プロローグ
鬱蒼と茂る木々の間を、ケンニグは足早に進んでいた。葉の擦れる音と、時折枝が頬をかすめる感覚が、彼の苛立ちを募らせる。
(結界さえなければ、一瞬で移動できるのに……)
心の中で毒づきながらも、彼は魔力の流れを断ち切る "オルフィーナの結界" を壊すことはできないと理解していた。迂闊に力を使えば、この神聖な領域を汚してしまうかもしれない。
それでも、あと少し。
ケンニグは、腕にチクチクと絡みつく細枝を払いながら、鬱陶しげに獣道をかき分けて進んだ。
そして、目の前に 開けた世界 が現れる。
――鮮やかな花々が咲き誇り、柔らかな緑の草が風に揺れている。木々の隙間から差し込む陽光が、静謐な湖の水面 に淡く光を映し出していた。
まるで 神々の楽園 に迷い込んだかのようだった。
湖のほとりに立つ 美しき女性。
流れるような白銀の髪が陽の光を受けて輝き、淡く透き通る衣が、まるで風と共にこの世から消えてしまいそうな儚さを漂わせていた。
「オルフィーナ……待たせたね。」
ケンニグは深く息を吸い込みながら、ゆっくりと歩み寄る。
女性――慈愛の神オルフィーナ は、静かに微笑みながら首を振った。
「そんなことはないわ。貴方がこうして来てくれるだけで、私は嬉しいから。」
その優しい声に、ケンニグの胸が高鳴る。
「僕の方こそ……君に会えるだけで、ここまでの苦労なんて忘れてしまうよ。」
互いに言葉を交わすことなく、ただ見つめ合う。穏やかな時間が流れ、湖面が静かに波紋を描いた。
やがて、オルフィーナがゆっくりと口を開いた。
「ケンニグ……貴方は、私のために多くのことをしてくれたわ。」
その言葉に、ケンニグは僅かに眉をひそめる。
「それは……もちろん。僕が君の力になりたかったからさ。それに……"誓い" によるものでもある。」
誓い――それは 神と人が交わす契約。
オルフィーナのために己を捧げ、代わりに彼女の力を受け取ることを意味していた。
「だから、気にすることはないよ。」
そう言いながら、ケンニグは彼女の微かな 寂しさ に気がついた。
オルフィーナは小さく息を吐き、ゆっくりと視線を下げた。
「……そうね。そして、その誓いによって、私は貴方に愛を教えた。」
ケンニグは困惑する。
せっかく会えたというのに、なぜオルフィーナはこんなにも 哀しげ なのか。
「それが……どうかしたのかい?」
問いかけると、オルフィーナは微かに震える声で続けた。
「貴方がこうして私の元へ来るのも……」
彼女の 透き通る瞳 が揺らぐ。
「そして今も、私を気遣ってくれるのも……すべては、私の力によるもの。」
ケンニグの胸が 強く締めつけられる。オルフィーナは 苦しそうに笑いながら 言葉を紡ぐ。
「もし、誓いがなかったら……貴方は本当に、私を愛していたかしら?」
それは、神である彼女だからこそ抱く 疑念。
"誓いによる愛" が、"本物の愛" なのかどうか。
ケンニグは 静かに息を吐いた。
確かに、誓いによって自分はオルフィーナの力を得た。そして、誓いによって彼女を愛することになった。
だが――
それでも、自分の この想いは決して偽りではない。
オルフィーナがいたからこそ、愛を知らず"壊れていた" 自分は救われたのだから。
「君が何を言いたいのかは分かるよ。」
そう言って、ケンニグは そっと彼女の手を取った。
「けれど、僕の心が君に向いていることは 誓いとは関係ない。」
オルフィーナは 驚いたように ケンニグを見つめた。
「僕は、誓いを交わさなくても君を選ぶ。そう確信できるからこそ、僕はここに来たんだ。」
その言葉が 誓いによるものか、それとも本心か――
静寂の湖畔に、そよ風が花々を揺らす。オルフィーナはそっと瞳を閉じ、穏やかな声で告げた。
「私の願いは、まだすべて叶えられていない……。今なら、誓いを破棄できるわ」
湖面に映る月の光が揺らぎ、二人の間に漂う空気は、どこか張り詰めていた。
ケンニグは、その言葉に一瞬驚きを見せた。しかし、すぐにふっと微笑む。
「君が望むなら。」
迷いのない、穏やかな声だった。
オルフィーナの表情に、微かに安堵と寂しさが混じる。そして、彼女は静かに紡いだ。
「ならば……私のわがままを許して」
その瞬間、光が二人を包む。
契約が解かれる音が、世界に響いた。
誓いの鎖は解かれ、ただの男と女として、二人の間にあるものが試される。
そして――
二人の愛が、誓いによるものではなく、真実である証明 が生まれた。
~「魔法使いケンニグと慈愛の女神オルフィーナ」~




