タイトル未定2026/09/13 06:57
日本列島に、国旗を刺す日』あの奇妙極まりない初出勤の日から、気がつけばーヶ月が経っていた。
観光地のお土産屋さん兼食堂『おいしいよ』での労働は、想像を絶する過酷さだった。覚えることは文字通り山積み。表のお土産コーナーで嵐のように押し寄せる修学旅行生を相手にレジを連打し、お昼時になれば、今度は食堂の手伝いで文字通りバタバタと走り回る。そんな目まぐるしい濁流のような日常の中で、私はどうにかこの店に馴染みつつあった。
ちょうどお昼のピークが過ぎ、厨房の片隅でようやく一息ついていた時のことだ。
厨房の主、小丸さんの外見は、残り30%ほどの薄汚れた白髪が後頭部に寂しくへばりついているだけの、ただのハゲオヤジである。
「・・・・・・・トントントントン豚トントン、ナ
メ」
毎日毎日、来る日も来る日も、厨房からはこの呪いのようなリズムと、不気味な語尾が聞こえてくる。
一ヶ月間、この音響シャワーを浴び続けた私の脳は重度の汚染を受け、最近では夢の中にまで「豚トントン」が出現してうなされるほどに侵食されていた。
正直、限界だった。思考を狂わせるこの怪音頭のせいで、私の脳内キャパシティは完全に破綻をきたしていた。
「・・・・・・・あの、小丸さん。キャベツを切る時にそんなこと言ってるの、世界であんただけですよ。それ、一体なんなんですか?」
張り詰めた厨房の空気をあえて読まず、私はついに、誰もが触れずにいた禁忌へと土足で踏み込んでしまった。カツン、と隣で作業していた先輩の鈴木さんと佐藤さんの体が、一瞬で石のように硬直するのが気配でわかる。
しかし、小丸さんはキャベツを刻む手をピタリと止めると、怒るでもなく、ただおもむろに私の方を振り返った。自由になったその右手で、ゆっくりとおでこをなぞりながら、ポツリと呟いたのだ。
「ここ・・・・・・毛、ないナメ」
「え?」
「毛、ない。.....さみしい、ナメ。まいにち、ここ、
さわるナメ。毛、こいしいナメ」小丸さんが愛おしそうにおでこをなぞった瞬間、私は見てしまった。
彼の広いおでこ、その眉間のあたりに、長年の狂気的な指圧によって出来たと思わしき、小さな、けれどもしっかりとした無数の青アザが浮かび上がっているのを。
(....待って。嘘でしょ。あれ、沖縄諸島じゃん。よく見たら、こっちの生え際にある歪なやつは北方領土だし、新潟の横には律儀に佐渡島まである・・・・・!)
「・・・・・・おきなわ、ツメ立てる、ナメ」小丸さんは、遠い目をして虚空を見つめながら、おでこの南西に爪を立てている。
(…・・・・・は?)
小丸さんのおぼつかない単語を脳内で繋ぎ合わせた瞬間、私の全身に凄まじい衝撃が走った。
(つまり何!?薄くなりゆく自分の髪の毛を愛おしむあまり、毎日毎日、寂しそうな顔をしておでこを指で触り続けていたの!?その結果、強烈な色素沈着を起こしてアザになったってこと!?しかも、沖縄のあたりを触る時だけは、失われゆく毛髪への未練のあまり爪を立てていたから、あんなにリアルな離島まで完璧に再現されちゃったの!?)
あまりに長すぎる静寂と緊張感の末に導き出された、あまりにもくだらなすぎる最悪の真実。
(ただの触りすぎかよ!!!再現度のこだわりが狂気すぎて怖いわ!!!)
私の心の中の絶叫と同時に、絶対にスルーを決め込んでいたはずの鈴木さんと佐藤さんも、思わず手元を止めて「はあ?」という顔で小丸さんを二度見している。あまりのくだらなさに耐えかねたのか、二人はがっくりと膝から崩れ落ちるように、近くの壁に手をついて脱力していた。
裏社会の壮絶な抗争で負った傷跡なんかじゃない。
ただの、ハゲゆく我が身を憐れんだ男の、未練と執念が作り上げた「完全版日本領土マップ(頭皮
版)」だった。
の小丸さんは、全員の脱力をどこ吹く風と受け流し、再び「トントントントン豚トントン、ナメ」と楽しげにキャベツを刻み始めた。
(.....・決めた。やっぱり、いつかお子様ランチについてる国旗の爪楊枝、あのおでこにグサッと刺してやろう。まずは四国あたりから)
厨房のスタッフたちが「なんだそれ・・・・」と一斉に肩を落とする中、私の、おかしな職場での一ヶ月目が、こうして更なる謎と殺意(?)を孕んで過ぎていくのだった。




