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第十話 約束

 

 Side...yukiya



 両腕を振って走ったのは久しぶりだ。

 五年間、忘れていた感覚はすぐに取り戻した。何の違和感もなく、俺は左腕を振っている。

 指の形も、筋肉量も、今の右腕を鏡に写したように同じだった。

 俺は住処にしている長屋へ駆け込み、棚を漁った。五年前まで使っていた短刀を二本、着物の袖に仕込む。

 そして足早に長屋を出ると、息を切らせた七依と心紅朗が立っていた。

「ユキちゃん…」

「また行くのか、久慈川の屋敷に」

 心紅朗の問いに、俺は無言で二人を見る。助け出してくれた彼らには申し訳ないが、行かなければならない。俺のために代償を払ったかもしれない、久慈川の元へ。

「ユキちゃん、あの人のこと好きなんでしょ?」

 唐突に、七依がそんなことを言い出した。

「僕、見ちゃったんだ。ユキちゃんを助けに行った時…」

「……」

 見た、というのはおそらく縁側で久慈川と昼寝していた時のことだろう。

 何か応えなければならないのに、また俺は言葉を見つけられなかった。

「答えてよ、ユキちゃん」

 少しだけ潤んだ七依の瞳が、睨むように俺を捉える。

「…俺は、久慈川が好きだ」

 絞り出せた言の葉は、たった一言だった。続けられる言葉を、必死に考える。

「だから、あいつが代償を払ってたら、俺…」

 自分でも情けなくなるほど震えた声だった。拙い言葉しか思いつかなくて嫌になる。

「なら行け、ユキ。花室さんには俺が言って───」

「───その必要はないよ、心紅朗」

 その時、不意に俺の部屋の隣、心紅朗の部屋の戸が開く。穏やかな声とともに、花室さんが部屋から出てきた。

「花室さん」

「心紅朗に依頼を伝えようと待っていたら、話を全て聞いてしまった」

 それにしても外は寒いね、と言って彼は両手を着物の袖に入れる。そして、俺の方を見てにっこり微笑んだ。

「雪弥、君を解雇する」

「えぇ!?」

 その言葉に、俺より七依と心紅朗が驚いている。何を言われるかだいたい察していた俺は、黙って花室さんに向き合った。

「殺しのできない殺し屋はいらないよ、どこへでも行くといい。その代わり、二度と私たちに関わることは許さない」

「はい」

 俺ははっきりと頷く。首輪か足枷か、俺を繋いでいた重たい何かが落ちた気がした。

「そんな…もうユキちゃんに会えないの?」

 悲痛な表情で、七依が大きな瞳から涙をこぼす。心紅朗も、どこか寂しげな顔をしていた。

「今まで、ありがとう…七依、心紅朗」

 最後の最後まで、俺は上手に言葉を紡げない。

 十年以上、共に過ごしてきた仲間に、伝えたいことはもっとたくさんあるはずなのに。

「っ…」

 駆け出した七依が、俺の胸に飛び込んでくる。俺はとっさに両腕で彼女を受け止めた。

「ユキちゃん…っユキちゃん」

 何度も俺の名前を呼びながら、七依が泣きじゃくる。戸惑いながらも、俺は彼女の小さな体を抱きしめた。

「…元気でな」

 顔を上げると、いつもの爽やかさを欠いた心紅朗が笑っていた。ぎこちない笑顔に、俺は唇を結ぶ。笑おうとしたら、涙が出そうだ。

「あ、言うの忘れてたけど、久慈川思季暗殺の依頼人は別件で命を落としてるんだ。だからこの依頼はもう無効なんだよ」

「…早く言ってください」

 てっきり、他の殺し屋が暗殺に向かうのだと思っていた。久慈川の実力なら殺されることはないだろうから心配はしていなかったが。

 強い上に妙な薬まで持っているからあいつはたちが悪い。殺すのは至難の技だ。

「良かったなー、ユキ」

 心紅朗がけらけらと笑い飛ばす。七依は変わらず、俺の胸でぐずっている。

「あぁ…」

 俺は苦笑しながら、七依の頭を撫でた。

「ユキちゃん、元気でね…」

 しゃくり上げながら、彼女は俺の着物で涙を拭いた。目からも鼻からも汁が出ているが、まさか俺の着物で鼻水も拭ったのだろうか。

「ナナ」

 心紅朗が七依の肩を引く。名残惜しそうに、彼女は俺から離れた。

「…今日まで、ありがとうございました」

 俺は三人に、深々と頭を下げる。

「長い間ご苦労だった、雪弥」

「幸せになれよー」

「さよなら、ユキちゃん」

 これが、彼らと交わした最後の会話だった。俺は仲間に背を向け、久慈川の屋敷に向かって走り出した。



「───あ、おい、レオン」

 ふわり、ふわりと雪が舞う。久しぶりに久慈川の屋敷へ訪れると、最初に俺に気づいたのは馬だった。

 久慈川が獅子レオンと名付けた、ひどく行儀の良い馬が俺に向かって突進してくる。

 その後ろを、餌袋を抱えた比鷹が追って来ていた。

「レオン…久しぶり」

 レオンが俺の頬をぺろぺろと舐める。相変わらず整った毛並みを、懐かしみながら撫でた。

「貴様、よくものこのこと戻って…んぬぁ」

 俺を睨みつける比鷹の唇を、レオンがぺろりとひと舐めする。

「こら、餌はこっちだろう」

 彼は持っていた紙袋をレオンに押し付けた。餌やりに慣れていないのだろうか。

「…久慈川は」

「思季様は先程、急におひとりで出かけられた」

「おまえに餌やりを押し付けて」

「……そうだ」

 比鷹はため息を吐く。

(逃げたな…久慈川)

 彼女が急に出かけた理由は確実に、この腕。

「おい、どこへ行く」

 ふらりと屋敷に背を向ける俺を、比鷹が呼び止めた。

「あいつに話がある」

 振り返らず、俺は再び走り出す。屋敷の前に薄っすらと残っていた足跡を辿ると、徐々にそれは雪が埋める前の真新しい跡に変わっていった。

 川辺の風は冷え切っていて、川沿いの通りは特別寒い。夏場は人の多いこの場所も、冬は閑散とする。

 そんな中、かかとの高い靴で足跡を連ねて行く人影がひとつ。

 見覚えのある袴姿、華奢な肩とまっすぐな黒髪。腰には太刀を差していた。

「…っ」

 俺は両手に短刀を持って地面を蹴る。わざと足音を立てて、彼女の背後から襲いかかった。

「!?」

 俺の気配に気づいた久慈川が振り返り、素早く太刀を抜く。首を狙って左手の刀を振ると、彼女は両手で柄を握り、その一撃を受け止めた。

(…腕は動くのか)

 両足も両腕もちゃんと動いている。俺の足音にも気づいた。なら、彼女が払った代償は何だ。

「っ…」

 俺は右手の短刀を久慈川の首に突き立てる。彼女がその刀に気づいたのは、刃先が首に触れた後だった。

「……」

 ぎりぎり皮膚を破く手前で刀を制止させる。一瞬だけ目を見開いた彼女は、俺を見て穏やかに笑った。

「雪景色に見る君も美しいな。私に何か用か」

 透き通った声で砂を吐くような言葉を並べるところは相変わらずのようだ。

 俺は短刀を鞘に収め、久慈川の頬に触れた。親指で軽く目尻を撫でると、彼女はぴくりと肩を震わせる。

「左目、見えていないな」

「…触らないでくれ」

 久慈川は露骨に動揺を見せた。俺の手を払い、太刀を鞘に収める。

 彼女が払った代償はおそらく左目の視力。両目の視界があったなら、俺の右腕の動きは見えていただろう。しかし彼女は見えていなかったが故に、反応できなかった。

 それに、片目では距離感がつかみにくい。道理で、一撃目を受け止める動作も不自然だったわけだ。

「この腕の代償、だな」

「っ!」

 久慈川が目を見開く。その左目は、少しくすんでいた。

「…何故、君が知っているんだ」

「人に聞いた」

「そうか…まいったな」

 彼女は無理やり苦笑いを浮かべ、俺から目を逸らす。

「この腕を、返す方法はないのか」

「ない。それはもう君の体だ」

 久慈川は全く俺を見ようとしない。名前すら呼ばないから、ひどく苛立つ。

「…余計なことをしてくれたな。こんな得体の知れない腕、気持ち悪い」

 無意識に、言葉が口をついた。傷つけたいわけじゃないのに、刃物のような言葉しか出てこない。

「それは、悪かった」

 声も指先も震えている。久慈川は隠すように唇を噛み、拳を握りしめた。

「…君にできる、何よりの償いだと思ったのだ」

 そう言いながら、彼女は恐る恐る視線を俺に向ける。

「そんな顔を、させたかったわけではない…」

 今、俺はどんな顔をしているのだろう。笑ってはいない、泣いてもいない。嬉しいわけでも、悲しいわけでもない。

 ただ、悔しいだけだ。

「俺は…おまえに代償を払わせてまで、腕を取り戻したくはなかった」

 俺のために久慈川が片目を失ったことが、悔しい。こんな形で失ったものを得ても、何も嬉しくない。

「君のためなら、片目など安いものだ」

「安いわけあるか、馬鹿が」

 俺は久慈川をきつく睨んだ。ばつが悪そうに、彼女は眉を下げる。

「…これ以上ここにいても意味はない」

 呟いて、俺は久慈川の横を通り過ぎ、まだ足跡のない新雪へ踏み出した。

 ───ただ、隣に居られるだけで良かった。

 共に過ごしたあの束の間のように、穏やかな日々がこの先に待っていてくれたら良かった。

 罪悪感を巻きつけた左腕。こんなものをぶら下げて、どうして彼女の隣にいられようか。

 きっと彼女は追ってこない。今までだって、ずっと一線を引かれていた。贖罪を遂げた彼女に、俺を追う理由があるとすれば…。

「───っ、雪弥!!」

 硬い靴の足音が、後ろから駆けてくる。振り返った俺の視界に、久慈川の涙が映った。

 両腕を伸ばし、飛び込んでくる彼女を受け止める。

「行かないでくれ、雪弥…」

 久慈川の細い体が震えていた。

「思季」

 名前を呼ぶと、彼女はゆっくり顔を上げる。瞳から溢れた涙が、頬を伝った。

「やっと、お前の本心が聞けた」

 俺は指先で彼女の涙を掬う。

 必死に涙を堪えていた、あの夜のような顔はもう見たくなかった。

「私はずっと本心を語っていたぞ。君が好きだと、口に出していたではないか」

「あれは最低限の口実だろう。俺に義手をつけるための」

「…しかし、嘘偽りはない」

 泣きながら、俺に縋る久慈川の指先がひどく愛おしい。

 俺はこの左腕の礼も言わずに傷つけたのに、突き放したのに。それでも彼女の細い指は、俺の着物を強くつかんで離そうとしない。

「好きだ、思季」

 俺は両腕で久慈川を抱きしめた。彼女にもらった左腕のおかげで、愛しい人をこんなに強く抱きしめられる。

「私も…君が好きだ」

 彼女の口から何度も聞いた言葉。なのに表情が違うだけで、同じ言葉とは思えないほど心に響く。

 俺たちは静かに見つめ合い、そっと唇を重ねた。降る雪に冷やされていく体を、二人で温めるように。

「……顔が赤いぞ、雪弥」

「おまえも赤いからな」

 離れた唇に、名残惜しさが糸を引く。

「君との唾液交換は二度目か」

「色気のないことを言うな…」

 頬を紅潮させた久慈川が、恥じるようにはにかんだ。もう一度、その唇に軽く口付けて、俺は彼女の肩に顔を埋める。

「…なぁ、思季」

「なんだ」

「いつか必ず帰ると約束するから」

 香りも、声も、笑った顔も、全てを頭に刻み込んで、俺はそっと彼女を離した。

「俺を、待っていてほしい」

 今のままでは、俺は彼女の隣にいられない。いつか胸を張って隣を歩くために、俺は久慈川の元を離れる。

「もちろんだ」

 何も聞かずに、久慈川はいつもと変わらない凛々しい声で頷いた。

「その日がいつになろうと、私は君を待っていよう」

「…ありがとう」

 その時交わした約束は、彼女との別離のはじまりだった。

 俺はその日、函館を出て江戸に向かった。そしてその後二年間、ここへ戻ってくることはなかった。

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