6 最終話
朝の空気はまだ冷たく、街路に焼きたてのパンの甘い香りが流れている。
小さな家の扉の前で、ユリアンは立ち尽くしていた。
手を伸ばしては引っこめ、再び伸ばしては、躊躇する。
兄に会うのは、あの日以来だった。
王籍から抜かれ、城を去った兄、レオニス。
ユリアンは、彼にどんな顔をして会えばいいのか分からなかった。
何度も謝罪の言葉を頭の中で繰り返しながら、ようやく意を決して、扉をノックする。
控えめな音だった。けれど、内側から足音が近づき、扉が開かれる。
現れたのは、変わらぬ顔をした兄。
だが、かつて王子だった彼がまとう雰囲気は、以前よりずっと明るく幸せそうだった。
「兄上」
ユリアンは唇をかみしめた。そして、絞り出すように言った。
「話があるんだ」
レオニスは、しばし言葉を失ってユリアンを見つめた。
かつては屈託なく自分に笑いかけてくれた弟が、まるで別人のように暗い顔で立っている。
レオニスは驚きを隠して、穏やかに尋ねた。
「ここが、よく分かったな」
「兄上が買い物してた市場で、酒屋の主人が話してた。近所に王子様みたいな人が越してきたって」
「王子様みたいな人?」
「王子様みたいな綺麗な顔をしていて、ちょっと浮世離れした人って」
レオニスが吹き出しかけたのを見て、ユリアンも少しだけ口元を緩める。
だが、すぐにその笑みは消え、ユリアンは深く頭を下げた。
「兄上。本当にすみませんでした。僕は、兄上の提案書を読んでなかった。
信じていたはずなのに、信じきれなかった。王族としてだけでなく、弟として、俺は兄上を裏切った。謝っても謝り切れない」
しんとした空気が流れる。
レオニスは黙っていた。だが、その目は冷たくはなかった。
戸口に立ったままの弟をしばらく見つめ、やがて静かに言った。
「とりあえず入れ。朝のパン、買いすぎたから一緒に食べるか?」
「……はい」
部屋に入ったユリアンは、そこにいた人物を見て、思わず目を見張った。
奥のキッチンからエプロン姿のエレーヌが顔を出したのだ。
金色の髪をラフにまとめ、袖をまくりあげたその姿は、かつて王宮で見たどんな姿とも違っていた。
「エレーヌ姉さま? 兄上とは婚約解消したんじゃなかったの? ショックで家に閉じこもっているのかと思ってた」
「ようこそ、ユリアン」
「えっ……姉さま、兄上と一緒に暮らしているの? それに、その格好……」
「いいでしょ? このエプロン、裏の雑貨屋で買ったの。パン屋のおばさんに教わったのよ、“料理する時はエプロンをしなさい”って」
そう言って彼女は楽しげに笑った。肩の力の抜けたその笑顔は、王宮で完璧を演じていた公爵令嬢とは思えないほど、いきいきとして、明るかった。
ユリアンは戸惑いの混じった目で兄を見た。
「兄上、本当に、ここで平民として暮らしてるんだな」
レオニスはわずかに肩をすくめた。
「二人で、平民として細々と生きてる」
「細々、じゃないわよ。近所の子供たちには“町の王子さま”って人気なんだから。
この前なんか、カラスに襲われたおばあちゃんを助けてたじゃない。
“町の王子様は騎士様だった”って騒がれていたわ」
「そんな恥ずかしい話をするな」
照れるレオニスを見て、エレーヌはくすくす笑いながら、ユリアンにお茶を差し出した。
「ユリアン、あなただけ謝りに来ても駄目よ。重臣たち皆が謝りに来ないと。でも、全員ここに来られても困るわね」
「そのことなんだけど。兄上に伝えたいことがある」
ユリアンはお茶を受け取り、一口飲んだ。
「兄上、宰相たちの罪がすべて明るみに出たんだ。兄上の提案書を“読まずに”却下していたことも、補佐官の情報操作も、文官たちの噂の流布も。
さらには、使用人たちの給料の不正まで。帳簿と実際の支給額が違っていたことが判明した。下級使用人の管理者たちが横領していたんだ」
レオニスは、ゆっくりとまぶたを閉じた。
「で、下級使用人の待遇は?」
「給料は見直され、労働時間も改善された。そして、王と重臣全員から、兄上に正式な謝罪があるから城に来て欲しいと言ってる。
宰相は引退。補佐官は拘束。文官たちは全員罷免処分になった。そして、兄上は王太子として復権した」
ユリアンは真っ直ぐに兄を見つめた。
「兄上。城に戻ってきてほしい。皆、兄上の帰還を望んでる」
少しの沈黙。
そしてレオニスはそっと立ち上がり、窓の外、近所の子供たちの遊ぶ姿を眺めた。
「今すぐ、は無理だ。しばらくは、ここにいたい。もう少し、この暮らしを続けて、民の生活を知りたいんだ。民はどんなことに悩み、どんなことに困っているのか」
ユリアンは静かにうなずいた。
「分かった。帰る気になったら言って。迎えに来るから。どれくらいかかりそう?」
「1年くらいかな。その時はエレーヌの希望も聞く」
「もちろんだよ。僕は、エレーヌ姉さまの指示には逆らえませんから」
三人の笑い声が、狭い食卓に、朝の光とともに広がった。
ユリアンが帰った翌日から、一人また一人と重臣たちがこの小さな家に謝罪に訪れた。
最後は国王夫妻まで。
おかげで“町の王子様”は本当は“国の王太子様”だった、と町中を驚かすことになった。
◇
夕暮れ時、町の広場に集まった人々のざわめきが、次第に歓声へと変わっていった。
木製の屋台には食べ物や飲み物が並び、子供たちは笑いながら走り回る。
その中心に立つのは、仲睦まじいレオニスとエレーヌだった。
「殿下ー!」
声の主は、駆け寄ってきた下級使用人のリサたち。満面の笑みで、二人の前までやってきた。
「殿下、いろいろありがとうございました! 殿下のおかげで、待遇が良くなったんですよ!」
「私も給金が上がったから、母さんに渡したら喜ばれちゃった!」
「ありがとうございます! あの時からずっと、殿下を信じていました!」
頬を紅潮させ、興奮気味に言う女性たちに、レオニスは微笑んだ。
「いや、君たちが動いてくれたから、俺の冤罪も晴れたんだ。ありがとう。こちらこそ君たちに礼を言いたい」
街のみんなはその声を聞き、歓声が広がる。
広場に人が集まったところでユリアンが演説台の上に立ち、人々の前で、国王の書簡を読み上げた。
「我が民の力により、息子である王太子レオニスの名誉は完全に回復された。これもひとえに、民たちが真実のために、声を上げてくれたおかげだ。
今こそ共に喜びを分かち合おう。今夜は王としてではなく、息子の父として、皆に礼をしたい。代金は余が払う。好きなだけ食べ、飲んで欲しい。夜が開けるまでの宴だ。心ゆくまで楽しんでくれ。」
読み終えると、群衆からは大きな歓声と拍手が起こった。笑顔があふれ、まるでひとつの家族のように広場は温かい空気に包まれた。
そんな盛り上がりの中、一台の豪華な馬車が止まった。背の高い貴族の男が馬車から下りてきた。
グラース公爵、エレーヌの父である。彼は腕組みをしながら、遠くの二人をじっと見つめる。
エレーヌの護衛騎士に娘の居場所尋ねたら、「ここで暮らしています」と連れてこられたのだ。彼らは今でも交代制でエレーヌを護衛している。
公爵は不機嫌そうに眉をひそめ娘の前に立った。
「お前、殿下と一緒に暮らしていたのか。学生時代の大好きな友達としばらく過ごすと聞いて、許可したのに、騙したな」
エレーヌは父を見上げ、にっこりと笑いながら答えた。
「殿下は学生時代の友達です。大好きな」
公爵の厳しい顔が一瞬だけ緩み、微かに笑みがこぼれた。
「そうか、ならば仕方ないな」
エレーヌは公爵に微笑み、レオニスの肩に寄り添った。
その瞬間、リサたちが再び駆け寄り、
「殿下ーーー! こっちーーー!」
と声をあげて、みんなの輪の中心に三人を迎え入れた。
広場は歓喜の渦に包まれ、笑い声と感謝の言葉があふれた。
広場には色とりどりの屋台が立ち並び、香ばしい焼き鳥や甘い蜜の匂いが漂っている。
男たちは大きな木のテーブルを囲み、ジョッキいっぱいのビールを片手に陽気に笑い声を響かせていた。
「おい、ここの串焼き、最高だぞ!」
「もう一本いこうぜ!」と乾杯の声が上がる。
広場の中央では、エレーヌとレオニスが手を取り合い、みんなの輪の中で軽やかに踊っている。
公爵も酒屋の女将さんと踊っている。子どもたちもその周りを走り回り、笑顔が絶えない。
祭りの賑わいの中、マリアンヌが突然現れた。
「王族復帰したと聞いて、レオニス様に会いに来たんだけど、どうしてエレーヌ様がここにいるの?」
と、マリアンヌは驚きと戸惑いの混じった声で言う。
リサの姉がそっとマリアンヌに答えた。
「殿下が城を出た時から、二人は一緒に暮らしているんですよ」
マリアンヌは驚いて大声を出した。
「え? 二人は婚約解消したんじゃないの?」
レオニスと踊っていたエレーヌは振り返って答えた
「元サヤに戻りましたが、それが何か?」
end
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