5
パン屋の前、小麦の香りが漂う通りを、レオニスとエレーヌは並んで歩いていた。
エレーヌの籠には、焼きたてのブリオッシュと甘いジャムの瓶。レオニスは新鮮なチーズを手にしていた。
「ふふ、今日はワイン煮込みでも作ろうかしら」
「公爵令嬢が無理するな。料理は肉屋の女将さんに教えてもらってからだ。それまでは、出来合いの物を買うか、外食だな」
ふいに、ざわめきが街を包んだ。
「ん? なんだ?」
「何かあったのかしら?」
人々が駆けてゆく。
通りの向こうから、怒号と興奮が入り混じった声が響く。
「どうしたんですか?」とレオニスが近くの男に声をかけると、興奮した様子で答えが返ってきた。
「城へ行くんだよ! 下級使用人たちがストライキを始めたってさ!
“私たちの王子様を追い出すなんて、ふざけるな”ってね!
あんたたちも一緒に行こうぜ。こういうのは助け合いだからさ。俺たちもストライキやってる連中を応援しようぜ」
「……王子?」とエレーヌ。
「レオニス王太子様のことさ。城のリサって娘が演説してたんだ――“王太子様は自分たちの話を聞いてくれた”、“私たち下級使用人のために提案書を出してくれた”、
“そうしたら、王太子様は城から追放された” って、そういうことらしいんだ。皆、怒ってるんだよ!」
言うだけ言うと、男は駆けて行った。
レオニスはその場に立ち尽くした。目を見開き、言葉を失っている。
「……リサが……?」
エレーヌがゆっくりとレオニスの顔を見た。
「レオ……その話、本当なの?」
レオニスは、しばらく黙っていた。街の喧騒が遠く聞こえる中で、ぽつりと口を開いた。
「別に、大したことじゃない。彼女が大変な環境で働かされていたから、つい。
できるかどうかも分からなかったけど、紙にまとめて、宰相に出したんだ。
相手にされなかったけどね。その上、誤解されたんだ。『王太子は下級使用人から給料を搾取して贅沢がしたいんだな』って陰で言われたよ」
「レオ」
エレーヌの瞳が、静かに揺れる。
「そんなこと、私、知らなかった。レオが失脚する原因になった、あの話はそういうことだったの」
「言わなかったからな。どうせ、身の程知らずだと笑われると思って。結局、文官たちからは馬鹿にされた」
「私は、笑わないわよ。立派なことじゃない」
レオニスは、驚いたように彼女を見つめた。
けれどそこには、あの夜、彼女が言った「クズはクズらしく」という軽やかな顔ではなく、
自分を信じてくれる、まっすぐなエレーヌの眼差しがあった。
「もう一度言わせて。私は、笑わないわよ」
エレーヌのその言葉に、レオニスは視線を落とした。
「こんなこと、言うつもりなかったんだけどな」
「言ってよ」
エレーヌは籠を脇に置き、まっすぐ彼に向き直る。
「私、レオに弱音を吐かれたことないもの」
「それは……」
「でも、今日初めて知ったわ。レオが、誰かのためにちゃんと動いてたってこと」
その声は誇らしさを含んでいた。
「レオ。あなた、本当に弱い者の味方なのね。まさに王子様だわ」
その言葉が、レオニスの胸に深く突き刺さった。
かつて、誰よりも“王子であること”に縛られた彼にとって、
今のそれは、一人の人間としての「肯定」だった。
「俺は、そんな、大したもんじゃない」
小さな声で彼はつぶやいた。
「自分の価値なんか、信じられない。
王子だって持ち上げられても、裏じゃ陰口を言われていた。
“器じゃない”“向いてない” そんなの、俺が一番知ってるから」
「そうなの? 私はレオのかっこいいところを知ってるわ」
レオニスがはっとして彼女を見る。
「誰かの声を、真っ先に聞こうとする。今回の話もそうじゃない。
たとえ、それが貴族や騎士じゃなくて、使用人や子どもだったとしても、
レオは“人の声”をちゃんと聞く。私は、それが誇らしいと思ってた。まあユリアンの小言はちっとも聞かないけどね」
エレーヌはそういって、笑った。
「エレーヌ」
「ほら、パンが冷めちゃう。帰りましょう? 家で、ゆっくりご飯食べながら話しましょうよ」
「ああ」
レオニスは小さく息を吐き、エレーヌの手から籠を受け取った。
そのとき、遠くで鐘の音が鳴った。
城門の方角から、太鼓の音と群衆の叫びが、波のように押し寄せてくる。
「これって……」
「民衆が本当に、城に押しかけているのか」
レオニスの目に、かすかに揺らぐものがあった。
エレーヌはそっと、彼の腕に手を添えた。
「もし、もう一度“王子”をやってみたいって思ったら、私はついていくわ。平民でも、公爵令嬢でも、どっちになってもいいわ。あなたにすべて任せる」
レオニスは驚いたように彼女を見たが、次第に口元を緩めた。
「それは、ずるいな」
「うん。クズだから」
エレーヌは悪戯っぽく笑い、レオニスも、ようやく笑った。
◇
ある日の夕方。レオニスは小さな家の扉の前で立ち止まった。
目の前にあるのは、町の一角にある石造りの家。王宮のどの部屋よりも狭く、簡素な造りかもしれない。
だが、今の彼にとっては、世界で一番大切な場所だった。
扉に手をかける前、彼はそっと目を閉じた。
(今日こそ、言おう。けじめをつけるんだ)
胸の奥が、嫌になるほどどきどきしていた。
それでも、逃げてはいけない。彼は自分に言い聞かせる。
エレーヌは、自分の罪を何も責めなかった。
今まで散々彼女の心をないがしろにしてきたというのに。
それでも彼女は全てを捨てて、付いてきてくれた。そして、今もそばにいてくれる。
――だからこそ、甘え続けてはいけない。
ちゃんと謝らなければ。そして、ちゃんと自分の想いを伝えなければ。
“結婚して欲しい”と。
(俺は相当な恥知らずじゃないのか?)
一瞬、頭をよぎった。
かつて傷つけ、裏切った男が、もう一度未来を預けてくれなんて、あまりにも身勝手なことを求めている。
(それでも、言わなければ)
ぐっと手を握り、意を決して扉を開けた。
軋む音を立てて開けた先には、陽の差し込む温かな空間。
ほのかに香るスープの匂い。
そこはどこよりも落ち着く、ふたりの家だった。
「おかえり、レオ。さっき、隣の奥さんにスープをいただいちゃった!」
エレーヌが笑顔で出迎えてくれた。
髪をまとめ、袖をまくった彼女の姿は、以前とはまるで違っていた。
それでも、いや、だからこそ美しかった。
彼女がこの暮らしを選び、彼に寄り添ってくれている事実が、レオニスの胸に深く染みる。
「少し……話したいことがあるんだ」
声が震えた。意識していないのに、手のひらがじっとりと汗ばんでいる。
「エレーヌ……今まで、本当にごめん」
レオニスは、彼女の前に立ち、真っすぐに目を見つめた。
「君を、ずっと傷つけてきた」
「今更何を……」
「聞いて、エレーヌ」
戸惑うエレーヌの言葉をさえぎって、レオニスは続けた。
「自分が王の器じゃないと周囲にそう言われ続けて、自分でもそう思い込んで、逃げていた。逃げた先にいたのが、彼女だった。マリアンヌには、何も背負わなくていい自分でいられた。愚かだった。君をあんなふうに扱って、傷つけて……なのに、それがどれだけ酷いことか、分からないふりをしていた」
彼は深く息を吐き、エレーヌを見つめた。
「君は何も悪くなかった。全部、俺の弱さだ。王という役目に押し潰されそうになって、自分を見失ってた。君を手放さなきゃって思って、……でもそれが、君の心に、どれだけ深い傷を与えていたか、怖くて、ちゃんと見れなかったんだ。本当に、浅はかだった」
レオニスの声が震える。エレーヌは何も言わず、ただじっと彼の瞳を見つめ返す。
けれど、その瞳には涙がにじんでいた。
「全部失った俺についてきてくれて、ありがとう。君がいたから、俺は今も生きている。君の笑顔を見て、初めて、生きたいって思えた」
言いながら、心が熱くなる。何もかもなくしたと思っていた中、彼女だけが残ってくれたのだから。
「それでも、もし許してくれるなら、君と人生をやり直したい。王子でもない、何の肩書きもない今の俺が、君にもう一度、人生を共にしてほしいって願うことは、図々しいことだと思う。でも、ここははっきりと言いたい。結婚してほしい。エレーヌ」
沈黙が落ちた。
外から聞こえる、小鳥のさえずり、子供たちの声。すべてが止まって見えるほど、彼には彼女の返事だけがすべてだった。
しばらく後、エレーヌはそっと口を開いた。
「レオはずっとマリアンヌさんを優先して、私を蔑ろにしてた。私はそのことで、すごく傷ついたの。そして、まだその傷は癒えていないわ」
「……だよな。悪かった。今言ったことはもう……」
「でもね」
エレーヌは、そっとレオニスの手を取った。
「私は、そのことに拘ってレオを失いたくないの。今の私は、公爵令嬢でも、王太子の婚約者でもない。ただの町娘よ」
そう言って、微笑む。
「だから、遠慮も、礼儀もなしに、ストレートに答えるわ――あなたと結婚する。好きよ、レオ。大好き。レオ以外はいらないわ」
エレーヌの瞳からこぼれ落ちてきた涙が頬を流れた。
「レオが何を失っても、私にとってあなたは世界でただ一人の人よ。レオと一緒にずっとずっと、生きていきたい」
彼女はレオニスの首に腕を回して抱き着いた。
レオニスは「ありがとう」と言ってその身体を抱きしめた。
「町娘は大胆だな。でも、これ以上のことは……結婚してからだ。……そ……その辺りは王侯貴族の慣習通り、結婚後……にしよう」
「わ、私もその方がいいわ。あまり慣れないことはしない方がいいみたい」
二人は身体を離して、笑い合った。この日から、二人の距離は格段に縮まった。