そのX
その頂へ踏破を目指そうとしても。
諦めなくても迷うことはあるし、頂上から眺める景色からより高い頂がそこにあることもある。
…………でも。
迷う人の気持ちが分かることがなにより人として頂の見え方が変わるんだろう……と。
「んじゃ俺はこっちだから」
「うん、じゃね」
私と彼はお互い手をあげて、それぞれの教室へ向かう。
彼が教室へ入っていく横を通り過ぎ、私は奥に進んでいく。
「…………」
普段なら、この短い距離ですら騒がしいというのに。
雨音だけが残響する廊下は、やけに静謐としていて余計にどんよりと重たい空気に包まれていた。
ただ、いつもより少し時間が早いというだけの相違点があるだけで……。
こんなにも人は時間に支配されているんだな、と。
だから焦って、失敗して、取り戻そうとするにもなにもかも足りなくて、いつも後悔するという時間を見返してしまうばかりだ。
そう考えると、やっぱり時間とはあまりにも理不尽だ。
不可逆で遡ることなんてできっこないのに、未来を確約することも叶わない。
そのせいで縛られて、扱われて、人との距離感ですら上手く立ち回らないと失われていくんだから……。
「残酷すぎる……」
生きることの正解ってなんだろうと分からない苛立ちが小さく声になる。
まぁ、今のこの時間なら誰もいないだろうと安心して扉を開けて教室に入る。
その開けた扉を、誰が開錠したのかも考えることもせずに……。
「えっと…………お、おはよう?」
「あ…………う、うん。おはよ……」
この一瞬で、私はすでに後悔を覚えた。
つい、気が緩んだせいでこの子に聞かれた独り言を。
このたった数秒だけの時間を。
やり直させてほしいと…………。
「残酷って……黒田さん朝からどうしたの?」
今、この教室には私とこの子しかいない。
故に、こうして対面して座っては粘着質の高い視線を向けられているわけなんだが……。
「いやいや別になんにもないよ……」
実際、誰もが見て見ぬふりしてしまうような……そんなどうでもいいことを考えていただけに過ぎないんだから。
だから、この子から感じる憐れみというか哀れみというか……そんなものは杞憂そのものだ。
「そうなんだね。でもなんか悩んでるんだったら話してねっ」
当たり障りのない、付かず離れずのそれを口にして、この子はよくできた微笑みを浮かべるのだ。
ああ、そうだ。これはよくある場面なのだから。だから私の周りはこんな表情一つくらい簡単に会得してしまうのだ。
心配を促すように口先だけでそれを言ってはそのぎこちない笑い顔で優しさの相乗効果を利用するのだ。
だってそうじゃないか。
誰だって悩みはある。そんなこと当たり前で、だからそれを分かっている風に話すのは容易なのだ。
だから、こんなやりとりは見渡せばそこらじゅうで感染病のように広がっている。学校とは、学生とはそんなもんで、その度に上手く躱して、避けて、遠ざけて上手く毎日を送っているのだ。
「うん、ありがと。もしどうしようもなくなったら高原さんに相談させてもらうね」
そうやって、今もこんなめんどくさい場面をそっと目の見えないところへ置いておくのだ。
「うんっ。いつでもどうぞ」
この子はそれを最後にして、また俯くように視線を下ろした。
「…………」
「………………」
唐突の沈黙。
静寂の中で、密かにうるさい摩擦音。
その紙と鉛が擦れ合うカリカリとする音は。
まるで、彼女が奏でるその指先と似ていて、好きなんだな……と。楽しそうだな……と。
二人きりのはずの教室の中は、そう思っているのが私だけみたいな感覚に襲われる。
まるで 今、目の前にいるこの子の中には私が見えていないんじゃないかと焦燥感を覚えるほど、その鉛筆が紙の上を走る音は激しくて、それでいて迷いがなかった。
「………………ねぇ、高原さん」
「ん? どうしたの黒田さん」
「絵、描くの楽しい?」
「うん、楽しいよ」
どこか落ち着いている声色は、あまりにも自然体で、この子はあっち側なんだと思い知らされる。
「辛くなったり、苦しくなったりしない?」
「ん〜……まぁ、たまにあるかな」
「それでも止めようとか思ったりはしなかったの?」
「…………」
ありきたりな質問をした。
すると、この子はぴたっとその手を止めて私を見た。
ちょっとうるさかったかな……とも思った。
でも、その目は真っ直ぐでしっかり自らの意志を語っていた。
あぁ、分かるよ。この目だ。彼からも感じるあの瞳だ。
言いたいことは、それだけではっきり伝わるよ。
「えっとね、怒られたり馬鹿にされたりしたらさ……思うときもある。でも、結局それで止めちゃうのは悔しいから。だからまだ続けられるかな」
「そ、そっか……じゃあ高原さんは将来も絵を描いて生きていくの?」
「はは……生きていくっていうのはなんか大袈裟過ぎてよく分からないけど……将来のことはあまり考えたことないかな」
「そうなの?」
明日があるから。将来があるから。未来があるから、私たちはそこに夢を思い描くのではないのだろうか……。
そう考えてしまう私にとっては、この子がどうして今こうして楽しそうに絵を描けるのかが分からない。
「なんかね、正直言うと将来ばっかり話すのは嫌っていうか分からないことばかり考えるのはもったいないなって思うの」
「でも将来なりたい自分を想像するから今その夢に近づくんじゃないの?」
「私も中学生までそう思ってた。でもじゃあ黒田さんに一つ聞いてもいい?」
「うん。なに?」
「そう言うなら、今日の私はなにもできないの?」
「え……そ、それは、まだなにもできないんだと……思う」
「うん。たぶん今日の私は昨日の私と比べて、他の人から
見たらなにも変わってないんだと思うよ。でも実は違う。きっと明日の私も今日の私とは違う。絵を描いているから。描けば描いた分、私はまた絵を描くの」
「それは高原さんにとってなりたい未来像があるからじゃないの……?」
「確かにないと言えば嘘になるけど……。でもそうやって将来ばっかり膨らましてたらね、明日を見失うの。もっと上手くなってからとか、言い訳ばっかりしてチャンスを見逃しちゃうの」
「……そう思うなにかが、高原さんにはあったんだ?」
「うん。それを中学生最後に出したコンクールが教えてくれたの。それまでずっと逃げてて、もっと上手に描けたらコンクールに出すって先生に言ってて……」
「うん」
「それで、3年生の最後の機会にそろそろかなって、最後だし今までの全部を出し切って作品を出したの……でも……」
「…………そっか」
なんの賞にも引っ掛からなかったんだ……。
「そのとき、私って小さいなって感じて……。もっと最初から私はダメダメなんだって気付いておけばって……そのとき後悔した」
「それでも高原さんはそこで絵を止めなかったんだ」
「うん……正直そのとき不安はいっぱいあったよ。このままで本当に未来の私は笑えるのかなとか。ちゃんと絵を描いて生活できるのかなとか……でも、私にはそれしかなかったから。それしかやってこなかったから」
「まだ高校生だし新しいことも見つかったかもよ?」
少し、意地悪な問いかけをした自覚はある。
でも、この子は私から目を逸らさなかった。不器用に笑ったりもしなかった。
「だって、明日変われるチャンスをくれたのも絵だけだったから、かな」
「変われるチャンス、か……」
「そうだよ黒田さん。今から大きなことしないと、勇気とか覚悟とか振り絞らないと思ってる未来なんてやってこないんだよっ」
聞いていれば至極当然で、それが一番の近道だってことは頭で理解はしている。
でも、それをできる人を見ているだけだから分かっているふりをしているだけなんだ。
だからこの子は……この子は本物だ。
「高原さんは強いな……」
「え? そ、そうかな……まだまだだよ。まだまだだから明日も挑戦して、う〜ってなってちょっとずつ大きくなっていくの」
「じゃあ、改めて聞くけどさ。そんな高原さんが目指す未来像ってなに?」
「えっと……そうだな、うん。ずっと絵を描いてることかな」
「そっか……そりゃすごいや」
やっとこさにこっと笑ったこの子の顔は。
それが一番すごい生きてるってことに気付いていない、大きな人間のそれだった。
どうもこんにちは雨水雄です。
梅雨も明け、蝉時雨の似合う時期になってきましたね。
雨水は今年の夏はライブに行こうかと!
海も祭りも憧れではありますが残念ながら相手が……という。
みなさんも熱中症に気を付けて夏をはっちゃけちゃいましょう!
さて、今週もここまで読んでくださりありがとうございます。
では来週もよければここで。




