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パン屋の前、小麦の香りが漂う通りを、レオニスとエレーヌは並んで歩いていた。

エレーヌの籠には、焼きたてのブリオッシュと甘いジャムの瓶。レオニスは新鮮なチーズを手にしていた。


「ふふ、今日はワイン煮込みでも作ろうかしら」


「公爵令嬢が無理するな。料理は肉屋の女将さんに教えてもらってからだ。それまでは、出来合いの物を買うか、外食だな」


ふいに、ざわめきが街を包んだ。


「ん? なんだ?」


「何かあったのかしら?」


人々が駆けてゆく。

通りの向こうから、怒号と興奮が入り混じった声が響く。


「どうしたんですか?」とレオニスが近くの男に声をかけると、興奮した様子で答えが返ってきた。


「城へ行くんだよ! 下級使用人たちがストライキを始めたってさ!

“私たちの王子様を追い出すなんて、ふざけるな”ってね! 

あんたたちも一緒に行こうぜ。こういうのは助け合いだからさ。俺たちもストライキやってる連中を応援しようぜ」


「……王子?」とエレーヌ。


「レオニス王太子様のことさ。城のリサって娘が演説してたんだ――“王太子様は自分たちの話を聞いてくれた”、“私たち下級使用人のために提案書を出してくれた”、

“そうしたら、王太子様は城から追放された” って、そういうことらしいんだ。皆、怒ってるんだよ!」


言うだけ言うと、男は駆けて行った。

レオニスはその場に立ち尽くした。目を見開き、言葉を失っている。


「……リサが……?」


エレーヌがゆっくりとレオニスの顔を見た。


「レオ……その話、本当なの?」


レオニスは、しばらく黙っていた。街の喧騒が遠く聞こえる中で、ぽつりと口を開いた。


「別に、大したことじゃない。彼女が大変な環境で働かされていたから、つい。

できるかどうかも分からなかったけど、紙にまとめて、宰相に出したんだ。

相手にされなかったけどね。その上、誤解されたんだ。『王太子は下級使用人から給料を搾取して贅沢がしたいんだな』って陰で言われたよ」


「レオ」


エレーヌの瞳が、静かに揺れる。


「そんなこと、私、知らなかった。レオが失脚する原因になった、あの話はそういうことだったの」


「言わなかったからな。どうせ、身の程知らずだと笑われると思って。結局、文官たちからは馬鹿にされた」


「私は、笑わないわよ。立派なことじゃない」


レオニスは、驚いたように彼女を見つめた。

けれどそこには、あの夜、彼女が言った「クズはクズらしく」という軽やかな顔ではなく、

自分を信じてくれる、まっすぐなエレーヌの眼差しがあった。



「もう一度言わせて。私は、笑わないわよ」


エレーヌのその言葉に、レオニスは視線を落とした。


「こんなこと、言うつもりなかったんだけどな」


「言ってよ」


エレーヌは籠を脇に置き、まっすぐ彼に向き直る。


「私、レオに弱音を吐かれたことないもの」


「それは……」


「でも、今日初めて知ったわ。レオが、誰かのためにちゃんと動いてたってこと」


その声は誇らしさを含んでいた。


「レオ。あなた、本当に弱い者の味方なのね。まさに王子様だわ」


その言葉が、レオニスの胸に深く突き刺さった。

かつて、誰よりも“王子であること”に縛られた彼にとって、

今のそれは、一人の人間としての「肯定」だった。


「俺は、そんな、大したもんじゃない」


小さな声で彼はつぶやいた。


「自分の価値なんか、信じられない。

王子だって持ち上げられても、裏じゃ陰口を言われていた。

“器じゃない”“向いてない” そんなの、俺が一番知ってるから」


「そうなの? 私はレオのかっこいいところを知ってるわ」


レオニスがはっとして彼女を見る。


「誰かの声を、真っ先に聞こうとする。今回の話もそうじゃない。

たとえ、それが貴族や騎士じゃなくて、使用人や子どもだったとしても、

レオは“人の声”をちゃんと聞く。私は、それが誇らしいと思ってた。まあユリアンの小言はちっとも聞かないけどね」


エレーヌはそういって、笑った。


「エレーヌ」


「ほら、パンが冷めちゃう。帰りましょう?  家で、ゆっくりご飯食べながら話しましょうよ」


「ああ」


レオニスは小さく息を吐き、エレーヌの手から籠を受け取った。


そのとき、遠くで鐘の音が鳴った。

城門の方角から、太鼓の音と群衆の叫びが、波のように押し寄せてくる。



「これって……」


「民衆が本当に、城に押しかけているのか」



レオニスの目に、かすかに揺らぐものがあった。

エレーヌはそっと、彼の腕に手を添えた。


「もし、もう一度“王子”をやってみたいって思ったら、私はついていくわ。平民でも、公爵令嬢でも、どっちになってもいいわ。あなたにすべて任せる」


レオニスは驚いたように彼女を見たが、次第に口元を緩めた。


「それは、ずるいな」


「うん。クズだから」


エレーヌは悪戯っぽく笑い、レオニスも、ようやく笑った。





ある日の夕方。レオニスは小さな家の扉の前で立ち止まった。

目の前にあるのは、町の一角にある石造りの家。王宮のどの部屋よりも狭く、簡素な造りかもしれない。

だが、今の彼にとっては、世界で一番大切な場所だった。


扉に手をかける前、彼はそっと目を閉じた。


(今日こそ、言おう。けじめをつけるんだ)


胸の奥が、嫌になるほどどきどきしていた。

それでも、逃げてはいけない。彼は自分に言い聞かせる。


エレーヌは、自分の罪を何も責めなかった。

今まで散々彼女の心をないがしろにしてきたというのに。

それでも彼女は全てを捨てて、付いてきてくれた。そして、今もそばにいてくれる。

――だからこそ、甘え続けてはいけない。

ちゃんと謝らなければ。そして、ちゃんと自分の想いを伝えなければ。

“結婚して欲しい”と。


(俺は相当な恥知らずじゃないのか?)


一瞬、頭をよぎった。

かつて傷つけ、裏切った男が、もう一度未来を預けてくれなんて、あまりにも身勝手なことを求めている。


(それでも、言わなければ)


ぐっと手を握り、意を決して扉を開けた。


軋む音を立てて開けた先には、陽の差し込む温かな空間。

ほのかに香るスープの匂い。

そこはどこよりも落ち着く、ふたりの家だった。


「おかえり、レオ。さっき、隣の奥さんにスープをいただいちゃった!」


エレーヌが笑顔で出迎えてくれた。

髪をまとめ、袖をまくった彼女の姿は、以前とはまるで違っていた。

それでも、いや、だからこそ美しかった。

彼女がこの暮らしを選び、彼に寄り添ってくれている事実が、レオニスの胸に深く染みる。


「少し……話したいことがあるんだ」


声が震えた。意識していないのに、手のひらがじっとりと汗ばんでいる。


「エレーヌ……今まで、本当にごめん」


レオニスは、彼女の前に立ち、真っすぐに目を見つめた。


「君を、ずっと傷つけてきた」


「今更何を……」


「聞いて、エレーヌ」


戸惑うエレーヌの言葉をさえぎって、レオニスは続けた。


「自分が王の器じゃないと周囲にそう言われ続けて、自分でもそう思い込んで、逃げていた。逃げた先にいたのが、彼女だった。マリアンヌには、何も背負わなくていい自分でいられた。愚かだった。君をあんなふうに扱って、傷つけて……なのに、それがどれだけ酷いことか、分からないふりをしていた」


彼は深く息を吐き、エレーヌを見つめた。


「君は何も悪くなかった。全部、俺の弱さだ。王という役目に押し潰されそうになって、自分を見失ってた。君を手放さなきゃって思って、……でもそれが、君の心に、どれだけ深い傷を与えていたか、怖くて、ちゃんと見れなかったんだ。本当に、浅はかだった」


レオニスの声が震える。エレーヌは何も言わず、ただじっと彼の瞳を見つめ返す。

けれど、その瞳には涙がにじんでいた。


「全部失った俺についてきてくれて、ありがとう。君がいたから、俺は今も生きている。君の笑顔を見て、初めて、生きたいって思えた」


言いながら、心が熱くなる。何もかもなくしたと思っていた中、彼女だけが残ってくれたのだから。


「それでも、もし許してくれるなら、君と人生をやり直したい。王子でもない、何の肩書きもない今の俺が、君にもう一度、人生を共にしてほしいって願うことは、図々しいことだと思う。でも、ここははっきりと言いたい。結婚してほしい。エレーヌ」


沈黙が落ちた。

外から聞こえる、小鳥のさえずり、子供たちの声。すべてが止まって見えるほど、彼には彼女の返事だけがすべてだった。


しばらく後、エレーヌはそっと口を開いた。


「レオはずっとマリアンヌさんを優先して、私を蔑ろにしてた。私はそのことで、すごく傷ついたの。そして、まだその傷は癒えていないわ」


「……だよな。悪かった。今言ったことはもう……」


「でもね」


エレーヌは、そっとレオニスの手を取った。


「私は、そのことに拘ってレオを失いたくないの。今の私は、公爵令嬢でも、王太子の婚約者でもない。ただの町娘よ」


そう言って、微笑む。


「だから、遠慮も、礼儀もなしに、ストレートに答えるわ――あなたと結婚する。好きよ、レオ。大好き。レオ以外はいらないわ」


エレーヌの瞳からこぼれ落ちてきた涙が頬を流れた。


「レオが何を失っても、私にとってあなたは世界でただ一人の人よ。レオと一緒にずっとずっと、生きていきたい」


彼女はレオニスの首に腕を回して抱き着いた。


レオニスは「ありがとう」と言ってその身体を抱きしめた。


「町娘は大胆だな。でも、これ以上のことは……結婚してからだ。……そ……その辺りは王侯貴族の慣習通り、結婚後……にしよう」


「わ、私もその方がいいわ。あまり慣れないことはしない方がいいみたい」


二人は身体を離して、笑い合った。この日から、二人の距離は格段に縮まった。







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