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レオニスを探していたエレーヌは、薔薇が咲き誇るベンチのそばで、マリアンヌが声を荒げているところに遭遇した。
向かいに立つのは、同じ学園の制服を着ている少女だった。
リボンの色から、下級生であることがわかる。
「どうしてそんなに冷たいことを言うの?」
マリアンヌが言う。
「だって、お姉さまは『王太子殿下と仲良しの私』に酔っているだけじゃない。私には、お姉さまが自分の虚栄心のために殿下を利用しているように見えるわ」
妹は揺るぎない口調で返した。
「酷いことを言わないで! あなた嫉妬しているのね」
「そんなわけないでしょう。婚約者のいる王太子様に近づくなんて、そんな馬鹿なことはやめて欲しいのよ。婚約者のエレーヌ様に失礼だと思わないの? 第一お姉様は王太子様のことを好きなわけじゃないでしょう」
マリアンヌの顔が一瞬ひきつる。
「なに言ってるの? 私だって王子のことを本気で…いや、そんなことはどうでもいいわ!」
妹は悲しげに目を伏せた。
「お姉さまはいつもそう。努力をしないくせに、まわりに自分を大きく見せようとして必死になる」
「なんですって?」
「お姉さま……どうしてわかってくれないの? お姉さまのやっていることは王太子様とエレーヌ様に迷惑をかけることよ。まさか、本気で結婚できると思っていないでしょうね」
「そんなことわからないじゃない! 出来るかもしれないわ!」
マリアンヌは声を荒げたが、すぐに顔を曇らせた。
その様子を遠くから見つめていたエレーヌは、そっと息をつき、思った。
『あの姉妹は、優秀な妹と劣等感の塊の姉――そういう構図なのね』
これまでマリアンヌの自信に満ちた振る舞いが演技に見えたのは、こうした家庭事情からくるものだったのかと、胸の奥が痛んだ。
◇
カフェテリアの一角で、ユリアンがレオニスを鋭い目で睨みつけた。ユリアンが「どうしても話したいことがある」と半ば強引にレオニスを呼び出したのだ。
「兄上、婚約者がいるにもかかわらず、他の女生徒といちゃつくなんて、どういうつもりだ? それじゃあ、エレーヌ姉さまの立場がないじゃないか。公爵の耳に入れば、お怒りになるぞ」
レオニスは肩をすくめて、冷静に答えた。
「煩いな。マリアンヌとは一線を越えているわけじゃない。学生時代に、女生徒と仲良くするくらい、どうってことないだろう」
ユリアンは怒りを抑えきれず、声を荒げる。
「そんな問題じゃない! 兄上が婚約者をないがしろにしているから怒っているんだ。兄上の婚約者はエレーヌ姉さまだ。マリアンヌとかいう女じゃない」
レオニスは少し眉をひそめながらも、静かな声で返した。
「お前の言いたいことはわかった。だが、俺には俺のやり方がある。お前にとやかく言われる筋合いはない」
そこに、今来たばかりのエレーヌが割って入り、落ち着いた声で言った。
「ユリアン。心配してくれてありがとう。でも、私たちは政略結婚だから。レオがマリアンヌ様と仲よくしても、私は気にしないわ。だから、どうかお二人とも冷静に」
ユリアンはエレーヌを見てから、再び兄を睨みつけた。
「エレーヌ姉さま、我慢しないで。エレーヌ姉さまが傷つくのを見ていられないんだ」
レオニスはわずかに苦笑しながら答えた。
「エレーヌの言う通り、俺たちは政略だ。学生の間位、自由にしてもいいはずだ」
きっぱりとそう言い残して、レオニスは背を向ける。
去っている靴音が響き、沈黙が残った。
エレーヌはその場にぼんやりと立っていた。
ユリアンが振り返る。
「姉さま……」
「大丈夫よ。ありがとう」
エレーヌは微笑んだ。
(政略結婚だから……愛されなくても仕方ない。でも、本当にそれでいいの?)
胸の奥が、冷たい水で満たされていくようだった。
(私は公爵家の娘。王太子の婚約者。誰よりも彼の隣にふさわしい立場にある──なのに、彼はその隣を見てくれない)
「レオには、もう私は必要ないのかしら」
ふと漏れた独白に、ユリアンが顔を曇らせた。
(こんな関係を、いつまで続けるの……?)
エレーヌの手が、そっとポケットの中に触れる。そこにはレオニスから贈られた、ブローチがあった。
これは、婚約した12歳の日に、頬を染めたレオニスから贈られたものだ。
エレーヌと婚約できて嬉しいという言葉を添えて。
(それでも、あの日の彼は、嘘ではなかったと信じたい。けれど……)
唇が震えそうになるのを堪えて、彼女は静かに目を伏せた。
(どんなに好きでも、もう、身を引くべきなのかもしれない)
◇
貴族学園の卒業生を祝う舞踏会が始まった。
王宮の大広間には、燦然と輝くシャンデリアが眩しく降り注ぎ、卒業生や親たちの笑い声と弦楽の旋律が宙を舞っていた。
エレーヌは、美しい蒼のドレスを纏い、完璧な髪型と控えめな微笑みを湛えてレオニスの隣に立っていた。けれど──
(レオ……)
彼は、彼女の手を取って舞踏会に現れたものの、挨拶もそこそこに彼女から離れ、マリアンヌとその取り巻きの女生徒たちの輪に加わっていた。
「ほんとに? 殿下、それ学園でもおっしゃってましたよね!」
「ふふ、もう、王太子殿下ったら冗談ばかり」
華やかな輪の中心に立つマリアンヌは、金の飾りをつけた淡紅色のドレスに身を包み、女学生らしい無邪気さを振りまいていた。彼女の取り巻きたちは、初めて出席する王宮主催の舞踏会で、王太子との親密な距離感に目を輝かせ、口々に笑っている。
(彼の婚約者は私のはずなのに)
エレーヌは、誰にも気づかれないように視線を逸らし、グラスを唇に運んだ。果実水の香りが、何もかもを遠ざけていくようだった。
「ひどいな、兄上」
低く押し殺した声が隣で響いた。
エレーヌが振り向くと、ユリアンが険しい目をして、レオニスとマリアンヌの方を見つめていた。
「姉さまをここまで連れてきておいて、ほったらかして……まともな男のすることじゃない」
「大丈夫よ。気にしてないわ」
「気にしてない人がそんな顔、するわけないだろ」
エレーヌは小さく笑って、ごまかすように胸を張った。けれどその胸の奥は、拭いきれない悲しみが漂っていた。
そして、弦楽器の音が一段と高まり、ダンスの時間が訪れる。
舞踏会で最初に踊るのは王族だ。国王と王妃が中央に進み出た。
一曲踊り終わると二人は微笑みながら会場を後にした。今度は王太子であるレオニスが進み出た。その手を取ったのは、エレーヌではなかった。
「マリアンヌ嬢、光栄だ」
「まぁ……光栄なのは、私の方ですわ」
マリアンヌが嬉しそうに微笑み、二人は華麗にステップを踏み始める。会場にどよめきが走り、何人かの貴族たちが眉をひそめた。
「なっ……!」
ユリアンが怒気を含んだ息を吐いた。
「姉さま、僕と踊ってください。姉さまを放っておけないよ」
「ありがとう、ユリアン」
二人はゆっくりと踊り始めた。けれど、エレーヌの目はどこか遠くを見つめていた。
「本当に、大丈夫なの?」
「ええ、心配しないで。私は大丈夫」
(政略結婚だもの。愛されることなんて最初から……でも……)
心のどこかで、彼の優しさを、手を取ってくれることを、ほんの少しだけ期待していた自分に気づいてしまう。
(愚かね、私)
流れる旋律の中で、エレーヌはそっと瞳を伏せた。
そうやって、誰にも気づかれぬように、涙が滲んだ瞳を隠したのだ。
2曲目の王族ダンスも終わり、貴族たちがダンスを始めた。
そのタイミングで、エレーヌとユリアンはダンスの場から離れた。エレーヌはユリアンに促されるように、飲み物を取りにその場を離れた。
突然の悲鳴と衝撃。
ガシャーーン
ガシャーーーーーン
会場のあちこちから大きな音が響き渡った。
エレーヌの目の前で、巨大なシャンデリアがひとつまたひとつと床へと落ちてくる。
シャンデリアは激しく床を砕き、ガラスの破片と煌めく装飾が散乱。まるで地鳴りのような轟音が辺りを包み込んだ。
エレーヌの視界は一瞬、光と破片の渦に呑まれた。足元の床が震え、全身が凍りつくような恐怖が胸を締めつけた。
「伏せろ!」
鋭い声が空気を裂いた。その声が誰のものかを判別する間もなく、強い腕がエレーヌの腰を抱き、突き飛ばすようにして、彼女を押し倒した。
エレーヌは床に背中を打ちつけることはなく、レオニスの胸に押し当てられるようにして床に転がった。
「っ……!」
痛みと混乱のなか、ようやく視界が戻ったとき、目の前には砕け散ったガラス片、そして、燃え上がるシャンデリアの残骸があった。
(え……? あそこ、さっき私が……)
レオニスの腕の中で、エレーヌは愕然としたまま息を呑む。
彼女のいた場所に、巨大なシャンデリアが落ちていたのだ。
ほんの一瞬でも遅ければ、確実に私は……。
はっとしてレオニスを見た。
「マリアンヌ様は? 助けなくていいんですか?」
震える声で、かろうじて問いかけた。
レオニスの腕が、ほんのわずかに強く抱きしめてきた。
その腕の中で、彼が目を伏せたのがわかった。
「彼女は兄と一緒に来ている。彼に任せておけばいい。それはともかく、今回も恰好よく救えなかったな。さあ、走るぞ」
レオニスはエレーヌを抱きかかえたまま、火の手の上がった会場を一直線に駆け抜けた。マリアンヌの無事を確かめもせずに。
(どうして……私を?)
エレーヌは何も言えず、ただレオニスの胸元で震えていた。
その腕は確かに温かくて、優しい。
(これは、ただの義務? それとも……)
混乱と衝撃のなか、彼女の胸には一つの問いかけだけが残されたまま、舞踏会の夜は混沌の様相を呈していた。




