普通であることの幸福
あの恐るべき旅館での「ー・五倍速サバイバル」から、無事に生還して数日。
私は、自分が今「普通の速度」で歩き、普通に息をしているという事実だけで、じわりと胸が熱くなるのを感じていた。
あの時、最後のお客様を見送った瞬間にウイルスの効果が切れ、ロビーの床へ一斉にぶ倒れた先輩スタッフたち。
翌日、目を覚ました彼らは、全員が涙を流しながら「日常ってなんて素晴らしいんだ•・・・・・」と、自動販売機の冷たい缶コーヒーを両手で愛おしそうに包み込んでいた。
「おい、いいかお前たち。俺たちはもう、二度とあの旅館には行かない。絶対にだ」「あんな狂った24時間は御免だ。これからは、地に足をつけて一倍速で生きるんだ!」
固い握手を交わし、一致団結した元・一・五倍速のプロフェッショナルたち。
彼らは命を削るようなおもてなしの魔法を捨て、それぞれの「静かで穏やかな日常」へと帰っていった。
まあ、私は最初から最後までウイルスにも感染せず、ただの一倍速のまま死にかけていただけなので、日常に戻ったところで何も変わっていないのだが。
とにかく、そんな平和な日常の象徴が、いま私の目の前で、信じられないほどモタモタとした手つきでキャベツを触っている、あの小丸さんの姿だった。
ここは、あの元・支配人である小丸さんの本来の仕事場、のどかな田舎のお土産屋さん兼食堂。
店の看板には、ゆるいフォントでデカデカと『おいしいよ』とだけ書かれている。
『おいしいよ』の厨房の奥から、たどたどしい独り言すら聞こえてこない。
昨日まで、マッハの多言語で海外客を大感激させ、脳内の言語回路をマルチタスク駆動させていたあの男が、今はただの「日本語すらおぼつかない、手際の悪い厨房のじいさん」全開で、のっそりとキャベツの塊を見つめている。
非の打ち所がない完璧なホテルマンのスマイルは跡形もなく消え去り、そこにあるのは、白い割烹着の背中を丸めて「おや?」と首を傾げる、いつもの無機質でたどたどしい小丸さんの姿だった。
(.....昨日までのあのキレキレのフロントタクティクスはどこへ行ったんだよ!)
心の中で盛大にツッコミを入れながら、私は食堂のテーブルを普通のふきんで、いつも通りの一倍速で拭いていた。
これだ。これこそが私が求めていた、何事もない平和な日常だ。
(まあ、ウイルスが切れてただのじいさんに戻った小丸さんなら、もう後ろに立たれてもあの『強烈な戦慄』を覚えることもないなーー)
油断した、その瞬間だった。
厨房の奥に立つ小丸さんは、相変わらず無機質な表情のまま、目の前のまな板にキャベツをドンと置いた。
そして、包丁を握りしめた小丸さんが、キャベツの前で、まるで目に見えない精密機械に変わったかのように、包丁で凄まじいリズムを刻み始めたのだ。
トントントントン豚トントン!
トントントントン豚トントン!!
ウイルスのブーストなんてかかっていないはずだ。
純粋な一倍速の、ただのじいさんの肉体のはずだ。
それなのに、小丸さんはキャベツの前で包丁をマッハの残像に変え、荒々しい勢いで刃を叩きつけていく。
トントントントン豚トントン!
トントントントン豚トントン!!
料理の工程など全てすっ飛ばし、ただひたすらに、包丁で「トントントントン豚トントン」とキャベツを粉砕していく小丸さん。厨房のなかに、狂気のリズムと爆音の刻み音だけが鳴り響き、私はその圧倒的な光景にただ息を呑んで立ち尽くすしかなかった。
「.・・・・・はい、ナメ」
(訳:『千切り完了だ。一倍速の限界を超えた極細の芸術を見せてやれ』)
小丸さんの動きがピタリと止まった瞬間、まな板の上には、寸分の狂いもなく1ミリ以下の細さに揃えられた、もはや煙のように儚いキャベツの千切りが山盛りになっていた。
先輩たちの「二度とあの過酷な戦いには戻らない」という一致団結を嘲笑うかのように、日常の皮を被った『おいしいよ』での、新たなるサバイバルのゴングが静かに鳴り響いた。




