港町ルスメリア
「今日取った新鮮な魚だよ!」
「こっちには何とも珍しい魚が取れっちまった! 今ならお買い得の1500ヤーズだ! もちろん捌くのも込だぞ!」
活気があり、静けさと無縁の港町ルスメリアをミエラは歩いていた。
船を探す為にはここが一番だと思ったから訪れない訳にはいかなかった、潮の香りが鼻を刺し、船着き場では漁師たちが活気づく中その喧騒を抜けて進むミエラの視線は、ただ一点──大陸を渡るための船を求めていた。
生まれてから17年──あの日からすでに7年の歳月が過ぎていた。
ミエラはその間に大きく成長した。
背は高く伸び、銀髪は腰まで届くほどに長く美しくなった。
ミエラの顔立ちはその年月の中で一層整い、気品さえ漂わせている。身に纏うのはスリットの入ったローブと、たなびくマント。だが、その服装の上からでもはっきりとわかる、胸元から足元にかけての女性らしいラインが、ミエラを一層目立たせていた。
港町の雑踏の中、ミエラは確かに男たちの視線を集めていた。その視線は欲望や興味を孕み、時に露骨なものだったが、ミエラは意識的に気にしないよう自分に言い聞かせていた。
今はただ、自分の目的を果たすために余計なことに気を取られている場合ではない、と。
しかし、ミエラに注がれる視線は男性だけに限らなかった。女性たちもまた、ミエラに注目していた。ただし、その視線は男性たちのそれとは異なり、どこか冷たいものが混ざっている。
ミエラの装いはこの港町には不釣り合いで、場合によっては「怪しい」と見られるほど独特だったのだ。
だが、ミエラはその目線に気を留めることもなく、ただ自分の進むべき道を見据えて歩み続けていた。
周囲がどう見ようとも、重要なのは目の前の目的だけだった。
過去の記憶、そしてこれから向かう未知の旅。それらが胸を重くするようだった。しかし、その奥底にある目的への揺るぎない意志が、不安を押し流していく。
「後戻りはしない」。そう胸の内で何度も繰り返すたびに、ミエラの足取りは次第に力強さを増していった。
いくつものレンガ作りの建物が立ち並ぶ港町の街路を進み、整備された石畳の道を踏みしめながら、ようやく目的地にたどり着いた。
道中では何人もの人間が声をかけてきたり、邪魔をしてきたりしたが、全てを振り払い、一人でここまで来ることができた。その事実に、嬉しさと達成感が湧き上がり、少しだけ唇がほころんだ。
目の前の扉に手を伸ばし、ミエラは静かに開いた。
【ルスメリア船舶商業団】
扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、大きく飾られた海の魔物を模した模型だった。
その荒々しい姿と圧倒的な存在感に、思わずミエラの足が止まる。模型の周囲には大陸間を結ぶ航路図や、詳細に描き込まれた地図が並び、この建物がただの商業施設ではないことを物語っていた。
外から見たときは、それほど目立つ建物には思えなかった。
だが、よく見れば三階建てで、中心部は天井まで吹き抜けになっており、各階から下の様子を見渡せるようになっている。吹き抜けの空間には日の光が差し込み、模型や地図を照らしている。
一階の様子は意外なほど静かだった。
隅にはテーブルが三脚配置され、それぞれ対面に椅子が一つずつ置かれている。軽い商談や打ち合わせの場として使われているようだが、今は人影も少なく閑散としている。
ミエラは一瞬だけためらったが、すぐに意識を切り替え、受付を探して視線を巡らせた。そのときだった。
「綺麗なお嬢さん!船を探してるのかい?こっちにおいでなさいよ。」
そんな声が耳に届き、ミエラはほっと胸をなでおろした。不安で張り詰めていた心が少し和らぐ。不思議と話しやすい雰囲気を持った恰幅の良い女性の声に誘われ、ミエラは彼女のもとへ歩み寄る。
「すみません、私はミエラと言います。実は船を探していて……此方ならその船をお願いできないかと思いまして。」
ミエラの言葉は驚くほどスムーズに口をついて出た。女性の柔らかな態度が、警戒心を解きほぐしてくれるかのようだった。
女性はちらりとミエラの周囲を見渡し、連れがいないことを確認すると、眉を少し上げて返答した。
「船を?……まさかあんた一人でかい?さすがに漁船を貸してくれってわけじゃないだろうけど……まさかとは思うけどさ、大陸を出たいとか、そんな話かい?」
その言葉にミエラは微かなためらいも見せず、まっすぐに答えた。
「はい、その通りです。」
その意志は強く自身が本気である、その思いをしっかり伝えた。
恰幅の良い女性は驚きと困惑を浮かべつつも、じっとミエラを見つめた。
その視線には、ただの興味だけではなく、彼女の本気を見極めようとする厳しさがあった。
「理由に関しては、初対面だから深くは聞かないけどね……。とりあえず、ここじゃあアンタの探すような船はないよ。」
恰幅の良い女性は、申し訳なさそうに言葉を続けた。
「ここはあくまで商売用の船さ。船乗りになりたいって人や、ちょっと海に出て景色を見てみたいっていう連中は来るけど、大陸を渡りたいなんて願いを叶えられる場所じゃないんだ。本当にごめんよ。」
ミエラは女性の言葉を聞きながら、心の中で静かに喜んでいた。
元々、ここで商団の船に乗って大陸を渡るつもりなどなかったのだ。商売で生計を立てている人々が、わざわざ帰る見込みもない場所へ行こうとするわけがない。それは分かり切っていた。
だが、女性の口から「ここじゃあ」と出たその一言に、ミエラは可能性を感じ取った。
「ここじゃあ、ということは……ここ以外にお願いできる場所を知っているのですか?」
ミエラの問いに、女性は少し考え込んでから答えた。
「あるよ……。同じ女だし、あんたを見てると感じるものもあるから教えてやるけどね、正直、やめた方がいい。特にあんたみたいに綺麗な子は。何をお願いされるか想像しただけで嫌になるよ。」
その言葉には、心からの心配が滲んでいた。ミエラは女性の優しさに感謝しつつも、自分の意志を貫くために力強く答えた。
「それでも……可能性があるなら、ぜひ教えていただきたいんです。」
ミエラの揺るぎない言葉に、女性はしばらく黙って考え込んだ。そして、諦めたように場所を教えてくれた
「そうかい、そしたら行くところは裏道の酒場さ。この建物を出て、右に真っ直ぐ進むと教会に突き当たるから、その教会の路地を抜けてさらに真っ直ぐ行きな……そしたら酒場があるから、そこで聞くんだね。ただし、あくまでそれを商売にしてる連中じゃない。行ったら帰ってこれないって言われる別大陸に向かうんだ。命をかけろって話になるから、それこそ……」
女性はそこまで話すと、口を閉ざした。その表情には迷いや不安が滲んでいた。自分が案内したミエラが酷い目に遭う光景を想像してしまったのだろう。
そんな女性に、ミエラは静かに、けれど力強く答えた。
「ありがとうございます。私は大丈夫です。」
彼女は頭を深く下げると、そのまま背を向け目的地へと向かい始めた。女性の案じる声が後ろから聞こえてきたが、振り返ることなく歩き続けた。
女性に言われた通りの道を進むと、目的の酒場はすぐに見つかった。
昼前だというのに、店先にはすでに酔い潰れた男が転がっており、異様な雰囲気を放っている。目立たない建物だが、その存在感は明らかに他の店とは違っていた。
ミエラは転がる男を軽々とまたぎ、店の中へ入った。昼間ということもあり、人の数はそれほど多くなかったが、それでも数人は楽しそうに騒いでいた。その中には、尖った耳を持つ小柄なハート種族も混じっており、種族の多様さが目を引く。
ミエラが店内に足を踏み入れると、何人かの男たちが彼女をじろじろと見つめ始めた。彼らの目つきには露骨な欲望があり、一人は下卑た笑みを浮かべながら手で卑猥なサインを送ってきた。
だが、ミエラはそれらを一切気に留めず、まっすぐにカウンターの奥に立つ男――この酒場の主人と思われる人物へと向かって歩み寄った。
「すみません、お伺いしたいことがあるんですが……」
だが、最後まで言い終わる前に、男は無表情でミエラの右側を指差した。
「悪いけど、俺はただの手伝いだよ。何か聞きたいことがあるなら、あっちがこの酒場の主人だ。」
その言葉に従って視線を向けると、指差された先のテーブルには一人の男性がいた。
足を無造作にテーブルに乗せたまま、椅子に深く座り込んで眠っているようだった。テーブルの上には空になった酒瓶が転がり、そのだらしない姿は、どう見ても酒場の主人には見えなかった。
カウンターの男に言われなければ、ただの酔い潰れた客にしか思えなかっただろう。
ミエラは小さく礼を言い、その男へと歩み寄ろうとした。しかし、次の瞬間、何かが自分の尻に触れたのを感じた
驚いて振り向くと、三人組の男たちが悪趣味な笑みを浮かべながらこちらを見ている。そのうちの一人が、手を大げさに振りながら囃し立てるように言った。
「おーい!なんて悪い手なんだ、こいつは!メスの匂いに引き寄せられちまったか!女神ちゃんのお尻は……少し、しょっぱいなぁ!?ヒヒヒ!でも、柔らかかったぜ!」
その言葉を聞き、他の男たちも大声で笑い出した。尻を触った男は、自分の手をわざと仲間に見せつけ、それを舐めるような仕草をしながら囃し立てる。
ミエラはその下劣な態度に、嫌悪と怒りが入り混じった感情を抑えきれなかった。冷静さを失わないよう努めながらも、視線は無意識に彼らのテーブルに並ぶ酒瓶やグラスへと向かった。
ミエラが小さく指を動かすと、空気が震えるような音が響いた。次の瞬間、酒瓶の中の液体が宙を舞い、まるで意思を持つかのように男たちの頭上へと降り注いだ。その動きは不自然なほど滑らかで、美しさすら感じさせるものだった。
「うわっ!」
酒瓶の液体が勢いよく降りかかり、男たちは驚きと混乱のあまり椅子から転げ落ちた。
全身びしょ濡れになった彼らは、呆然とした表情でミエラを見上げていた。
酒場の空気は一変した。他の客たちは一連の出来事を目撃し、何人かは恐れと驚きが入り混じった声を漏らした。
「魔法使い……」
その言葉が静かに酒場の中に響き渡る。
ミエラが使ったのは、この世界の本質に触れる者だけが操れる魔法――神々の力そのものだった。
この世界では、神への信仰によってその力を借りる者は少なくない。だが、通常は一つの神のみを信仰し、その神から授かる力だけを行使することができる。
しかし、魔法使いは異なる。特定の神ではなく、この世界を創り上げた「秩序」と「混沌」そのものに根差した力を扱う者たちだ。
それは恐ろしくも美しい、世界の真理に触れる術式。故に魔法使いは、羨望と恐怖の両方を人々に抱かせる存在であった。
「魔の法術」とも呼ばれるその力は、狂気に近い信仰を捧げる者だけが使えるとされている。そのため、彼らは時に崇拝され、時に忌避される。
酒場の客たちがざわつく中、酔い潰れていた酒場の主人も目を覚まし、興味深そうにミエラを見つめていた。
テーブルに投げ出していた足を下ろし、彼はゆっくりと腰を上げる。
その様子を見届けたミエラは、気丈な足取りで主人に近づき、静かにしかしはっきりと告げた。
「船を探しています。呪われた大陸アルベストへ行ける船を。」
その言葉を聞いた瞬間、酒場の空気が再び張り詰めた。客たちの中には息を呑む者もいれば、あからさまに顔をしかめる者もいた。アルベスト――その名を聞くだけで多くの者が怯える場所だった。
主人はミエラの真剣な瞳を見つめ、しばし沈黙を続けた。彼女が冗談を言っているのではないことを、その目が物語っていたからだ。
「……嬢ちゃん、本気で言ってるのか?」
低く、重みのある声で主人が問いかける。その声には、彼自身の警戒心と興味が入り混じっていた。
「はい、本気です。」
ミエラは一切の揺るぎもなく答えた。その言葉に、主人は深い溜め息をつき、再び椅子に腰を下ろすと、酒瓶の残りを一気に飲み干した。
「アルベストに行ける船……そう簡単に見つかるもんじゃないぞ。それに、行く覚悟があるなら命を捨てる覚悟も必要だ。」
「覚悟ならあります。」
その断言に、主人はしばらく黙り込んでいたが、やがて小さく笑みを浮かべた。
「面白い嬢ちゃんだな。……いいだろう、少し話をしてみようか。」
こうして、ミエラと酒場の主人の対話が始まった――それは、目的を果たすための第一歩となる、重要なやり取りの幕開けだった。