26:ありのままの君でいて
わかっている。頭ではちゃんとわかっている。
(わたくしだけの、なんて、無理なことくらい……)
マティアスは国王で、エミーリアは遠くない未来にその妃になる。マティアスという人は自身の生涯を国をよくするために使っていくだろうし、エミーリアもそれを支えていく。そのことにはなんの不満もなく、むしろ誇らしささえ感じている。
そこにエミーリア個人としての、ささやかな希望なんて割り込む余地はない。国の未来に関わることならなおさら。
「俺は」
星屑のようにこぼれ落ちてきたマティアスの声に、エミーリアは顔をあげた。
肩に触れるマティアスの手が熱い。春になったばかりだ、まだ夜も冷える。外の空気が冷たいから、余計に体温が高く感じるのだろうか。
「ただの一人の男として、君に会いに来た」
マティアスにとって国王であることは日常的なことだ。それをごくごく普通に彼も受け入れてきていて、常に国王として正しい振る舞いであるかどうか考えていたはずだ。
(……それなのに)
マティアスは今まさに、国王らしからぬことをしている。護衛もつれず、連絡もなく、公爵邸に忍び込んで婚約者と逢瀬をかわしているなんて。
きっと、婚約したばかりの一年前ではありえなかったことだ。
「……マティアス様」
陛下とは呼べなかった。それは今この場で使うには相応しくなかったから。
「わたくし、完璧じゃなくてもいいですか。完璧であろうとしなくても、いいですか?」
あなたに相応しい理想の淑女じゃなくても――。
「それでも、あなたのお嫁さんになっても、いいですか……?」
問いかける声は震えてしまった。答えはきっと、エミーリアの望むものであるという予感があるのに、それでもやっぱり怖かった。
エミーリアが完璧な令嬢という武器を捨てたとき、なにが残っているのかエミーリア自身にはまだちょっとわからなかったから。
マティアスは子どものようにくしゃりと顔を歪めた。泣き出してしまいそうな、ほっとしたような、そんな顔だった。エミーリアは抱き締めてあげたいと思いながら手を伸ばして、そっとマティアスの頬に触れる。
「ただの君がそばにいてくれるだけでいい」
だから、とマティアスが懇願する。
「俺と結婚してほしい」
それは春の終わりに空から降ってきた淡雪のようにやわらかく儚げな声で。エミーリアがこれまで聞いてきたマティアスのどの声にも似ていない。いとおしくてたまらなくて、その声をそのまま手のひらで包み込んで大事にし舞い込んでしまいたかった。
「はい。……はい」
触れることのできない声の代わりに、エミーリアはマティアスの頬を両手で包み込む。
「愛してます、マティアス様。わたくし、絶対にあなたをしあわせにします」
もう不安はなかった。
もう怖いものなんてなかった。
だってエミーリアは完璧じゃなくても理想的な淑女じゃなくても、マティアスのそばにいることが許されたから。いとしいこの人が、ただのエミーリアを求めてくれたから。
「……それは、こちら側のセリフだと思うんだが」
「ふふ、でもわたくし、あなたのそばにいられるなら勝手にしあわせになれます」
「ならそれ以上にしあわせだと思えるように努力する」
マティアスが律儀にそんなことを言うのでエミーリアはますます嬉しくなってしまう。それ以上になんて、言葉ひとつで喜ぶことができてしまうから少し手を抜いてくれるくらいでちょうどいい。
だってそうじゃないと、エミーリアのほうがどんどん頑張ろうと思ってしまうのだ。
「決めました」
エミーリアは気を引き締めてマティアスを見る。
「なにを?」
そんなエミーリアを見つめて、マティアスは首を傾げる。
「わたくし、子どもは五人……いえ、七人くらい産みます」
決意に満ちたエミーリアの表情に、マティアスは一瞬言葉を失った。なにがどうしてそうなった、と頭のなかでこれまでの会話を振り返ってみたがさっぱりわからない。
「いや、その、それはおいおい考えていけばいいんじゃないか?」
「大丈夫、いける気がします! もともと多産の家系ですもの、お母様は三人ですけど、お祖母様は六人産んでおりますから!」
そして何よりエミーリアは祖母や曾祖母に似ていると言われてきたのだ。ならばなおさら希望が持てるというものではないだろうか。
エミーリアから不安げな空気が一切なくなったことにマティアスはほっとしつつ、暴走気味になってしまった原因がわからず少々困り果ててしまった。
「マティアス様は希望はありますか?」
具体的に何人子どもがほしいか、という話なのはわかっているのだが、希望と言われるとマティアスが浮かぶのはひとつだけだった。
「何人いてもかまわないが、君との時間が減るのだけは嫌だな」
ましてまだ結婚前、これからは新婚なのだ。子どもができるとしても新婚生活を楽しんだ一年くらい先であってもいい。
「そ、そ、それは、善処します、けど」
エミーリアは真っ赤になりながらもごもごと口ごもる。マティアスからの不意打ちに頭も少し冷静になれた。
「……とりあえず、今やるべきことは公爵に謝罪してくることか」
苦笑するマティアスにエミーリアは「まぁ」と目を丸くした。
「こっそりいらしたなら、こっそりお帰りになられるのかと……」
なぜならそれがロマンス小説の鉄板だからだ。そういうものなのかなと思っていた。
「今ごろヘンリックが事情を説明し終えたところだろう。顔を出さないわけにはいかない」
「あら、ヘンリック様もいらっしゃっていたんですか」
エミーリアはすっかりその存在を忘れていた。ヘンリックがマティアスを一人で行動させるわけがないのに。
「さすがにここに来るまで一人も護衛をつけないわけにはいかないと言われた。あと……侵入するときに警備の者を二人ほど、気を失わせてしまった」
「まぁ」
それはなんというか、警備の者も運がなかったというか。
なんて相手は国王だ。もちろん警備の者にはわからなかっただろうけれど。
(……警備の方々の訓練を増やさなくてはダメかしら)
あのヘンリック・アドラー相手だったのなら言い訳もできるかもしれないが、マティアス相手に簡単に負けてしまうとは。いくらマティアスが日頃鍛えているとはいえ、本来は本職の者が守るべき人だ。
「ではわたくしも一緒に叱られにまいりましょうか」
「いいのか?」
「だってわたくしも共犯みたいなものですもの」
ふふ、と笑うエミーリアにマティアスは手を差し出す。
まるでこれから踊り出すかのように優雅に歩き出し、二人は部屋を出た。




