕したか??ふふはは)
男は口元の傷を撫でながらニヤリと笑う。
(北の皇帝陛下が探しておられた魔法を凌駕する物理の器……まさかこんな辺境、しかも女だとはな)
懐から通信用の魔導具を取り出し、短く呟いた。
「……鉄血へ。適合者を発見した。至急北へ連行する準備を。いや、まずは様子を見る。我が国の軍団長クラスすら凌ぐかもしれん」
まだ知らない。大陸最強の軍事国家を揺るがす引き金になろうとしていることを。
そして、実家の公爵家では今頃、破壊した壁の修理費と領地経営の破綻によって地獄のような騒ぎが起きていることを。
「登録証まだ?プロテインが飲みたいのです」
スカーレットが公爵邸の壁を粉砕し、夜の闇へと消えた翌朝。ヴァン・マッスル公爵家はかつてない物理的な寒さに見舞われていた。
「ぶぇふしゅう!寒い……!な、なぜだ、なぜ屋敷の中なのに風が吹いているのだ!あああ!」
公爵の父がガタガタと震えながら叫ぶ。執事が申し訳なさそうに頭を下げた。
「旦那様、昨夜スカーレットお嬢様が……いえ、大馬鹿者が破壊した壁の修復が間に合っておりません。業者が綺麗に大理石を引き抜かれた穴は見たことがない。芸術だと感動して作業が進まず」
「ええい、言い訳はよい!暖炉を焚け!もっと薪を持ってこい!」
そこへ、メイド長が青ざめた顔で駆け込んでくる。
「旦那様、奥様!大変でございます!薪割りが……誰も薪割りができません!」
「な、はあ?庭師がいるだろう?」
「それが……屋敷の薪はすべて鉄樫、アイアンオークという斧が刃こぼれするほど硬い特殊な木材で……これまではスカーレット様が手刀の鍛錬にちょうどいいと毎朝素手で薪にしてくださっていたのです」
食卓に沈黙が落ちた。
母と妹のルーノ、昨夜から泊まり込んでいたファーン王子が顔を見合わせる。
「……姉様が薪割りを?」
ルーノが信じられないという顔をする。彼女の中でのスカーレットは部屋に引きこもって何かブツブツ言っている陰気な姉だったからだ。筋トレのカウントである。
「馬鹿な。あの女にそんな力があるものか。は!」
ファーン王子が鼻で笑い、優雅に紅茶を飲もうとするが手が止まった。紅茶がぬるい。
「料理長を呼べ。今日の朝食はなんだ?なぜメインディッシュのギガント・ボアの厚切りステーキがない?」
王族をもてなすはずの朝食が貧相なサラダとスープだけだった。再び執事が脂汗を流して答える。
「そ、それが……新鮮なギガント・ボアのお肉もまた、スカーレット様が毎朝のロードワークついでに狩ってきてくださっていたものでして……市場で買うと金貨百枚は下りません」
公爵家の豊かな食卓も暖かい暖炉も、実はすべてスカーレットの朝活によって支えられていたのだ。
最強のインフラを失った今、公爵家の生活水準は急降下を始めていた。さらに追い打ちをかけるように領地からの急使が泥だらけで飛び込んできた。
「ご注進!ご注進!!領地の北の山から魔物の大群が溢れ出しました!」
「なんだと!はあ?騎士団はどうした!」
「いつもなら謎の巨人が岩を投げて魔物を追い返しているおかげで平和だったのですが、昨夜から巨人が現れず……!」
公爵が椅子から転げ落ちる。
謎の巨人の正体が誰であったか、今や疑う余地もなかった。ファーン王子の懐にある王家の通信機が光った。国王からの緊急連絡。
ファーン!貴様スカーレット嬢を追放したとは誠か!?
「ち、父上?ええ、凶暴な女は王家に相応しく……」
大馬鹿者め!!北の帝国が不穏な動きを見せている今、我が国の防衛の要となり得るのは、物理無双の娘だけだ!宮廷魔導師団の予言によれば、来たるべき魔導無効化時代を救うのは彼女だけだと……!
ファーンの顔から血の気が引いていく。単に婚約者を捨てただけではない。国家の最終兵器を、みすみす野に放ってしまったのだ。
「す、すぐに連れ戻せ!どんな手を使っても!」
公爵が叫ぶがルーノが不満げに口を尖らせた。
「ええ~?お父様、あんな筋肉だるま、また家に置くのですか?私汗臭いのは嫌いです」
窓の外から轟音が響いた。修理しかけていた壁が再び崩れ落ちる。しかし、そこにいたのはスカーレットではない。
全身を黒い鎧で覆った異国の兵士たち。鎧の胸には北の大国。鉄血帝国の紋章が刻まれている。
「……貴様らが我らが未来の皇后陛下候補を不当に扱った愚か者どもか」
鎧の男が低く呟く。スカーレットをスカウトするために潜入していた帝国の特殊部隊。全員筋肉質の男たちがスカーレットへの不当な扱いに激怒し、制裁を与えるために現れたのだ。
「ひぃっ!?」
ルーノがファーン王子の背中に隠れる。しかし王子は帝国の兵士が放つ圧倒的なプレッシャーという物理の圧に足が震え、剣を抜くことすらできない。
「スカーレット様は我らが帝国が頂く。その前に貴様らにはスクワット一万回の刑に処す」
公爵邸に絶望的な悲鳴が響き渡る。




