レグラス・オーデント
腹の口を広げ、周囲を飲み込むように迫りくる神。その圧倒的な力に、ミエラは即座に魔法を発動させた。
(距離はある……今なら届く!)
周囲の風を集め、それを自分の前で圧縮する。圧縮された風の塊は、まるで矢のように鋭く、神に向けて放たれた。その瞬間、神もまた何かを呟き、その声が周囲を震わせた。腹の口が大きく開き、目の前に放たれたミエラの風の塊を飲み込むように吸収してしまった。
(魔法…!?)
ミエラが驚愕する間もなく、神の腹の口は周囲の物すべてを飲み込むような凄まじい吸引力を生み出していた。その力はあまりに強大で、ミエラの体も勢いよく引きずられていく。
「くっ……!」
ミエラは咄嗟に魔法を使い、周囲の土を自らの体に巻き付けて地面に固定しようとした。それでも吸引力は止まらず、近くにあった瓦礫や物資は次々と神の腹の口へと消えていった。その口の中に見えるのは、底知れない暗闇――ただ虚無そのものであるかのようだった。
その吸引の中で、ミエラは奇妙な感覚に襲われた。吸引に抗いながらも、なぜか腹が空くような感覚が湧き上がる。それは微弱だが確実に、体と精神を蝕むものであった。
(これは……この感覚……まさか……!)
瞬時にミエラは理解した。この奇妙な空腹感は、神がその権威を放つセイクリッドランド――暴食の神の力そのものだった。
(暴食の神……! 目の前の神は……もしかして……ケイオス王子が打ち倒したはずの……?)
その考えが脳裏をよぎる。同時に、ミエラは自分の身に宿る母レミアの守りが、この神の力を僅かに緩和していることを感じ取った。杖がなければ、この吸引と空腹の感覚に完全に飲み込まれていたはずだ。
(それでも……この力……お母さんの守りがあってもこの有様……。)
考えを振り払うように頭を振り、ミエラは再び神に集中する。自分を保つためには、行動するしかない。ミエラは神の足元――地面に力を込め、魔法を発動させた。
神の周りの地面がゆっくりと沈み始める。その動きにより、神の巨大な身体が徐々に地面の中へと飲み込まれていく。しかし、神はその変化をまるで気にする様子もなく、なおも周囲を飲み込み続けていた。
(こんな状況でも……まだ止まらない)
ミエラはさらに力を振り絞り、神の身体が完全に地面に沈むまで魔法を続けた。そして、沈んだ神の頭上に向けて風の刃をいくつも降らせる。無数の鋭い刃が神の身体を切り裂くように降り注ぎ、その衝撃で辺りには砂埃が舞い上がった。
吸引の力が止まったことで、ミエラは一息ついた。しかし、砂埃に遮られて沈んだ神の姿が見えず、手応えを確かめることもできない。
(……仕留めた?)
不安が胸をよぎる中、ミエラは目を凝らして砂埃の向こうを見つめた。魔法は確かに効果を発揮していたはずだが、目の前の神の異常な存在感が完全に消えたわけではない――それを感じ取ると、油断することができなかった。
(まだ終わっていない……!)
沈んだ地面から影が飛び上がり、ミエラの目の前に降り立った。それは、先ほど彼女が全力を尽くして攻撃したはずの神。その身体には傷一つなく、無傷のまま立ちはだかっていた。
「そんな……無傷……!」
ミエラは動揺し、一歩後ずさろうとした。だが、それよりも早く、神の長い巨大な手がミエラの腰を掴み上げた。その動きは素早く、抵抗の隙を与えなかった。
「っ……!」
ミエラは即座に魔法を発動させ、掴まれた手を風の刃で切り裂こうとした。しかし、神はまるでその行動を見透かしたように掴む手に力を込めた。圧倒的な握力がミエラを締め付け、苦しい吐息を漏らす。
「……!」
神は一切の表情を浮かべず、無言のまま腹に近づけていく。その裂けた口からは底知れぬ暗闇が広がり、そこに飲み込まれる恐怖がミエラを支配する。
(このままじゃ……!)
焦るミエラの視界に、赤い頭髪の人影が映った。朦朧とする意識の中で、その姿が目に留まり、思わず心の中で呟く。
(アーベン……王子……?)
だが、その思いを断ち切るように静かで凛とした声が響いた。
「その女性を離してもらおう。」
その声は力強く響き渡り、威厳を伴っていた。赤い髪の人影は剣を抜き、詠唱を始める。その動作には迷いがなく、一点の曇りも感じられなかった。
次の瞬間、神は動きを止め、苦しみのような素振りを見せた。そして掴んでいたミエラを宙へと放り投げた。
「きゃっ……!」
ミエラは思わず声を上げたが、その身体は空中で暖かな力に包まれた。力は単に体を受け止めるだけでなく、結界の維持で削られた体力と精神を癒していく。不思議なほどの安堵感が広がり、ミエラは驚くほどの力を取り戻していた。
「……誰……?」
地面に降り立ったミエラは、一瞬だけ助けてくれた人物を見ようとしたが、すぐに視線を神に向け直し、立ち上がった。そして魔法を発動させる。
「これで終わらせる……!」
ミエラが放った魔法は、大地を揺るがすほどの力を持っていた。神の足元を強固な地面で固定し、さらに巨大な竜巻を発生させる。竜巻は刃となり、神の身体を切り刻んだ。
切り刻まれた神の身体は、瞬く間に再生を始める。しかし、竜巻から放たれる無数の刃がその再生速度を上回り、神を止めることを許さなかった。
(まだ……止まらない……!)
ミエラの心には焦りと覚悟が交錯していた。目の前の神は再生を繰り返し、その存在感は未だ圧倒的だった。それでも諦めを許さない。
「……押し切るしかない……!」
謎の助け手が放つ気配に背中を押されるように、ミエラはさらなる魔力を解放した。その意志は揺るぎなく、竜巻の刃は神を飲み込むように渦を巻いていった。
神はミエラの放った魔法によって、かろうじて肉体を保っていたものの、その姿はもはや人の形を留めていなかった。断片的に残る肉塊が、歪に動く様は見る者に圧倒的な不快感を与えた。その異形が未だに微かに息づいていることに気づいたミエラは、肉体だけでも完全に滅ぼそうと、さらなる魔法を発動しようとした。
その時、不意に低い声にミエラは動きを止めた。
「無駄だ。よすんだ。それよりも、早くここから離れるべきだ。グールたちだけでなく、ホイスタリンの方から軍勢が迫っている。」
その言葉にミエラは驚き、声の方向を振り向いた。そこに立っていたのは赤い髪の男――ミエラが先ほど助けを受けた人物だった。よく見ると、その髪の色や雰囲気はアーベンに似ていたが、別の人物であることは明らかだった。
無造作に伸びた赤い髪と、優しげな顔つきを持ち、無精髭を生やしている。身につけているのは軽装のレザーアーマーとマントのみで、腰にはロングソードが差されていた。その姿は、王族というより放浪の剣士のようで、若さを残しながらもどこか中年の疲労感を漂わせていた。
ミエラはその姿を見て、一縷の希望を胸に、声を震わせながら問いかけた。
「もしかして……レグラス王子でしょうか……?」
ミエラの問いに、男は驚いたような表情を一瞬だけ浮かべた。しかし、すぐに無表情へと戻り、静かに首を振った。
「……もう王子ではない。私は国を離れた。今はただのレグラスだ。」
その言葉は落ち着いていたが、どこか遠い過去を思い返すような響きを持っていた。彼が王族であったことを否定しきれない雰囲気が、その佇まいに漂っていた。
ミエラはその言葉に戸惑いつつも、その存在が自分の目的に深く関わると直感していた。
「でも……!」
ミエラが言葉を続けようとした瞬間、レグラスは片手を軽く上げて静止させた。
「話は後だ。今はここを離れるのが最優先だろう。これ以上、君に無理をさせるわけにはいかない。」
視線には真剣な光が宿っており、その言葉は疑いようのない真実を含んでいた。ミエラはその言葉に従わざるを得ず、今は状況を受け入れるしかなかった。
「わかりました。ですが……どこに向かえば……?」
ミエラは焦りと不安を隠しきれないまま、目の前の男――レグラスに問いかけた。迫り来る危機の中で、行動を間違える余裕はなかった。
レグラスはその問いに、静かに頷くと落ち着いた声で答えた。
「こっちだ。」
簡潔にそう言うと、迷いなく砦の出口に向かって歩き出した。その背中は、自信と冷静さを漂わせており、周囲の緊張した空気をいくらか和らげるようでもあった。




