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「ねぇ、殿下……相談があるの」

放課後の中庭。花壇の前でマリアンヌが艶然と微笑んだ。


レオニスは、肩にかけた鞄を持ち直しながら、彼女の顔を見る。


「なんだい?」


「うちの屋敷の使用人にね、妹がいるの。その子が王宮で下働きをしているんだけど……ちょっと、困ってるみたいなの」


「困っている?」


「うん。勤務時間が長いのに、お給料がすごく少ないみたいで。しかも、休憩もろくに取らせてもらえないんですって。なんだかかわいそうで……」


マリアンヌの声には、どこか芝居がかった抑揚があった。

レオニスは一瞬だけ違和感を覚えたが、それを追い払うように首を振った。


「わかった。その子に話を聞いてみよう」


「まあ! ありがとう、殿下。やっぱり、殿下は優しいのね。ねえ、休日にうちに来てくださいます?」


「いや、それはまずいだろう。どうせ、王宮にいるなら名前を聞いてきてくれ。俺から会いに行ってみよう」


微笑むマリアンヌの視線の奥に、ほんの一瞬、残念そうな色が見えた。





王宮の応接室、地味な制服に身を包んだ少女が、緊張した面持ちで座っていた。


「殿下、あの……何か……?」


「きみがリサさんだね。お姉さんからだいたいのところは聞いている。君の口からも、少し話を聞かせてくれないかな」


レオニスは、できるだけ柔らかい声で言った。


彼女はおずおずと頷き、やがてぽつぽつと語り始めた。

一日の労働時間は13時間以上。給金は少しだけ。休憩は30分程度。食事は残り物を急いで口に入れる。

それでも文句を言えば「代わりはいくらでもいる」と叱責される。


その話は、胸を刺すほどの重さだった。


(こんなことが、王宮で……)


レオニスは言葉を失いながらも、彼女の話を一字一句漏らさぬようにメモしていった。


「ありがとう、リサさん。話してくれて、助かった」


その夜、彼は机に向かっていた。

自分の部屋のランプだけが、静かに灯っている。

紙の上には、彼女の証言、他の使用人への聞き取り結果、改善すべき点、提案事項……。


震える手でペンを握る。


(ちゃんと書けるだろうか。きっとまた、誰かに笑われる)


けれど、頭に浮かんだのは、リサの顔だった。

怯えながらも、自分の仕事に誇りを持っていた、あの目。


(やろう。俺がやらなければ、あの子はまた声を失う)


様々な想いを乗せて、ペン先が紙の上を動くのだった。


その日、執務室の灯りは、王宮の他のどの部屋よりも遅くまで点いていた。

だがそこにいたのは、いつもなら早々に執務を切り上げるはずの、王太子だった。




「本当に、これでいいのか?」


レオニスは小さく呟くと、目の前の紙に視線を落とした。

筆先にはまだ新しいインクが滲んでいる。


「王宮の贅沢を減らす。舞踏会の回数を減らす。そんなことを言えば、笑われるに決まっている」


誰に言うでもない独り言。それでも、手を止めるわけにはいかなかった。


この国の王太子であるはずなのに、彼はずっと傍観者だった。

本来、王太子がすべき決定はすべて弟が下し、“第二王子殿下”を次期国王と目している者もいた。


レオニスはただ笑っていた。食事の席でも、パーティーでも、冗談を言い、子爵令嬢と軽口を交わし、何も気にしていないふりをしていた。


けれど、拳を握る夜が、何度もあった。


「俺にだって、できるはずだろう」


声が震えていた。恐れと焦り、そして微かな希望。


「王宮の財政構造を見直し、無駄な装飾や嗜好品への支出を抑えること、何よりも舞踏会やお茶会などの開催を減らすこと。そうしたことで、下級使用人の給与を段階的に増加させ、雇用を増やすことで、休憩時間を長くすることができる」


文官のような難しい文体は使えなかった。

けれど、心は込めた。自分が何に心を痛め、どこを変えたいのか、真っ直ぐに言葉を選んだ。


最後にペンを置いたとき、レオニスは疲れたように肩を落とした。

だが、どこか晴れやかな表情だった。


「笑われたっていい。俺は、やる」


その手には、夜を徹して書き上げた提案書。

彼が初めて“王族”として動こうとした証だった。



王宮内、執務棟の奥にある宰相執務室の前。

レオニスは控えていた侍従に、落ち着いた声で告げた。


「宰相殿に、会いたい」


すぐに扉の向こうに伝言が入り、中から宰相の返事が返ってきた。


「お通ししろ」


重たい扉が開き、王子はゆっくりと部屋へと足を踏み入れる。


「宰相殿、しばし時間をもらう」


「レオニス王太子殿下。今日はどのようなご用件で?」


宰相の声は穏やかだった。

言葉には丁寧さがあったが、

その目には、どこか「上辺だけの応対」であることが滲んでいる。


レオニスは書類の束を差し出した。


「この提案書を、見てもらいたい。王宮の財政の見直しと、下級使用人の待遇改善に関する提案が書いてある」


宰相はその書類を受け取り、ふと、王子を見た。


「殿下ご自身が?」


「ああ。自ら調べ、書いた。王宮の無駄を減らし、使用人に正当な給金を支払うことで、労働環境を改善する。それは、王家の責務だと思うから」


若くまっすぐな声だった。

宰相は軽く頷き、書類をそっと文書用の盆に置く。


「お預かりします」


「よろしく頼む」


王子は、部屋を後にした。


扉が閉まった後。

宰相はしばし、その文書を見つめ、ため息まじりに呟いた。


「熱意はあるが、青いな」


隣で控えていた若い文官が、興味深げに尋ねる。


「どういった内容だったのでしょう?」


宰相は肩をすくめ、提案書を開くことなく、棚の一角“不採用”の箱に、静かに置いた。


「下級使用人の給金に関するものらしい。

無駄を削れと……察するに殿下は小遣いが足りないのかな? 贅沢に遊んでみたい年ごろか」


文官は苦笑を浮かべた。


「まあ、若いときは誰でもそうですね」


宰相はそれに答えず、再び目を帳簿へ落とした。


箱に入れられた提案書は、確かに“処分”されたわけではなかった。不採用箱に保管はしてある。


そして、のちにそれが「王子の清廉な志」として、王宮を震わせることになるのだが──その時はまだ、誰も知らない。





レオニスの待ち望んだ返事はいつになっても来なかった。宰相執務室に足を運んで、聞いてみても、適当にはぐらかされるばかりで要領を得ない。


ある日の夕方。通り過ぎる使用人たちのざわめきが、風にのって微かに響いてきた。


聞こえてきたのは、聞き覚えのある若い文官たちの声だった。

レオニスは歩きを止め、柱の陰で静かに耳を澄ませていた。


「なあ、お前、聞いたか? この前、王太子殿下が、なんか提案書を出したって」


「下級使用人の件だろ? オレも聞いた。給金とか待遇とか。まったく、何を思ったんだか」


「どうせさ、殿下のお小遣いが足りなくて、下級使用人の給料を減らして、その分を自分の懐に入れようって魂胆じゃないの?」


「うわ、最悪。なんだそれ。やんごとない身分のお方って、ほんとそういう下種な発想になるんだな」


「ま、殿下もまだ若いし? 贅沢したい年ごろだろ。服とか馬とか、女の子にもモテたいし?」


「そうなんだろうな。宰相も苦笑いしてたよ」


二人の文官は冗談めかして笑いながら、そのまま歩き去っていった。


その場に立ち尽くしていたレオニスは、何も言えなかった。

血の気が引くような感覚が足元から這い上がってくる。


「……ちがう、そんなつもりじゃ……」


掠れた声が漏れる。


文官たちの足元近くには、しゃがみこんで床の汚れを落としている男がいた。

掃除用の雑巾を握りしめた、下働きの男だ。


その目は怒りに燃えていた。


「ふざけやがって。こっちは朝から晩まで、床を這いずり回って働いてるってのに。

それでもまだ、給金を減らして、自分の遊びに使うだと……!?」


男の胸の奥に燃えた怒りは、大きくなるばかりだった。




その日を境に。


レオニスの目は、次第に暗くなっていく。

頑張っても、無理なんだ。

俺の書いたものなど、ちゃんと読んでもくれないんだ。


報われなかった志。

届かなかった真心。

誤解と失望。それが、彼の魂の力を少しずつ削っていった。


「もう、いいのかもしれないな」


誰にも聞かれない声で呟いたその日から、

レオニスは以前よりも頻繁にマリアンヌのもとを訪れるようになった。


中庭の木陰、図書室の奥、講義の休み時間。マリアンヌは笑顔で彼を迎え、甘えるように袖を引いた。


「ねえ、殿下。次のお祭り、一緒に行ってくださる?」


「ああ。君が望むなら」


最初はただ応じるだけだった。

だが、いつしかレオニスの心は、現実から逃げ込むように彼女に傾き始めていた。


エレーヌと距離ができたことも、

弟王子と疎遠になってきたことも、

自分でも気づかぬうちに、もう気にしないようになっていた。

しょせん、優秀な二人にはわかってもらえない気持ちだったから。


そして、宰相室の棚の一角。

「不採用」の箱に入った提案書だけが、静かに眠っていた。



エレーヌは、気づいてしまった。


レオニス殿下が、以前とは違っている。


授業の合間の時間、以前は欠かさず交わしていた言葉も、今では数えるほどしかない。

共に学んだ文献を語り合うことも、休みの計画を立てることも、ほとんど話題に上がらなくなっていた。


彼は、どこか遠くを見ていた。


そして、その視線の先に、いつもいるのはあの子爵令嬢、マリアンヌ。


(レオが、彼女を好きになった?)


最初は、考えもしなかった。

王太子である彼が、そんな軽はずみな心変わりをするはずがないと信じていた。


けれど、幾度か学園の廊下で、二人が楽しげに話しているのを見た。

中庭で花を指差し笑い合う声が聞こえてきた。

舞踏練習の時間には、レオニスが自分ではなくマリアンヌに手を差し伸べるのを目にした。


一度だけ、意を決して決して彼に問いかけたことがある。


「レオ。最近、あまりお話ししてないような気がするの」


レオニスは目を伏せ、少しの沈黙の後、静かに答えた。


「ごめんね。俺が、忙しすぎるから」


エレーヌは微笑んで頷いたが、

その言葉の中に、どこにも“君に会いたい”という想いがないことに気づいていた。


(もう、私は必要とされていない)


そう思うたび、胸の奥がひどく冷たくなる。


レオニスは変わった。

そして、何があったのかは、彼は教えてくれない。

ならば、きっと、それは私に関係のない出来事なのだ。


「レオ、ごめんなさい。……私、余計なことを言ったわね」


そう言って笑って見せたエレーヌに、レオニスは何も言わなかった。


その日を境に、エレーヌは諦めることを選んだ。


笑顔で舞踏会に出席し、格式どおりの距離を保ち、

人々の前では完璧な婚約者としてふるまい続けた。


もう、何も望まないと心に決めた。





その日、ユリアンとエレーヌは試験勉強のため、学校の図書室を訪れていた。

事前にレオニスも誘っていたが、いまだ来る気配は見せない。



「昔、兄上は、誰よりもよく笑う人だった。

笑顔で臣下に挨拶をし、侍女たちには冗談を飛ばし、友人たちとも分け隔てなく接していた」



ユリアンは窓の外を眺めながら、小声で言った。

ふいにユリアンの視線が止まった。そこにレオニスとマリアンヌの姿を見つけたのかもしれない。



「知ってるわ。レオのそういうところが、すごく好きだったもの」


エレーヌがほほ笑んだ。

ユリアンは窓の外を見るのを止めて、エレーヌに微笑みを返した。



「成績だってね、兄上が本気を出せば、僕なんか足元にも及ばないほど優秀なんだよ」


「そうなのね。どうしてレオは本気を出さないのかしら」


ユリアンは教科書を開いて、ため息をついた。


「学園に入る前に、僕たちは、同じ家庭教師から授業を受けていたんだ。

家庭教師たちは、兄上だけに、特に厳しく当たった。

たぶん王太子である兄上を鼓舞するつもりだったんだろう。彼らはいつも兄上と僕とを比べていた。

『ユリアン様はもっとできます』『ユリアン様に恥ずかしくないのですか』ってね。


別に兄上より僕の方が秀でていたわけじゃないんだ。兄上は王太子だから、求められる基準が高かった、それだけだ。

だけど、毎回そうやって僕と比較されて貶されていたから、徐々に兄上はやる気を失い始めた」


「わかるわ。私だって比較されたら辛いもの」


顔を顰めたエレーヌに、ユリアンは微笑んだ。


「そうだね。僕だってやる気をなくす。兄上もそうだった。ある日から、兄上は努力することを止めたんだ。

そうすると、しばらくして、まわりが噂を始めた。

『ユリアン様は、毎日教科書に目を通されているとか。……レオニス様も見習えばよろしいのに』

『レオニス様は怠けすぎです。ユリアン様はあんなに努力家なのに』

そうした言葉を、使用人の会話の端々で耳にすることが増えていった。

僕が直接聞けば注意していたけど、兄上は、知らないふりをしながら、すべてを聞いていたのかもしれない」


「知らなかった。そんなことがあったのね」



エレーヌは想像を巡らせた。


廊下の陰で、扉の向こうで。

密かに交わされる自分の悪口を、誰よりも早く聞いていたのは──

あの、何でもないような顔をして笑っていたレオニスかもしれないと。





今日の授業は、学年単位でするダンスの練習だった。違うクラスの者も、同じ学年なら一緒に学ぶ。

貴族子女たちがパートナーを探す中、レオニスはマリアンヌの前に立った。

手を差し出すと、マリアンヌは頬を赤らめながら小さく礼をし、彼の手を取った。


その様子を、エレーヌは遠くから静かに見ていた。


一曲終わり、教官が声を張る。


「パートナーを替えましょう、殿下、次はエレーヌ嬢と──」


「いや。次もこのままで。エレーヌとは何度も踊っているから練習にならない」


レオニスは、マリアンヌの手を離さなかった。

笑みすら浮かべて、マリアンヌに「それでいい?」と囁く。


エレーヌは目を伏せた。

教官も気まずげに咳払いし、それ以上は言葉を継がなかった。



それから数日。


学内の昼食の時間。

王族と高位貴族たちのための小さな庭園席にて。


「レオ、ご一緒してもいいかしら?」

そう声をかけたエレーヌに、レオニスは視線を向けなかった。


「席が足りないかもしれない。マリアンヌ嬢に訊いてみてくれ」


言葉は丁寧だったが、

だが、それが“エレーヌと一緒にいたくない”という気持ちを、はっきりと示していた。


エレーヌは唇を閉じて、静かに一礼した。


「いいえ。お気になさらず。別の場所に参りますわ」


その背を、レオニスは一度も見なかった。




そして、最後の一打は、

学園で開かれた模擬晩餐会だった。


王太子の婚約者として並んで出席するはずだったエレーヌは、

「急な用事ができ欠席する」と連絡を受け、ひとりで行くことになった。


しかし。


会場の奥、扉の前に立つレオニスの姿を、エレーヌは見つけてしまう。


その隣には、笑みをたたえたマリアンヌがいた。

レオニスは彼女に手を差し出し、入場のエスコートを務めていた。


エレーヌの隣席に、用意された名札には「空席」の札が置かれていた。


その瞬間。


エレーヌは、すべてを悟った。


もう、何も望んではいけないのだと。

この関係は、レオニスの中ではすでに“過去”なのだと。


彼は彼なりに、彼女を傷つけないように、言葉を選んできたのだろう。

だが、沈黙と無関心は、時に言葉よりも鋭く、残酷に人を斬る。


エレーヌは背筋を伸ばし、完璧な笑みを浮かべて会場を後にした。


だがその夜、誰もいない自室で

彼女ははじめて声を上げて泣いた。


捨てられたのだと、理解してしまったから。








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