別離
薄暗い街並みを駆け抜けながら、ジンは胸の奥にわずかな違和感を覚えていた。
戦の気配が漂うオーデントの街。だが、それだけではない——何かが、決定的に違う。
その感覚に答えるように、アイシャが苛立った声を上げる。
「……なんで? 夜明け前なのに、今日はやけに人が多くない?」
街角に立つ者、通りを歩く者、その誰もがどこか落ち着かない様子を見せている。
竜族への理解があるとはいえ、アイリーンの姿はやはり目を引く。人目を避けながら移動したいのに、それが難しい状況に、アイシャは苛立ちを隠せない。
そんな彼女の言葉に、アイリーンも鋭い視線を周囲に向けながら小さく呟いた。
「確かに……それに、なんか変な視線を感じる。」
ジンも同意だった。
初めてオーデントを訪れたときは、アイリーンの姿を気にしない者も多かった。だが今は違う。
向けられる視線には、恐怖とも、敬意とも言えない複雑な感情が混じっていた。
(……何が変わった?)
戦が近いからか? それとも、何か別の理由が——
思考を巡らせるジンをよそに、アイリーンが溜息混じりに言う。
「ちょっと予想外ね。このままじゃまずいわ。」
ジンも頷く。
「アジトがある区画は抜けたみたいだ。一旦、どこかに落ち着こう。」
ジンの提案に、アイシャが前を向いたまま手を上げる。
「知ってる空き家があるわ。昔、盗賊だった頃に使ったことがある。」
彼女が先導し、三人は足早にその場を後にした。
空き家に到着すると、アイリーンは床にばたりと倒れ込み、大きな溜息をついた。
「……本当に、この大陸に来てからろくなことがないわ!」
尻尾を苛立たせながら呻く彼女に、ジンは苦笑しながら肩をすくめる。
「同意する。」
そんな二人を見ながら、アイシャが壁に背を預け、腕を組んだ。
「で、あんたたちはどうするの?」
ジンとアイリーンが互いを見やる。
しばしの沈黙の後、ジンが口を開いた。
「……悪いが、俺はこの国から退散するつもりだ。」
アイリーンの表情が険しくなる。
ジンはアイリーンの視線を受け止めながら、壁に寄りかかり静かに答える。
「悪いとは思ってる。だが元々、この大陸のことは知らなかった。アスケラに近いミエラを狙うノストールを追えば、目的地も近いと考えていた。」
腕を組み、少しの間考えるように目を伏せたあと、ジンは続けた。
「もちろん、オステリィアは通り道だ。ミエラと合流して向かうのが最善だとは思う。」
そこまで言って、彼はゆっくりと視線を上げた。
「だが、気づいているだろう? 今、この国は戦の準備に入っている。それも……すぐに。」
その言葉に、アイリーンとアイシャの表情が引き締まる。沈黙が降りた室内に、遠くから響く馬の蹄の音が、戦の足音のように聞こえた。
薄暗い部屋の中、ジンの言葉が静かに響く。
「ただでさえ、わけのわからないことに巻き込まれてるのに……戦まで始まったら、どうなるかわかったもんじゃない。」
そう言いながら、ジンはアイリーンに視線を向けた。
「このままミエラの帰りを待たないのは、不義理だとは思う……だが、少なくともアイリーンを盗賊から救った。俺は、このままベイルガルドを目指す。」
ジンの宣言に、アイリーンは低く唸るように息を吐いた。
「……あんたがどこへ行こうと勝手だけど、少なくともミエラちゃんは待ちなさいよ。期限は今日までだったはずでしょう? もし今日戻らなければ、それはつまりミエラちゃんに何かあったってことなんだから。」
鋭い視線を向けるアイリーンに、ジンは肩をすくめた。
「だからこそ、今日が期限だ。もしミエラが戻らなければ——アイリーンはどうする?」
その問いに、アイリーンは迷いなく答えた。
「探すわ。絶対に。」
二人の間に張り詰めた空気が流れる。
戸惑った様子のアイシャが、じりじりと後ずさるのが見えた。
ジンはため息をつき、静かに告げる。
「……ミエラが戻れば、それでいい。でも、もし戻らなかったら? 悪いが、俺にとっては面倒が増えるだけだ。」
その言葉に、アイリーンの尻尾が激しく床を打った。
「——あんた、本当に薄情ね。」
静かな怒りを滲ませるアイリーンの姿に、アイシャは息を飲む。
ジンはアイリーンを警戒しながらも、冷静に言葉を返した。
「ミエラとアイリーンの出会いの経緯をすべて知っているわけじゃない。それに、お前の性格を完全に理解したわけでもない……でも、正直なところ、なぜそこまでこだわるのか不思議だ。旅を共にした時間は、そこまで長くないはずだろ?」
アイリーンは鼻を鳴らし、皮肉げに笑った。
「……あんたが、そんなつまらないことにこだわるとはね。友人は年月で決まるものなの?」
ジンはため息をつき、壁に背を預けた。
「怒るのはわかるが、争う必要はないだろ? 仮にお前が俺を力で制したとしても、俺の考えは変わらない。逆もまた然りだ。」
そう言って、ジンはアイシャのほうへと向き直る。
「そういうわけだ。アイシャ——ここまでだ。」
ジンの言葉に、アイシャは目を見開いた。
「……私は、あんたに居場所を奪われた。」
静かに呟くその声には、怒りと諦めが入り混じっていた。
ジンは首を振り、冷静に答える。
「確かに、そうかもしれないな。でも、俺は君に居場所を与えることもできない。もし復讐を望むなら、相手をする。だが……その機会は何度もあったのに、君はしなかった。」
アイシャの表情が歪む。
「……」
「君は復讐を口にしていたが、その実、ただ居場所を探していただけなんだろう。」
ジンの言葉に、アイシャの肩がわずかに震えた。だが、反論する言葉は出てこなかった。
「悪いが、君の居場所探しに付き合うつもりはない。盗賊ギルドは壊滅し、この国は戦を控えている。君に時間を割く者はいないだろう。」
ジンは静かに言葉を続ける。
「……もう自由だ。」
沈黙が降りた部屋の中で、アイリーンの怒り、アイシャの戸惑い、そしてジンの冷徹な決意が、まるで火花のように交錯していた——。
「それじゃ俺は行くよ」
そういい壁から背を話したジンにアイリーンは
「…一応旅の無事は祈っておいてあげる」
アイリーンが吐き捨てるようにいった言葉にジンは苦笑いを浮かべ
「俺もだ、気をつけて」
そのやり取りを見ていたアイシャは、ただ俯き、拳を握りしめていた。
ジンは一瞬彼女の方へ視線を向けたが、何も言わずに再び歩き出す。
「……それじゃ」
短くそう告げ、扉へ手をかけた、そのとき——。
「……あんた、本当に行くんだ」
アイシャの小さな声が、張り詰めた空気を裂いた。ジンは立ち止まったが、振り返らずに答えた
「ああ」
アイシャは唇を噛みしめ、拳を強く握りしめた。
「……クソ、やっぱり腹立つ……!」
突如として感情をぶつけるように叫ぶと、アイシャは乱暴に椅子を蹴った。その音が沈黙を破り、部屋に響き渡る。アイリーンが薄目を開けて彼女を見やるが、何も言わない。
「……私は、あんたに復讐するつもりでついてきた。なのに……なのに、なんでこんなに……」
アイシャは悔しげに声を震わせ、ジンを睨みつけた。だがその瞳の奥には、復讐の激情よりも迷いの色が濃く滲んでいた。
「……なんで、私はあんたに置いていかれるのがこんなに悔しいんだろうね……」
ジンはしばし沈黙した後、静かに言った。
「……なら、ついてくるか?」
アイシャは目を見開く。
「何言って……」
「復讐が目的じゃなくなったなら、お前が何をしたいのか、それを探せばいい。俺についてきたところで、答えが見つかるかはわからない。でも、このままここで途方に暮れてるよりは、マシなんじゃないか?」
アイシャは呆然とジンを見つめた。その言葉は、あまりに無造作で、あまりに無責任で——けれど、どこまでも自由だった。
「……勝手に言ってろ。私は私で決める」
そう吐き捨てるが、その表情には僅かに迷いが消えていた。アイシャは顔を背け、拳をほどく。
ジンは微かに笑い、そのまま扉を開けた。
「それじゃ」
そう言い残し、ジンは夜明け前の街へと歩み出た。
アイシャは呆然とその背を見送り、アイリーンは小さくため息をついた。
「……本当に、自分勝手な男ね」
そう呟いたが、その顔にはどこか寂しそうな表情が浮かんでいた。




