地図
ジンは増え続ける人混みをかき分けながら、商店を探していた。
道行く人々の顔には、不安と焦燥が色濃く滲んでいる。
荷物を慌ただしくまとめる者、埃をかぶった鎧を引っ張り出し、ぎこちなく身に纏う者——
街は戦の気配に覆われていた。
広場では、騎士たちが避難を促し、年寄りや女子供、そして戦えないと判断された若者や負傷者が列を作っている。
誰もが自らの運命を受け入れられず、戸惑いと恐れを滲ませた表情を浮かべていた。
(……戦場が近い)
ジンは無言で歯を噛みしめる。
度々、巡回中の騎士たちに呼び止められそうになったが、適当に話を合わせると、すぐに彼らは他の者の誘導に意識を向けた。
それほど、この街全体が混乱に包まれているのだろう。
(早くこの大陸の地図を手に入れて、オーデントを抜けなければ……)
しかし、いくつかの店を巡ったものの、すでに店は閉まり、軒先には「避難のため休業」と書かれた札が掛かっている。
当然のことだった。
ジンは諦めかけ、最悪、こっそり忍び込んで手に入れるしかないかと考えた矢先——
見覚えのある男の姿が目に入り、思わず足を止めた。
「おっと! あんた、まだいたのか?」
砂埃にまみれた荷車を荷造りしている男——
かつてオーデントに来たときにジンを雇っていた商人だった。
「これは……! お会いできて光栄です」
ジンは心からの安堵を滲ませ、駆け寄る。
商人は怪訝な顔をしながらも、手を止めた。
「なんだ? すまんが、金も余分な品もないぞ?」
ジンは慌てて首を振る。
「いえ、違います。ただ、売っていただきたいものがあるんです。この大陸の地図を」
「……地図?」
商人は眉を上げると、苦笑した。
「なるほどな。確かに、今の状況じゃ誰もが考えることは同じだ。国を出ようって連中が多いせいで、地図を探すやつが増えてな……ちょっと待てよ」
そう言いながら、荷車の上に山積みにされた荷物を漁り始める。
ジンは申し訳なさと期待を胸に、その手元を見守った。
「おぉ、あった、あった!」
商人は丸められた地図を引っ張り出し、誇らしげに広げてみせた。
「んー……ただ、これは大陸全体の地図みたいだな。オーデント周辺の詳しい地形や街道なんかは載ってないし、あまり役に立たないかもしれんぞ」
そう言いながら、商人は広げた地図を眺めた。
しかしジンは迷うことなく答えた。
「いえ、これで十分です。いくらになりますか?」
商人は驚いたようにジンを見やり、そして少し笑って肩をすくめた。
「……そんなもんでいいのか? まあいいさ、タダでやるよ。あんたには稼がせてもらったしな。それに……どうせ国を出るんだろ?」
ジンは地図を受け取りながら、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。ええ、ベイルガルドに向かうつもりです」
その言葉に、商人の表情が一変する。
「ベイルガルド……? おいおい、本気か?」
「ええ」
「よくもまあ、オーデントからわざわざベイルガルドに行こうなんて考えるな……」
商人はあきれたようにため息をつき、地図を指し示しながら続ける。
「普通、ベイルガルドに行くにはオステリィアを経由するのが無難だが、今は国を閉ざしてる。関門を抜けるだけならできるかもしれないが、オステリィアの街には入れんぞ。それに……ベイルガルドの関門なんて、よっぽどの理由がないと通してもらえない」
その言葉に、ジンは森で出会った兎族のムムムを思い出す。
たしかムムムも「オステリィアは国を閉ざしている」と言っていた。
ジンはさらに地図を指し示し、商人に尋ねる。
「では、ここは通れませんか?」
商人はその指先を見て、一瞬驚いたような顔をし、そして呆れたように鼻を鳴らした。
「絶対に無理だ。やめとけ」
「何故です?」
「そこは……道なんかねえよ。オーデントとベイルガルドを結ぶ街道なんて作る必要がなかったからな」
ジンは眉をひそめる。
「なぜ、作る必要がなかったのです?」
商人は苦笑しながら、地図の上を指でなぞった。
「そこに広がってるのは“腐敗の森”だ。かつて腐敗の神が住まい、今もその眷属がはびこってるって話だ。そして、その先には“ガルド山”がそびえてる。そこには——」
商人は言葉を区切り、少し声を潜めた。
「“神”がいる」
ジンは静かに聞き返す。
「……神?」
「お前も知ってるだろう、“ケンニグの物語”を。腐敗の森には、かつて腐敗の神が残した眷属が蠢いている。そして、その先のガルド山には、ケンニグが封じた神が眠ってるって話だ」
ジンは少し考え、慎重に言葉を選びながら答える。
「……それはただの伝承では?」
だが、商人は真剣な表情で首を横に振った。
「馬鹿を言うな。ただの物語なら、オーデントとベイルガルドはもっと関わりを持っていたはずだろう?」
ジンは地図を見つめながら、静かに息を吐いた。
確かに、オーデントとベイルガルドは互いの行き来が極端に少ない。
それどころか、まるで互いの存在を避けるかのように、歴史の中で交流が途絶えていた。
(……神の封印、か)
ジンは目を閉じ、一瞬だけ考える。
腐敗の森を抜けるか、それともオステリィアを経由するか。
どちらも危険だ。
だが——
(結局のところ、行くしかないんだよな……)
ジンは静かに地図を折り畳み、商人に再び礼を言った。
「貴重な情報、ありがとうございました」
商人は大げさに肩をすくめ、馬車の荷台に腰を下ろした。
「まあ、好きにしな。……だが、せいぜい生き延びろよ」
ジンは微かに笑い、踵を返した。
目指すはベイルガルド——




