脱走
ジンとアイシャは、結局別の案も見つけられず、ただ夜を待ち続けていた。ジンの心の中には、もしかしたらワイダーが自分たちを期待させ、反応を伯爵――アラン・フリッツに報告しているのではないかという不安が膨らんでいた。
しかし、その不安は静かに扉が開く音によってかき消された。
「お待たせしました。私に着いてきてください」
現れたのはワイダーだった。その手にはジンの刀やアイシャの装備品を持っており、ジンとアイシャは互いに目を合わせ、軽く頷く。そして、ワイダーの指示に従い部屋を出た。
廊下を進む中、ジンはふと兵舎内の異様な静けさに気付く。
(……妙だな。ここは兵舎だろう? いくら戦前や奇襲の準備があるとはいえ、ここまで人の気配がないものか?)
通常なら、見張りや警備の者が複数いるはずだ。しかし、通路には彼らの姿はおろか、声や足音さえも聞こえない。
ジンは眉をひそめながら、静かに問いかけた。
「……兵舎にしては、随分と静かですね。見張りもいないようですが?」
ワイダーは少し後ろを振り返り、小声で説明した。
「奇襲の準備で、兵力が大幅に動員されています。加えて、どうやら国境近くからの定期連絡がとれずそちらの対応もあるようです」
アイシャもその説明を聞きながら、辺りを警戒するように目を光らせていた。
「それにしても静かすぎる。⋯罠じゃないでしょうね?」
「罠ではありません。……私が保証します」
ワイダーの言葉に、アイシャは冷たい目を向けながらも黙って歩みを続けた。
ジンは順調に進んでいることに感謝しつつも、心の奥では不安が拭えなかった。歩きながら、ワイダーに問いかける。
「何故、そこまで危険を冒して私たちを助けるのですか? ワイダー殿が処罰を免れない可能性もあるでしょう……?」
だが、ワイダーは振り向きもせず、静かに答えるだけだった。
「ご安心ください。私は大丈夫です」
その言葉は、理由を一切語ろうとしない硬いものだった。ジンはそれ以上問い詰めても無駄だと悟り、警戒を緩めないまま黙ってついて行くことにした。
やがて、兵舎の出口にたどり着く。冷たい夜風が頬をかすめ、広がる暗闇が目の前に広がった。ワイダーはジンたちに向き直り、静かに告げた。
「もし竜族の方を助けに行かれるのなら、急がれた方がよろしいかと。奇襲の時間が近づいています。ここまでが私の役目です……どうか、ご武運を」
言葉を終えると、ワイダーは少し微笑んだ。その笑顔に、ジンは一瞬戸惑いながらも、真摯に頭を下げて答えた。
「ありがとうございました。ワイダー殿もどうかお気をつけて」
ジンが横目でアイシャを伺うと、彼女は渋々といった様子で、少しだけ頭を下げながら小さく言った。
「……ありがとうございました」
その態度にジンは内心苦笑しながらも、再び気を引き締め、闇の中へと足を踏み出した。
(これで道が開けた……!)
夜の町は、まだ多くの人々で賑わっていた。露店には明かりが並び、食欲がそそる香りが夜風に乗って漂う。酒場からは酔った者たちの笑い声が響き、通りを行き交う荷馬車が石畳を軽く揺るがせていた。
ジンとアイシャは、その雑踏の中を駆け抜けぬけていた。
「アイシャ、アジトの出入り口はあそこしかないのか?」
アイシャは前を走りながらも、ちらりとジンの方を見ずに答える。
「あたしが知る限りじゃ、あそこしかない。他に隠し通路があるかもしれないけど、少なくとも私たちが使える道は一つだと思う」
ジンは眉間に軽く皺を寄せ、雑踏を見渡しながら唸る。
「……そうか。そうなると、騎士団とも盗賊とも鉢合わせる可能性が避けられないな」
通りの両脇には市民たちがそれぞれの夜を楽しんでいた。家族連れが屋台で玩具を眺め、街角では吟遊詩人が弦楽器を奏でている。夜の喧騒と楽しげな光景に、二人が抱える緊張感はどこか不釣り合いだった。
少しペースを落としたアイシャが振り返り、ジンを冷ややかな目で見た。
「……まさかとは思うけど、今回もまた行き当たりばったりで行くつもり?」
ジンは苦笑し、軽く肩をすくめる。
「さすがにそう言われると否定したいが……今のところ策はない。状況を見てみないことには、どうにもならないんだ」
アイシャは呆れたようにため息をつき、何か言いかけたが、結局口を閉じて舌打ちした。そして前を向いたまま、小さな声でぼそりと何か悪態をついた。
(……なんて言った?)
聞き取れなかったが、明らかに苛立っていることは伝わる。
ジンは周囲の人々を避けながら足を止めず、ひとまず今は先を急ぐことに集中した。
(奇襲の時間は近い……ここで立ち止まっている余裕はない)
盗賊のアジトがある区画は、すでに騎士団によって封鎖されていた。入り口付近には追い出された市民たちが騎士たちに詰め寄り、不満の声を上げている。
「いつになったら入れるようになるんだ!」
「騒動に巻き込まれて壊れた物の保証はどうしてくれるんだ!」
騎士たちはそんな抗議に対し、明らかに面倒そうな態度で応じていた。
ジンは人々の様子を横目に見ながら、どう突破するか考えていたが、アイシャが軽くジンの腕を引きながら言った。
「こっちよ」
誘導されるまま進むと、区画を隔てる壁に隣接して、古びた廃墟のような教会が現れた。
「ここに抜け道でもあるのか?」
ジンが問いかけると、アイシャは小さく頷いた。
「梟の夜会が作ったものじゃないけど、昔からここに抜け道があるって聞いたことがある。ケイオスが潰した教会」
そう言ってアイシャは教会の扉を押し開けた。中は荒れ果てており、かつて壮麗だっただろう銅像や壁画は無残に破壊され、床には壊れた椅子や瓦礫が散乱している。
「こっち」
アイシャは手早く一つの部屋に入り、壁際の壊れた家具を器用に積み上げた。そして天井の一部を押し上げると、一人が通れるほどの隙間が現れた。アイシャはするりとその隙間に身体を滑り込ませ、上から促す。
「早く登って」
ジンは促されるまま、隙間に手を掛けて身体を持ち上げた。天井裏は狭く、カビ臭い空気と蜘蛛の巣が充満している。這いずるように進みながら、ジンはアイシャの後に続いた。
幸いにもこの通路はさほど長くなく、すぐに出口にたどり着いた。天井裏から抜け出すと、外の空気が一気に流れ込んできて、ジンは思わず深呼吸をした。
「ふぅ……助かったな」
アイシャはジンを振り返り、静かに頷いた。
「ここまで来たら、もう少しでアジトの近くだよ。急ぐよ」
壁を超えたジンとアイシャは、暗闇に溶け込むように古ぼけた建物や家の屋根を飛び移りながら、盗賊のアジトを目指した。
かつて静まり返っていたこの区画は、今や松明や光石ランプを掲げた騎士たちの動きで賑わいを見せていた。火の明かりがゆらめき、通りには重い鎧の足音が響いている。
屋根の陰に身を潜めながら、ジンはふと目を凝らした。アジトの入り口付近には、すでに隊列を組んだ先行部隊が集結している。しかし、その光景を見て、ジンは思わず眉をひそめた。
(何だ……この動き……)
騎士たちは一応陣形を整えているが、その動作にはぎこちなさが目立つ。指揮官らしき者が命令を出しているが、騎士たちの応答はばらついており、明らかに連携が取れていない。
(熟練の騎士たちとは違う……バスバやガルシアが率いていた連中とは、まるで別物だな)
ジンはその異様さに気づきながらも、ある可能性が頭をよぎった。
(……まさか、ここに送られたのは、戦闘経験の乏しい兵士たちか? 盗賊たちがアジトを崩壊させる時に合わせて、数で押し切ろうとしているのか。それとも、死んでも構わないような連中を送り込んだのか……)
考えながら、ジンは口元を引き締めた。
一方、アイシャはその様子を冷静に観察しつつ、小声でジンに問いかけた。
「どうする? あんた、これをどう見る?」
ジンはしばらく騎士たちの様子を見つめ、低く答えた。
「少なくとも、ここにいる連中は精鋭じゃない。だが、油断はできない。盗賊側もすぐに動くはずだ」
アイシャは頷き、目を細めながら周囲を確認した。
「分かった。どのみち、潜り込むチャンスを狙うしかなさそう」
ジンは視線を屋根の下へと下ろしながら、アイシャの言葉に静かに笑みを浮かべた。
「逆に、チャンスができたってことだ」
その言葉に、アイシャは訝しげに眉をひそめた。
「……どういうこと?」
問いかけると同時に、ジンは何の前触れもなく身を翻し、下にいた見回りの騎士たちの背後へと飛び降りた。
「なっ――!」
背後で突然音がしたことに驚いた二人の騎士が振り向こうとした瞬間、ジンはすばやく一人の首を締め上げた。力を込めると、騎士は抵抗する間もなく意識を失い、その場に崩れ落ちる。
もう一人の騎士は慌てて剣を抜こうとしたが、それよりも早くジンの掌底が鋭く突き上げられた。
「ぐっ……!」
兜に鈍い衝撃音が響き、騎士の視界が揺らぐ。次の瞬間、騎士はそのまま膝から崩れ落ち、意識を手放した。
アイシャは驚いたように一瞬目を見開いたが、すぐに呆れたような声を漏らした。
「……あんた、騎士まで敵に回す気?」
ジンは気絶した騎士たちの様子を軽く確認すると、肩をすくめて淡々と答えた。
「これが片付いたら、この国に用はない。悪いとは思うが……仕方ないだろう。それより、どうする? 俺はこいつらの装備を使って中に潜り込むつもりだが、無理に着いてくる必要はない。装備のサイズが合わないなら厳しいしな」
そう言いながら、ジンは地面に倒れた騎士から兜を剥ぎ取り、自分の頭にかぶってみせた。しかし、サイズがやや窮屈そうで、微妙にフィットしない。
「……まあ、なんとかなるか」
ジンが兜を調整しながらアイシャに視線を送ると、彼女はため息をついてから、騎士の装備を手早く調べ始めた。
アイシャは装備を確認し終えると、無理やり身支度を整えて立ち上がった。しかし、明らかにサイズが合っていない鎧がぎこちなく、動くたびに微妙な音を立てていた。
「……変じゃない?」
そう不満げに尋ねるアイシャを見て、ジンはあからさまに顔をしかめた。
「いや、変だな。無理だろう。それに、もう自由なんだから無理して装備しなくていいんじゃないか?」
しかし、アイシャは鎧を脱ぎながらジンを恨めしそうに睨み返した。
「……いくところなんてない。あんたが全部奪ったから」
その言葉にジンは一瞬ため息をついた。
(確かにカイードの件は俺が引き起こした……だが、だからといって、殺そうとした相手についてくる理由にするのはどうかしてる)
そう言いたかったが、すぐ近くに人の気配を感じて、言葉を飲み込んだ。ジンは咄嗟に倒れた騎士たちの身体を抱え上げ、近くの空き家に放り投げる。
戸惑うアイシャに何か指示を出そうとした瞬間、ジンは即座に動き、アイシャの腕を掴んだ。そして、あえて声を張り上げる。
「貴様! 盗賊の一味か!」
突然の大声にアイシャは一瞬驚いたが、すぐに察して抵抗せず大人しくした。
その声に反応して、近くにいた騎士が駆け寄ってくる。
「どうした!? 何があった!」
ジンは振り向いて騎士に向き直り、軽く敬礼のような動作をして報告するふりをした。
「こちらで不審者を発見しました! 盗賊の一味かもしれません。確認をお願いします!」
騎士はジンの言葉に驚きつつ、アイシャに視線を向け、鋭く問いかけた。
「不審者だと? 何者だ、貴様!」
その問いに、アイシャは冷たい視線を騎士に向け、静かに言い放った。
「知る必要なんてない。どうせあんたたちは全員死ぬんだから」
ジンは内心驚いた。抜けたところもあると思っていたが、アイシャの演技が見事すぎて感服してしまった。
(……やるじゃないか)
騎士に見えないように、ジンは軽くアイシャの肩を叩き、労いのつもりで合図を送った。だが、アイシャは即座に恐ろしい目で睨みつけてきたかと思うと、ジンの足を思い切り蹴飛ばした。
「ぐっ……!」
ジンは痛みをこらえつつも、騎士に向かって声を張り上げた。
「抵抗するな! どうやらこの女は、アジトに仕掛けられたトラップについて何か知っているようです。先行部隊に情報を渡しましょう!」
ジンの言葉に、騎士は少し戸惑いながらも言った。
「それはいいが……私は部下などいないが?」
その言葉に、ジンは内心で冷や汗をかき、すぐに言い訳を考えた。
「申し訳ございません! 私は平民の出身でして、まだ作法に疎いもので……」
しかし、その言葉は逆効果だった。騎士はさらに困惑した顔をしながら、ため息をついた。
「ここにいる騎士の多くが平民だろう? 出身のせいにするな。自分の落ち度だろうが……」
ジンは言い返せず、顔をしかめながら沈黙する。
「とりあえず、そいつを連れて行くぞ。」
そう言って騎士は、アイシャに鋭い目を向けたまま指示を出した。




