妄執
ミエラの指が震えていた。
彼女は目の前のレグラスの存在を忘れ、驚きのあまり、何度もページをめくり直していた。
何かがおかしい。
目の前の本は、彼女が幼い頃に読んだものとは違っていた。
もちろん、物語とは創作であり、異なる解釈や改変が加えられることは珍しくない。しかし——
この本は、結末だけが違う。
"ケンニグとオルフィーナの物語"——
それは、賢者と呼ばれ、他者を思いやることを知らなかった男が、運命的な出会いを果たし、愛の意味を知る物語だった。
畏怖と尊敬の狭間にいたケンニグが、慈愛の神オルフィーナと巡り合い、彼女に導かれることで、人々を助け、時には悪しき者を討ち倒す。
そして、最後には"誓い"によって得た愛を超え、真実の愛へとたどり着く——はずだった。
だが、この本に記されている結末は、まるで別の物語だった。
——まるで、ケンニグが"誓い"に執着し、歪んだ愛を押し付ける者として描かれているかのように。
背筋を冷たいものが這い上がる。これは本当に、ただの"創作"なのだろうか?
ミエラの困惑を見て、レグラスが静かに口を開いた。
「君の大陸にも、この話が伝わっていることは知っている。」
ミエラは顔を上げ、レグラスを見つめた。彼は落ち着いた様子で、本の表紙を撫でながら続けた。
「この物語は、オーデントでも長く親しまれている。幾度となく語り継がれ、さまざまな創作が生まれた。登場人物の描写や、彼らの活躍には多少の違いがある。だが——」
レグラスはゆっくりとミエラを見つめる。
「結末だけは、常に同じだった。」
ミエラは息を飲み、本を閉じた。その手には、まだ微かな震えが残っている。
「……この本には、終わりが明確に書かれていない。そもそも、二人だけの場面で、当事者しか知り得ないような話……信憑性には欠ける。」
レグラスは静かに頷いた。
「それでも——」
そう区切り、彼は真剣な眼差しでミエラを見据える。
「彼らは確かに存在していた。 そして、物語に登場する"あの国"こそが、今のオーデントなのだ。」
ミエラの脳裏に、ひとつの可能性が浮かぶ。
グランタリスに伝わるこの物語には、地名や国名が曖昧にぼやかされていた。さらに、物語の中に登場する"眷属"や"魔物"は、グランタリスには伝わっていないものも多かった。
そのため、長い間"これは単なる創作" だと考えられてきた。
——だが、本当にそうなのだろうか?
「……恐らく、グランタリスに伝わる内容は、後世に改変されたものなのでしょう。」
ミエラは慎重に言葉を選びながら、レグラスを見た。
「ですが、仮にこの物語が事実だったとして……何故、この本が"重要"なのでしょうか?」
レグラスの表情が微かに陰る。その拳がわずかに強く握られた。ミエラは、その微細な動きを見逃さなかった。
「……物語に登場するケンニグとオルフィーナ様。いや、正確にはオルフィーナ様の依り代となった女性と言った方がいいのかもしれないな。」
レグラスは息を整え、静かに続けた。
「彼らの子供たちが、この国にとって重要な存在だった。そして、ケンニグは魔法によってオーデントに呪いをかけた。」
ミエラは眉をひそめる。
「……呪い、ですか?」
レグラスは無言で頷く。
「それは、ケンニグの血を引く者が王位を奪われぬように。そして、オルフィーナ様の信仰が絶えぬようにするものだった。」
ミエラは困惑を隠せなかった。
「ですが……オーデントという国は、今の王族が代々治めてきたのではないのですか?」
レグラスはわずかに目を伏せ、考え込むような表情を浮かべた。
「当然、私自身も疑っている。もし本当にそんな"呪い"があるなら、とっくの昔に何らかの形で表面化しているはずだ。だが……」
レグラスの声が重くなる。
「私が狙われた理由が、そこに結びつく。」
ミエラは思わず息をのむ。
「……私が狙われた理由。それは、"オーデントの呪い"と関係しているのかもしれない。」
ミエラの困惑は深まる。
「レグラス様が……?」
レグラスは頷き、再び口を開く。
「オーデントにかけられた呪いは、長い時を経て形を変えていった。そして、長きにわたる戦の中で、血統は複雑に交じり合い、"誓い"はただの言い伝えへと変わった。」
レグラスの声には、長年抱えてきた疑念と苦悩がにじんでいる。
「オルフィーナ様が姿を現さなくなり、信仰が薄れ、眷属たちも国を離れた。そして、ケンニグの望んだ"真なる王"ではない王が治める国が生まれた。」
レグラスは苦笑する。
「そして今や、この国は"オルフィーナの信仰すら拒む国"となった。」
ミエラはまだ、すべてを飲み込めずにいた。
「……確かに、筋は通ります。でも、それが"呪い"に繋がるとは……」
レグラスは静かに微笑む。
「私の家族が狙われたのは、私が父より"王として指名された者"だったからだ。」
その言葉に、ミエラははっとした。
「……"偽りの王"として?」
レグラスは苦い表情を浮かべる。
「"真の王"を名乗る男は、私の家族を奪った。そして……私の家族を守るはずだった近衛兵たちが、その男に協力していた。」
ミエラの脳裏に、ある男の顔が浮かぶ。
——オーデントへ向かう際、バスバと共に捕らえられていたあの男。
彼は、"真の王"に仕えていたという近衛兵の一人だったはず。ミエラはガルシアから聞いた話を思い出す。
"レグラスを探していたのは、彼の近衛兵が"真の王"の命令で動いていたからだ——
「……今や、この国にはさまざまな陰謀が渦巻いている。」
レグラスの言葉は、静かだが確かな熱を帯びていた。
「そして、君がこの地に来たこともまた、その渦の一部なのだ。」
ミエラはレグラスをじっと見つめた。
「……どういう意味でしょう?」
レグラスは目を細め、遠くを見るような表情を浮かべる。
「君の探す歪みのノストール、ベイルガルドの黒衣の伝道者、オルフィーナ様……」
彼は一つ一つの言葉を噛みしめるように紡ぎ、ミエラへと視線を戻す。
「すべてが、まだ見えぬ微かな線で繋がっているのだ。」
ミエラは拳を握りしめた。
すべてが繋がっている——
そう言われても、まだ何も確信できるものはない。知りたいことは山ほどあるが、目の前の現実が優先される。
「……レグラス様のおっしゃることは分かりました。ですが、私には今、やらなければならないことがあります。」
ミエラは真剣な眼差しでレグラスを見据える。
「私は、今捕らえられている友人を救いたいのです。」
アイリーンが、今この瞬間も盗賊ギルド『梟の夜会』の手にある。刻々と状況は悪化しているのかもしれない。
「ましてや、その場所が危機に晒されるなら尚更です。」
ミエラの決意を込めた言葉に、レグラスは深くため息をついた。
「……それはできない。」
低く静かな拒絶だった。
「君は私と共に来るべき存在だ。」
ミエラの中に苛立ちが募る。
「ですが、今の話を聞けば——」
彼女は、もはや目の前の男が王子であることも忘れ、強い口調で言い放った。
「貴方こそ、"偽りの王"として滅びに向かう存在ではないですか?」
その言葉に、レグラスは一瞬の沈黙を挟み——
次の瞬間、愉快そうに笑った。
「はは……なるほど。」
彼は低く、楽しげに笑い、ミエラをじっと見つめる。
「確かに、オーデントが滅びに向かっているのは事実だ。……だが、それが今話した理由そのものだ。」
レグラスはゆっくりと立ち上がる。
「考えてみるといい、ミエラ。」
彼の目が、どこか熱に浮かされたような光を宿す。
「私は、オルフィーナ様の力を使える。」
ミエラは息を呑んだ。
レグラスの手のひらが静かに上がると、そこには確かに——
"慈愛の神の力"を思わせる、淡く輝く光が灯っていた。
「信仰によって得た慈愛の力だ。」
レグラスの声は昂ぶりを帯びる。
「もし、ケンニグがこの国に呪いをかけたことが真実であったとしても……私はオルフィーナ様より"慈愛"を授かっている。」
ミエラの背筋に、薄ら寒いものが走った。
「——そうだ、もし"血"が混ざりすぎて分からなくなったのなら……私こそが"真の王"の血を引く者なのかもしれない。」
彼の目が鋭く光る。
「つまり、私こそがオーデントを導く王……!」
"真に、オーデントを救う者"
ミエラは理解した。
この男は、自らが真の王である可能性に取り憑かれている。
"可能性"——ただの仮説でしかないものに。
レグラスは続ける。
「竜族に導かれた君がここにいる。運命の線を結ぶ君がいる。そうであるならば……」
レグラスの目は、確信に満ちていた。
「私は"真の王"として、この国を統べるべき者なのだ。」
——ミエラは、静かに諦めを覚えた。
この人の考えは、変えられない。
どれだけ言葉を尽くそうとも、どれだけ理を説こうとも、彼はすべてを"運命"で結びつける。
妄執に囚われた王子——それが、今のレグラスだった。




