そのⅨ
そこに幸せがあったとして。
たとえば血と汗を垂らしながらその足でたどり着いたとき。
人はそこに幸せ以外になにを見ることができるんだろうか。
毎週日曜日に投稿していきます。よろしくお願いします。
これが私の好きなことなんだと認識するその天秤は、一体、私の体のどこに仕組まれているのだろうか……。
私にはそれが分からないから。いや、分かろうともしないから。
だから続けていくうちにその好きが本心なのか怪しくなって、曖昧になって、霞んでいく。
そして、振り返ってできたときに見える歪な橋が、やっぱり違うんじゃないかと足を止めるんだ。
「愛歌はそこで前を向いたんだ……」
彼女は振り返ったときに見える人の数の分だけ、後ろ指を差されて、冷たい目で見られて、鋭く妬まれたとしても。
それが好きなんだと信じたから、彼女の今は、ああも輝いているんだ。
できない人間が、さらにできない人間を探すくらいなら。
私はやはり、彼女のような貫く意志の持ち主の方が、よっぽど価値があると思う。思うほかない。
「なのにできても苦しいのはなんでなの……」
それなのに、そんな愚かな弱い人間を差し置いたとしても。
諦めて挫折して、そこで転んだままの人間に睨まれることが、できるようになった人間に与えられる祝福だというなら……。
どうして人は、独りで喜ぶことができるだろうか……。
「………………だから」
だから言おう。
彼女は強いんだと。
それでもその好きが向かう先を愛してくれる、純粋に純白をその色で染めてくれるような純情な人間を信じているんだから。
そして、これは理想論だ。私だけの独りよがりな勝手だ。
「なれるなら、私がその人になりたい」
烏滸がましくも、私にはそんな希望が残されているような気がしたのは確かだった。
そして、高ぶる気持ちを抑えるように、私はその日の終わりを告げるように、瞼を閉じた。
目覚めの朝を知らせてくれたのは、不規則に地面を叩く雨音だった。
ザーザーと激しくではなく、ポツポツと怯えるようなそれは、まるで私の漠然とした存在感みたいに。
「今日は雨か…………」
雨の日のにおいはどこか切なくて寂しくて、虚しくて……。
なぜかネガティブな気持ちの方へ招いていく。
私は最初に携帯の画面を開いて時間を確認する。
「まだ6時じゃん……」
時間と直結しないこの外の暗さが嫌いだ。
起きても朝が来ていないんじゃないかと、今日がぎこちなく始まる歯痒さに嫌気が差すから。
彼女ならば、きっと言うだろうけど……。
ーー雨が止んで、そのあと晴れた時、空には綺麗が虹の橋がかかるのよ。
みたいなことを平然と笑って見せることだろう。
でも私は心配や不安が差し迫る……。
じゃあ今日の空はそのままなのかと。
明日や、その先のいつかに、その虹を生み出す日差しのように夢が叶うとして、ならば今日という雨はなにも変わらないのかと。
そんな濡れた地面ばかりを見ているような気分になる。
私の心境は、いつになっても固まる気配がないその地面のように、ぐちゃぐちゃとしていた。
「…………学校、行かなきゃ」
それはそれとして。
私はこんな日だからこそ、傘を求めるように、頭の中で学校に向かう自分を思い浮かべた。
どんな日でも、どんな彼女でも、私が肯定することが使命だから……。
自室を出て、階段を降りると閉まり切ったリビングの扉を開く。
部屋の掛け時計を見ると、まだ7時になったばかり。
それなのに未だこの部屋に明るみが取り戻されないのは、この天候のおかげと言うべきなのだろうか。
「…………」
しんと静まり返った誰もいないリビングの真ん中にあるテーブルの上には、朝食が用意されていた。
私は部屋の電気も点けずにその気味の悪い薄暗さの中で、先に座っては丁寧に置かれた箸を手に取る。
「…………おいし」
口に運ぶメニューは、見てわかる通り今日の弁当を作った余り物だ。
ウィンナーと卵焼きはいつも毎日あって、もう一生忘れさせてはくれないくらい私の舌に馴染む家の味がした。
本当、毎日毎日…………晴れの日も、雨の日も、元気な日も、落ち込んだ日も……。
「なんでお母さんってこんなすごいんだろ……」
なにもできないし、大して褒められたこともしたこともないし、むしろ迷惑ばかりかけてなにも安心なんてさせてあげられてないのに……。
こんな面倒なことを毎日続けてくれているんだ。
本当は自分のしたいことだってあるかもしれないのに、私を育てるために今日だって朝早くから仕事に行ってるし。
何一つ返せていないし、理想の子供に成長してるわけもないのに、こんな命のために、人生をかけてくれてるんだ……。
「…………」
そして今日も、こんな風に置き手紙なんかそっと添えてくれてるし。
ーー今日も一緒に夕飯食べれたら嬉しいかな。
なんて、私にはもったいなくて持ちきれないほどの気持ちを綴ったそれ。
「言われなくてもここに帰ってくるってば……」
私はお母さんが大好きだ。
言わなくても分かってほしいくらいは。
でも、こんなことされると。
余計に私はそれを直接声にできない勇気が、惨めに思えてくるじゃないか……。
今日の登校はいつもより少し早かった。
普段と変わらないペースで学校に行く支度をしていると自然と家を出るタイミングも早くなっただけだった。
学校へ向かう道は、ちょうど会社へ出勤するサラリーマン達と合わさって少し混雑していた。
歩いていく途中で、駅を通り過ぎると、大抵の人間はそこを右折しては私の視野から消えていく。
だんだんと開放的になっている歩道の端っこをちびちびと進んでいく。
「おう、今日は早いんだな透華」
なにも考えないでぼーっと雨音に耳をすましていると、背後から知っている声が横入りしてきた。
首を回すと、そこには彼がいた。
「あ、進也。おはよ」
「あぁ、おはよう。どうしたなんか用事でもあるのか?」
「なに? 私が早くに学校行くのがそんなに珍しい?」
「いや、お前がっていうより、こんな時間に歩いているやつなんていつもいないからよ」
「まぁ……今日はそういう気分だっただけ」
「そうか」
「そうだ。てか進也はいつもこんな時間に学校行ってなにしてんの?」
「寝てるだけだな。どうせ家にいても落ち着かねぇし、パン作る以外はすることないしな」
「あっそ」
「あっそうだ」
「ふっ、なにそれ」
「なんだっていいだろ」
なんてことない、なんの意味もない、何気ないやりとり。
たぶん、私がフラットに冗談とか、ストレートなこと言えるのは彼だけなんだと思う。
それがどうしてなのかを考えると……よく分からない。
どうでもいいわけではない。でもそんな感覚に似ているような気もしている。
彼なら、なにを言ってもそれが私の冗談なのかとか本音なのかとか、そういうのが理解されていると私は思い込んでいるだけなのかもしれない。
言わば、都合のいいロボットみたいな? それは言い過ぎか……。やっぱりよく分からないな。
「それで、今日はいいパンができたの?」
「ダメだな……やっぱ雨の日はまた生地の質が変わるから難しいもんだな」
「そうなんだ。そんなに雨と晴れじゃ変わるんだ」
「変わらないと言えば簡単なんだけどな……でもそれがいつも通りだとはおれは思いたくないから。ちょっとのことでも気にしないと本気でやってる意味がない」
本気でやってるから本当は面倒で突っ込みたくない領域まで気にしないといけないと、言ってるような気がした。
それは、あの橋で例えるなら。
今まで作り上げた橋がぎこちなくて不細工だったとして、そのままでも続ければ渡り切ることはできるけど、少しでも綺麗な橋を作りたいと、ほんの些細な点でも微調整を繰り返そうとするような感じだ。
そのせいで余計に時間はかかると分かっていても、それをしなきゃ渡ったあとでさらに面倒ごとが待ち受けていることの方がより分かっているから……。
「進也」
「ん、なんだ?」
「それでも、パンを作るのは楽しい?」
「当たり前だろ。じゃなきゃ今の俺はここにいないさ」
そう言って笑う彼は太陽のように眩しくて、ついつい向日葵でも咲かせてしまいそうだった。
でも、それくらい彼は大きくて、遠くて、私は小さくて弱くて……。
「あんたが羨ましいや……」
それが妬みなのか、尊敬なのか、入り混じった汚い声色が、誰にも届かないくらい細く空気を震わせた。
どうも雨水雄です。
もう……蝉の声が夏の空気を弾ませる時期もやってきたのだと耳を叩く感覚が教えてくれます。
あぁ、夏ですよ。夏。青春が過ぎ、朱夏の訪れです。
それでもまだ青春の響きは衰えを知らず、この言葉の高鳴りはたぶん夏を謳歌へ導いてくれるでしょう。
みなさん、青春は今年の夏にもやってきますよ。気付けば秋に流されてしまうので、しっかり魂を震わせてやりましょう!
と言ったものの、そう考えていると、ふと、思ったのです……。
雨水はこの執筆活動を始めてはや6年目になり、やっぱ好きなんだよなぁ……としみじみ。
一方、その年を重ねるたび、相手がいない歴も更新されていくばかりで、はや8年目に突入です。
恋する青春も、また好きなんだけどなぁ……なんでかなぁ……なんてしくしく。
というわけで、与太話もここまでで、今週も読んで下さりありがとうございます。
では来週もよければここで。