歪みのノストール ジン
ジンは船の甲板に立ち、静かに結界の向こう側を見据えていた。その視線の先、先に結界へと突入した船が魔物の蠢く地帯に飲み込まれ、その動きを止めているのが見える。
結界の向こうで戦いが繰り広げられているのは想像に難くなかったが、今のジンにとって気を取られる余裕はなかった。
船が結界に近づくにつれ、周囲の空気は次第に重く、張り詰めていく。すでに船は結界のすぐ近くまで来ており、引き返すことはもはや不可能だった。船の乗員たちも息を飲みながら結界を見つめていたが、その視線には恐怖と不安が滲んでいた。
ジンは静かに息を吐き、自身の刀に手を伸ばした。そして、その刀をゆっくりと鞘から抜き放つ。
(アマネ……力を貸してくれ。)
その心の中の祈りは、妹に向けられたものだった。ソルメーラ――かつて誓いを立てた神ではなく、肉親である妹の名を口にする。ジンにとって、それは信頼の証でもあり、覚悟の象徴でもあった。
抜かれた刀身はその祈りに応えるかのように、黒い輝きを帯びて染まっていく。まるで刃そのものが意志に応じるかのようだった。ジンは迷いなくその刀を構え、結界に向けて一閃を放った。
黒い剣閃が結界を切り裂いた瞬間、結界はまるで息絶えたかのように力を失い、その境界が揺らぎながら崩れ落ちていった。ジンは刀を握りしめたまま、その光景をじっと見つめる。
(効力を失った……。けど、結界の作りが分からない以上、すぐに元通りになるかもしれない。)
ジンの頭には冷静な判断が巡っていた。力を失った結界がどれだけ持つのかは未知数だ。今は切り裂いたが、再び立ち上がる可能性もある。それでも、状況は一瞬だけでも変わった。ジンはそのわずかな隙間を活用するためにすぐに動き出そうとした。
一方で、彼の切り裂いた結界に反応した海賊たちは違った。ジンの冷静な考えをよそに、甲板からは歓喜の雄叫びが上がった。
「おおっ!結界が破れたぞ!」
「行ける!俺たちは勝てる!」
海賊たちは一気に活気を取り戻し、その場の空気が変わった。恐怖と不安が支配していた船上は、歓喜と期待に満たされる。だが、それはあくまで一時的なものだとジンは知っていた。気を緩めれば、結界が再び力を取り戻す可能性もある。そして、何よりも――結界の向こうには魔物が待ち構えているのだ。
歓喜の雄叫びが甲板を包む中、セスナは他の誰よりも静かだった。しかし、彼女の顔には、普段の冷静さからは想像もつかないような笑みが浮かんでいた。その笑顔は、まるで子供が夢を叶えた瞬間のような純粋な喜びに満ちていた。
しかし、次の瞬間、セスナはその笑顔を瞬時に消し去った。それは、もしドルガンが見ていたら卒倒するような珍しい表情だったが、セスナにとっては一瞬の気の緩みだったのかもしれない。彼女はすぐに気を取り直し、海賊たちに指示を飛ばした。
「武器を構えろ!結界を越えた先は魔物どもの巣だ。目標は先行している船だ!近づいたら横につけ、船員たちを援護する!」
セスナの指示に応じ、海賊たちの喜びの声は、次第に獰猛な雄叫びへと変わっていった。彼らの顔に浮かぶ笑みは、戦闘を前にした興奮と覚悟に満ちたものだった。そして、その時はすぐにやってきた。
結界を越えた瞬間、甲板に魔物たちが押し寄せてきた。先陣を切るように襲い掛かってきたのは、群れを成した無数のコウモリだった。コウモリたちは凄まじい速度で船に飛び込んできては、甲板上の人々に牙を剥き、襲い掛かる。
ジンはその場を一歩も退かず、飛びかかってきたコウモリを刀で一閃し、真っ二つに切り落とした。続けて甲板上を素早く見回し、戦況を確認する。目に飛び込んできたのは、海賊たちがそれぞれの得意な戦い方で次々とコウモリたちを撃退する姿だった。
セスナは、まるで踊るかのような華麗な動きでコウモリを次々と捌いていく。その双剣は閃光のように素早く、どのコウモリも彼女に触れることなく地面に落ちていった。
一方、ドルガンは軽快な身のこなしで、舶刀を振り回してコウモリを一撃で両断していく。彼の周囲は血と魔物の残骸で埋め尽くされていたが、その隙を狙うようにコウモリが背後から襲い掛かる。しかし、そのコウモリは、ガンザの手斧によって真っ二つにされ、甲板に叩きつけられた。
ガンザは豪快な笑みを浮かべながら、次々と敵を斧で切り裂いていく。その動きは重厚で力強く、誰も近づくことができないほどの圧倒的な存在感を放っていた。
他の海賊たちも、コウモリたちを相手に慣れた動きで戦い続けていた。彼らは最初の興奮を維持しつつも、次第に冷静さを取り戻し、目標を「生存」から「制圧」へと切り替え始めていた。
敵がコウモリだけではなく、さらなる海の魔物が控えていることを誰もが理解していたのだ。
イモムシのような見た目をした魔物が、甲板の縁を這い上がってきた。その体表は粘着性の体液に覆われており、船の外壁にしっかりと張り付いている。その動きは鈍重で、個々では海賊たちの相手にはならないようだったが、速さのあるコウモリたちと並行して襲ってくることで、厄介な状況を作り出していた。
「ガンザ!爆発石ってまだあったよな!?」
ドルガンが、嫌そうにイモムシを舶刀で両断しながらガンザに声をかけた。
「ん~……あー、あったな、そういや。よっこらしょっと!!」
ガンザはそう言いながら、飛びかかってきたコウモリを素手で地面に押さえつけ、その首を斧で一気に叩き落とした。見事な連携動作だが、その軽い口調とのギャップが場の緊張感を少し和らげた。
「おい!てめえら!爆発石を取ってこい!それでイモムシを海に叩き込んでやれ!」
ドルガンの怒号が響き渡り、数人の海賊たちが急いで船内へ駆け込んでいった。船上では次々とコウモリが襲いかかってくる中、彼らは瞬時に行動を開始した。
ジンはその一連の動きを横目に見ながら、自分の前に飛びかかってきたコウモリを冷静に刀で切り裂いていく。その黒い刃は滑らかに輝き、彼の意志に応えるかのように魔物の群れを次々と断ち切っていった。
そんな中、ジンの背中に寄り添うように近づいてきた影があった。振り向く間もなく、セスナが彼の背にぴたりと体を寄せ、静かに問いかけた。
「もうすぐ船が着く。私たちは向こうの船に乗り込むが……お前はどうする?」
その言葉に、ジンは驚きつつも答えた。
「えっ?船長自ら行くんですか……?でしたら、私はここで船を守ります。」
ジンの敬語混じりの返答を聞いたセスナは、軽く鼻で笑いながら、彼の横をすり抜けるように飛びかかるコウモリをきれいに切り落とした。
そして、同じように海から這い上がってきた魔物を斬り伏せたジンに、淡々とした声で告げた。
「普通に話せ。むず痒い。」
その短い一言には、セスナらしい余裕と茶目っ気が滲んでいた。彼女はそれ以上言葉を交わすことなく、横付けされた船に向かって軽やかな足取りで進んでいく。
ジンはそんな彼女の後ろ姿を一瞬見送った後、再び周囲の魔物たちに意識を戻した。船に乗り込む海賊たちを横目で見守りながら、ジンは甲板に押し寄せる魔物たちの対処に専念することにした。
(ここで魔物に船を支配されるわけにはいかない……。)
ジンの刀は黒い輝きを失うことなく、コウモリや這い上がるイモムシを次々と切り裂いていく。その動きは鋭く、無駄がなかった。自分がすべき役割を冷静に理解し、それを全力で果たそうとしていた。
甲板の上では、ドルガンとガンザが引き続き海賊たちを指揮しながら、魔物の群れを食い止めていた。ガンザは爆発石を使う準備を整え、ドルガンがそれを的確に指示する。彼らの動きは、海賊としての経験が色濃く表れており、混乱の中でも統率が取れていた。
一方で、セスナを含む海賊たちは次々と横付けされた船へと乗り込み、さらなる戦いの準備を整えていた。
船員たちがそれぞれの役割を全うし、戦況を整えていく中で、ジンはふと違和感を覚えた。船上の喧騒から外れた場所に、明らかに異質な存在が目に入ったのだ。
船の上空に浮かぶのは、三つの顔と奇妙な身体を持つ異形の存在。その姿を見た瞬間、ジンの心に警鐘が鳴り響いた。異形の存在が船に向けて何かを行ったのを見た直後、船の周囲に歪みが生じ始めたのだ。
「なんだ……これ……!?」
ジンがその異常を見つめている間に、海賊たちは次々と自分たちの船へと戻ってきた。その動きは自然なものではなく、歪みによって強制されたようだった。その光景に、ジンの脳裏に一つの可能性が浮かび上がった。
(神の力……! だけど、あの姿は……?)
空に浮かぶ異形の存在を見つめながら、ジンはその正体を考え巡らせた。確かにその力は神に匹敵するものだったが、その姿は異様だった。
三つの顔のうち一つは人間の顔、残りの二つは魔物の顔をしている。そしてその体は、どう見ても均整の取れた神々しさとは程遠い、歪んだ造形だった。
(神が顕現する場合、多くは自らの眷属を媒介にするはずだ……だけど、あれは違う。特に、人の顔がついている時点で……!)
ジンは刀を構えたまま、その存在の正体を突き止めようと目を凝らした。しかし、考えがまとまりきらないうちに、さらなる異変が襲いかかった。突然、巨大な波が船に降り注ぎ、その衝撃が甲板を揺るがせた。
「波……!? いや、違う!」
波はただの水ではなく、その中には何人もの人間が乗せられていた。波はそのまま海賊船の甲板に打ち寄せ、次々と人々を船へと運び込む。その異様な状況にジンが驚いている間に、突如として波に乗った何か――いや、誰かの強大な身体がジンへと衝突してきた。
「ぐっ……!」
ジンはその衝撃で甲板を転がされたが、すぐに態勢を立て直した。そして、自分にぶつかってきた存在に目をやると、その姿に言葉を失った。
(リザード族……? いや、少し違う……。)
目の前に横たわっていたのは、ジンの大陸に生息するリザード族によく似た存在だった。
しかし、その身体はジンが知るリザード族とは異なり、どこか透き通るような青い鱗に覆われており、その輝きは不思議な美しさを放っていた。ジンがこれまで見たことのない種族だ。
(青いリザード族なんて聞いたことがない……それに、この身体……。)
しかし、その美しい外見とは裏腹に、リザード族に似たその存在はボロボロだった。身体中が血で染まり、その傷口からは鮮血が滴り落ちている。明らかに致命傷を負っており、今にも命が尽きそうな様子だった。
ジンが倒れた青いリザード族に近づき、その身体の様子を確かめるよう手を伸ばして触れた瞬間――血走った目が見開かれた。
リザード族に似たその種族は目覚めるや否や、低く唸りながらジンに噛みつこうとしてきた。
「っ!」
咄嗟に身を引き、ジンは噛みつきから身をかわした。即座に刀を構え、警戒を強める。その目は正気を失い、まるで獣のような狂気に満ちていた。
(錯乱しているのか……? いや、この感じ、ただの錯乱じゃない……。)
ジンはそう考えながら間合いを測る。だが、その時、刀が黒く染まり始めた。刀身に宿る力が何かを察知し、それに応えるように変化する。それと同時に、リザード族に似た種族は再び意識を失い、甲板に倒れ込んだ。
「……なんだったんだ?」
ジンは困惑した表情で倒れたリザード族を見下ろした。刀が反応した理由、そして目の前の異質な存在の正体――どれも明確には分からない。ただ、普通の眷属や人間とは違う何かがあることは確かだった。
その時、背後から甲板を駆け抜ける足音が聞こえた。振り返ると、一人の男が青いリザード族に向かって急いで近づいてきた。
「アイリーン!!待ってくれ!彼女は仲間なんだ!」
必死な声で叫びながら駆け寄ってきたその男に、ジンは一瞬眉をひそめた。そして青いリザード族を指差しながら、落ち着いた声で告げた。
「女性なんですね……。彼女、錯乱しているようでした。目覚めたら危険かもしれません。」
ジンの言葉に、男は青いリザード族を見つめながら苦々しく頷いた。
「わかっているさ……だが、このまま放っておいたら、間違いなく死んでしまう。出来ることをしてやらんと。」
そう語る彼の目には、焦りと決意が浮かんでいた。その様子にジンは少し驚きながら、目の前の男を観察した。彼は30代ほどの年齢に見え、現在はボロボロの姿だが、その装備は元々高価だったであろうことが一目で分かる。おそらく、かつては身分の高い者か、あるいは重要な役割を担っていた者なのだろう。
(こんな混乱の中で、ここまでまともな装備をしてるとはな……それに引き換え……。)
ジンはふと自分の服装に目を落とした。その姿は戦いと海の過酷な環境で汚れ、ほつれ、まさにみすぼらしいと言える状態だった。彼は思わず苦笑する。
(……今やこの船で一番みすぼらしいのは俺かもしれないな。)
だが、その軽い自嘲も束の間、甲板に響く轟音にジンの意識は強制的に引き戻された。
「何だ!?」
その音の方向を見ると、異様な三つの顔を持つ神のような存在に、水の刃と風の刃が同時に叩きつけられていた。しかし、その刃は何らかの力によって弾き返され、神の周囲には不可視の障壁のようなものが漂っている。
(あの刃……セスナか? いや、それよりも――。)
ジンは険しい顔で神に視線を固定した。その異様な存在から放たれる威圧感は、船にいる全員に何か重い圧力を与えているようだった。
(ただの神じゃない……あれは一体……?)
異質な神の動きに、ジンの全身に危険を告げる感覚が走った。その直感に従い、ジンは迷うことなく刀を振り抜いた。黒く染まった刀身が神へと一閃を放つ。しかし、神はその斬撃をかわし、静かに語りかけてきた。
《何故、人が死の力を持つ?》
その問いかけは、まるでジンの存在そのものを見透かしているかのようだった。ジンは一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに答えを口にした。
「目的のためです。」
大勢の前では、本当の答えを語るわけにはいかなかった。目の前の神が自身の目的に関係する存在であるならば、下手に真実を明かすのは危険だ。適当に濁した答えを返しながら、ジンの頭には別の考えが巡っていた。
(まず、この神が何者なのかを知る必要がある。それが分からなければ次の一手も読めない。)
神はジンの言葉を静かに聞きながら、どこか冷ややかな口調で再び語り出した。
《永劫の力……死から生まれた力は、人が持つべきものではない。人に渡していい力ではない……ソルメーラは愚かだ。》
その言葉に、ジンは神が自分の持つ「死の力」の正体をおおよそ察していることを確信した。同時に、神の言葉の裏に潜む軽蔑と警戒心を感じ取った。
(話が通じそうだ……この神は、ただ力を誇示するだけの存在ではない。ならば、話を聞き出せるかもしれない。)
ジンは一度刀を下ろし、静かに神へ問いかけた。
「私も貴方にお聞きしたいことがあります。もし貴方がその存在ならば、話は早いのですが……私はある神を探しています。できれば、お名前を教えていただけませんか?」
その質問は大胆なものだった。神にとって、自身の名を明かすことには何の意味もない。むしろ、名を明かさないことで優位性を保とうとする可能性の方が高い。
だが、ジンにはどうしてもその神の正体を知る必要があった。もしも目の前の神がアスケラであるならば、その意味は重大だ。
(話す気がないなら、力で答えを引き出すしかない……。)
覚悟を決めかけたその瞬間、意外なところから答えが返ってきた。
「あれはノストール。病の神から生まれた、歪みのノストールです。」
澄んだ声に驚き、ジンは視線をそちらへ向けた。そこには、銀髪に美しい容姿を持つ若い女性が立っていた。年齢はジンの妹と同じくらいに見える。その美しい姿は、この混沌とした状況の中でどこか場違いなほど静かだった。
「えっ?あ……ありがとうございます。」
予想外の返答にジンは一瞬戸惑いながらも、思わず礼を述べた。覚悟を決めていた直前の緊張が少し緩むと同時に、ジンの頭は冷静さを取り戻していった。
(ノストール……病の神から生まれた存在……。)
女性の言葉を噛みしめながら、ジンは視線を再びノストールへと向けた。ノストールと呼ばれたその神は依然として冷たい視線をジンに向けており、彼の一挙手一投足を見逃すまいとするかのようだった。
「それなら、歪みの神ノストール様。」
ジンは一度息を整え、静かに口を開いた。
「私は貴方を生んだ神、病の神アスケラ様を探しています。居場所をご存知でしょうか?」
ノストールという名を聞いた時点で、目の前の神がジンの探していた「目的の神」ではないことは明らかだった。その事実に、ジンは内心少し落胆した。しかし、アスケラから生まれたと言われるノストールならば、何かしらの手がかりを持っているかもしれない――そう淡い期待を抱き、質問を投げかけた。
しかし、その答えは簡潔で冷たかった。
《誓いを立てれば答えを得られる。誓いを。》
ノストールはジンの質問には答えず、ただ誓いを要求してきた。その態度には一切の譲歩もなく、神としての威圧感が漂っていた。
ジンはその言葉を聞きながら、ノストールの姿をもう一度観察した。異様な三つの顔、不自然に歪んだ身体……。ジンはその外見から、ノストールが望む身体ではなく、何らかの理由で不完全な形で存在しているのだと確信した。
神が誓いを要求するのは、たいてい相手の身体を望む時だ。それを考えれば、ノストールは自身の肉体を不完全なものと捉えている可能性が高い。
(やはり……この神の姿は歪みそのものだ。望む身体を得られていない証拠だろう。)
しかし、ジンにはノストールと誓いを結ぶつもりは一切なかった。それは自身の目的にそぐわないだけでなく、神と誓いを立てることの危険性を誰よりも理解していたからだ。それでも、最後の望みとして、もう一つの質問を口にした。
「そうですか……では、最後にお聞きします。神の肉をご存知でしょうか?」
その言葉に、ノストールの反応が変わるかと思ったが、返ってきたのは再び冷淡な言葉だった。
《誓いを。》
ノストールは答えを示す意思を一切見せず、ただ誓いを強制した。それでも、ジンはこのやり取りに対して感謝の念を抱いていた。
ノストールが誓いを求めるということは――彼はアスケラの居場所と神の肉について何かを知っている、そう確信できたからだ。
(助かった……。少なくとも、アスケラが存在しないわけではなく、神の肉の手がかりが全くないわけでもない。)
ジンの一番の懸念は、アスケラが顕現しておらず、神の肉についての知識も誰も持っていないという事態だった。もしそれが事実であれば、「何もない」ことを証明するのは途方もなく難しい。
だが、ノストールの反応から、アスケラと神の肉に関する情報は確実に存在していると判断できた。
ジンは短く息を吐き、刀を軽く下ろして静かに言葉を紡いだ。
「ありがとうございます。ただ、私は既に別の誓いを立てていますので、貴方の要求には応じられません。申し訳ありません。そして……私は貴方と揉めるつもりはありません。このまま行かせていただけますか?」
その言葉には、ジンの冷静な意志と、目の前の神との不必要な衝突を避けようとする気持ちが込められていた。
甲板の上、海上という不安定な状況で、空を漂うノストールと戦うのは得策ではない。加えて、ノストールの目的がジンたちの船でないことも見えていた。
ノストールはジンの言葉に対し、じっと見下ろすように彼を見つめていた。その視線には冷徹な威圧感があり、周囲の空気をさらに重くしていくようだった。
(これ以上話しても無駄だ……。目的は達成できた。今は退くべきだ。)
ノストールは、ジンの発言を聞いた後、ゆっくりと船に近づいてきた。その動きは緩慢で、威圧感はあったものの、攻撃の意思は感じられなかった。もしノストールが本気で戦うつもりなら、遠距離から魔法を放つか、魔物をけしかけるはずだ。それをせずに魔物を待機させている様子を見る限り、少なくとも今は戦闘の意図はないように思えた。
ジンは警戒を解かずにノストールをじっと見つめ、次の動きを待った。だが、ノストールが向かったのはジンではなく、先ほどノストールの名前を教えてくれた銀髪の女性だった。彼女の前で立ち止まったノストールは、静かに言葉を紡いだ。
《娘が誓いを立てれば用はない。》
その発言を聞いたジンは、ノストールの狙いが最初から銀髪の女性であることを理解した。ノストールの名前を知っていた彼女にも、何かしらの因縁があるのだろうと推測する。
だが同時に、ノストールの言葉がこの場にいる船員たちにどのような影響を与えるかも気に留めていた。
銀髪の女性と同じ船にいた船員たちは、なぜ自分たちが襲われたのか理由を理解できずにいたのだろう。その視線には戸惑いや恨みが宿り、女性に向けられていた。
彼女がノストールの標的であることを知った彼らは、さらに疑念を抱き始めていた。
しかし、彼らの目は次第に変わっていった。銀髪の女性がノストールの要求に応じれば、自分たちは助かるかもしれない――そんな期待が、船員たちの表情に浮かび始めたのだ。
彼らは理不尽な状況に押し流され、冷静さを失いかけているようだった。ジンはその様子を黙って見守りながら、静かにため息をついた。
(あの女性……彼女に何があるんだ?)
銀髪の女性はノストールに対し、激しい憎しみの眼差しを向けていた。その目には深い怨念と怒りが宿り、全身から拒絶の意志がにじみ出ていた。
ジンは彼女の表情を見て、彼女が何か大きな悲しみや苦しみを抱えているのだと直感した。それが何なのかは分からないが、ノストールとの間にある因縁の一端が見えたような気がした。
その緊張した空気を切り裂くように、別の女性の声が場に響いた。
「ミエラちゃん……駄目よ……こんな奴、ぶっ飛ばしてやるわ。」
その声に、ジンは思わず目を向けた。声の主は、血だらけで満身創痍のリザード族だった。堂々とした立ち姿ではあるが、体中に無数の傷を負い、今にも倒れそうなほど消耗している。その姿を見て、ジンは驚いた。
(本当に女性だったのか……。)
ジンは目の前の状況に困惑しながらも、その場を冷静に見つめていた。青いリザード族に似た女性――彼女のような存在をジンが目にするのは初めてだった。リザード族の女性は基本的に洞窟にこもる種族であり、外に出ることはほとんどないとされている。そのため、彼女の姿はジンにとって完全に未知の存在だった。
その身体は血だらけで無残だったが、どうやら正気を取り戻したらしく、彼女はミエラと呼ばれた銀髪の女性と知り合いのようだ。ふらふらと立ち上がる姿に、身なりの良い男性が心配そうに声をかける。
「アイリーン!まだ動くな!いくら君でも、その傷では……!」
どうやら彼女の名前はアイリーンというらしい。男性の必死な声をよそに、アイリーンは微かに笑みを浮かべて言い返した。
「エイラン、ありがとね。でも……アタシをこんな目に遭わせた奴が目の前にいるのよ?寝てらんないわ。」
その言葉には強い怒りが込められていた。そして、ふらつく身体を無理に支えながらも、アイリーンはノストールの前に毅然と立ち続けた。彼女の背筋はまっすぐで、その視線には神をも恐れない強い意志が宿っていた。
その姿に触発されたのか、銀髪の女性――ミエラもまたノストールに向き直り、冷静だがはっきりとした声を上げた。
「断るわ。」
その短い一言には、ミエラの強い決意と拒絶の意志が込められていた。恐怖に支配された船員たちや、圧倒的な存在感を放つノストールを前にしても、彼女の言葉には迷いがなかった
ノストールはミエラの拒絶の言葉を静かに受け流し、今度は船にいる他の人々へと視線を移した。そして、その冷たい声で明確な言葉を告げた。
《船を沈め、魔物にお前達を食わせる。だが、娘が誓えば皆助けてやろう。安全に大陸まで行かせてやる。戻りたいものがいるなら安全に送り届けてやろう。》
その言葉は、これまでの遠回しな要求ではなく、はっきりとした取引だった。ミエラを差し出せば助かる――それを聞いた瞬間、船上にざわめきが広がった。
最初はただ困惑していた船員たちだったが、誰かが声を上げたのを皮切りに、その声は一気に大きくなり、怒声と懇願の渦へと変わった。
「元々お前がいたから狙われたんだろ!? 誓え!」
「頼むよ! 何の誓いかは分からないけど、相手は神様だぞ? 悪いようにはしないはずだ!」
「俺には家族がいるんだ! 頼む、誓ってくれ!」
その声は次第に広がり、元々ミエラと同じ船にいた船員たちだけでなく、海賊たちの一部までもがその輪に加わり始めた。恐怖に駆られた人々の声が甲板を満たし、ミエラを囲むように懇願と非難が渦巻いていく。
その状況を見つめるジンの頭には妹の姿が浮かんでいた。――その思いが、船員たちの態度に対する蔑みを強くしていた。
一方、セスナは騒ぎを黙らせようと試みていたが、海賊たちの一部の言い分に一定の理解を示しているようでもあった。
そのため、力で黙らせるような強硬な手段は取らず、静かに言葉で抑えようとしていた。それがかえって、船員たちや海賊たちの不満の声を広げる結果となっていた。
「……お前たち、黙れ。」
セスナの低く静かな声が響いたが、それでも完全に抑えきることはできなかった。ミエラを囲む船員たちの視線には、まるで彼女が全ての元凶であるかのような非難の色が濃く浮かんでいた。
ジンはその様子をじっと見つめていた。そして、静かにノストールを見上げ、冷静な声で問いかけた。
「身体を奪うのですか?」
その言葉は、ジンがノストールの狙いを確信しているがゆえに発せられたものだった。
(やはり……ノストールが誓いを求める理由は、それしかない。)
ノストールが自分にも誓いを求めた時、ジンはすぐに拒否した。しかし、その時点でジンは疑問を抱いていた。ノストールは本当に自分の身体を欲していたのか、と。
今になってその答えが見えた。おそらくノストールは最初からミエラを狙っており、ジンに誓いを求めたのも、彼女を屈服させるための布石だったのだろう。
ノストールはジンの問いに冷たく答えた。
《1つになるのだ。》
その言葉には、神としての傲慢さと絶対的な力への自信が滲んでいた。それはノストールにとって、「当然のこと」とでも言わんばかりの返答だった。
その明確な言葉に、甲板にいた船員たちの何人かは一瞬だけ沈黙した。しかし、その後も自分たちの命を守るため、矛先をノストールではなくミエラに向けて非難を続ける者たちがいた。その姿を目にし、ジンはかつて自分が大切な妹のために裏切った人々の姿を思い出した。
(神のために人の死を厭わない……か。)
その過去が頭をよぎる中、ジンは静かに呟いた。
「神のために人の死も厭わないか……。」
その声には、深い蔑みと失望が込められていた。同時に、心は決まっていた。優先すべき任務は確かに存在する。しかし、ここでの選択はその任務にそれほど影響を与えないとジンは理解していた。
ならば――自分の心に従うまでだ。
ジンは目の前のミエラに、かつての妹の面影を重ねた。その記憶が、彼の中に眠っていた感情を呼び起こし、刀を握る手に力を与えた。
「貴方が死ねば、話が早い。」
その一言は、ノストールへの宣戦布告そのものだった。
ジンは言葉を放つと同時に迷いなく刀を振り抜いた。黒く染まった刀身から放たれた斬撃は、鋭い音を立てながら空を切り裂き、ノストールに直撃した。
ノストールはジンの放った斬撃を複数の手で防いだものの、その代償として腕が2本散り落ちた。
三つの顔のうち正面の顔が虫の顔へと変化したノストールは、怒りに満ちた動きで魔物たちに指示を飛ばすと同時に、顔が再び女性のものに戻り、ジンに向けて魔法を放った。
《歪め!歪め!歪め!》
怒りの声を古代語で放ちながら、ノストールはジンの周囲の空間を歪め始めた。
その魔法の意味は分からなかったが、ジンの足元にあった甲板は軋みを上げながら崩壊し、異様な歪みに飲み込まれていく。船員たちは恐怖に駆られ、逃げ出す者や武器を構えて魔物に備える者に分かれていた。
ジンは歪む空間から素早く抜け出しながら、ノストールの力を観察していた。
(人自体は歪められないのか……?歪められた魔物の様子を見る限り、できてもおかしくないはずだけど……。)
考えを巡らせながらも、ジンは休むことなくノストールに向けて斬撃を放った。
その斬撃はノストールを追い詰めたが、ノストールはどうやらソルメーラの力を歪めることができないらしく、攻撃を防ぐことができずに躱す動きに集中していた。しかし、その様子から躱すことに不慣れであることが見て取れた。
ノストールが離れた位置に移動し、距離を取ったことで一旦戦闘は膠着状態に入った。そんな中、ジンは船上で仲間たちが魔物を迎撃しているのを目にした。
「おーい!あんた引っ込んでな、その身体じゃ足手まといだよ!」
ガンザが手斧を巧みに振り投げ、アイリーンの周囲を飛び回るコウモリたちを次々と撃ち落としていた。
「そうだっつの! ジン! てめぇ! ふざけんなよ!やるならいきなりやんなよ!準備ってのがあんだよこっちには!」
ドルガンはジンを非難するように喚きつつも、その表情はどこか余裕が感じられるものだった。次々と魔物を蹴散らしながら、ジンが神を切ろうとしたこと自体にはあまり興味がない様子だった。
ジンは、準備不足を指摘しつつも戦闘を続ける仲間たちに感謝しながら、遠くに浮遊するノストールをどう追撃するかを考えていた。
「まさか策もなく切り始めたのか?」
セスナが這い上がる魔物を切り伏せながら、呆れた表情でジンに話しかけてきた。
「……あそこまで遠くに行くとは思ってなくて。セスナは何か策とかありますか?」
「ないさ。正直、ここで戦うつもりなんてなかったしな。あと言葉遣い。」
「すぐには無理ですよ。少しずつ直していくよ。」
そんな会話を交わしつつ、ジンが飛んできたコウモリを切り落とすと、銀髪の女性、ミエラが駆け寄ってきた。
「……あの、ありがとうございます……。」
「いえ、礼を言われるような状況じゃないですし……。それより、何か策とかありますか?」
ミエラの礼を受け流しながらも、ジンは彼女に尋ねた。ミエラが魔物を蹴散らしながら水の魔法を駆使して戦っているのを見て、ジンは彼女の実力を感じ取っていた。
「魔法使い?」
「えっ?あ、はい、そうです。」
ミエラの答えに、ジンはかつて見たことのあるランの魔法と比較していた。ミエラの魔法は異質だった。ランの魔法も強力ではあったが、ミエラは圧倒的なスピードで魔法を放つ。その理由はすぐに分かった。ミエラは詠唱をほとんど行っていなかったのだ。
感嘆したジンは素直に言葉を漏らした。「すごいですね。」
そして、すぐに質問を続けた。「その魔法でノストールを近づけることはできますか?もしくは、俺をあいつの元へ送ることは?」
「……ノストールを近づけるのは難しいです。放つ魔法が歪められてしまうので……。でも、貴方を向こうに送ることはできます。」
ミエラの言葉を聞いたジンは、目を輝かせた。すぐに彼女に頼み込む。
「ありがとうございます!それじゃあ、早速お願いします!」
しかしミエラの表情は冴えない。
「でも……とても危険で……送るというよりは……」
その言葉に、ジンは嫌な予感を覚えた。どうやら、ミエラの考える「送り方」は、彼が予想していた以上に過酷らしい。
だが、ノストールが魔法を放ってこない今こそ最大のチャンス。迷っている暇などなかった。
「それでも、この状況を打破するためには必要です。お願いします。」
ジンの決意を見て、ミエラも覚悟を決めたようだった。
「わかりました。私の魔法で奴の近くまでお送りします。ただ……安全を考えれば小舟を使い、波であなたを送る方法が理想ですが……ノストールが魔法を使えば、一瞬で破壊されてしまいます。それに、気づかれれば入れ違いでこちらに向かってくる危険もあります。」
ミエラの表情がさらに険しくなる。
「だから、海の中を通してあなたを送ります。流れに乗せることで気づかれる可能性を低くし、何かあればすぐに戻すことも可能です。」
ジンは驚き、躊躇した。確かにミエラの言う通りだが、ジンが思い描いていた作戦より遥かに危険であることは明らかだった。
「……時間はかかりません。むしろ、そのほうが速い。そして、何があってもあなたを守ります。」
ミエラの決意を聞き、ジンは腹をくくった。
「わかりました。それで行きましょう……お願いします。」
ノストールの死角に回り込むと、ジンはミエラの魔法に身を委ね、海へ飛び込んだ。
冷たい水が体を包み、呼吸が一瞬止まる。その直後、海の魔物が襲いかかってきた。しかし、ミエラの魔法の力が魔物を吹き飛ばし、ジンの体もまた凄まじい勢いで流れに飲み込まれた。
(これは……まずい!)
ジンは水の中を進みながら、作戦の欠陥を痛感した。確かにノストールに近づけるだろう。しかし、到達した後、この状況で果たして戦えるのだろうか……?そんな不安を抱いた次の瞬間、ジンの体は勢いよく海面を突き破り、空へと弾き出された。
最初にジンがみた光景は、暗く濁った雲だった、海から空に飛び出たジンはその光景に感謝した。
この雲の中でも濁った日射しのような物は感じていたが、照りつけるような眩しさはなく、自身が切ろうとした気配を近くに感じ、微かに見える視界と自分の気配察知を頼りにジンは躊躇いなく刀を振り抜いた。
確かに斬った感触と落ちていく景色の中、ノストールも体制を崩したの確認してジンはまた冷たい海に落ちていった




