第1話『記憶のない少女』
夕方、人気のない煉瓦街を、私はあてもなく彷徨っていた。
どこに行きたいのか、どこに行けばいいのか、どこを通ったらどこに出られるかもわからずに、ぐるぐると足の動く限り歩き続ける。
――頬に冷たい煉瓦の感触。それが、私が目覚めて最初に気づいたものだった。
どうやら私は記憶を失っていて、しかもなんらかの理由で倒れていたらしい、と気づいたのはそれから更に15分後のことである。体感だけど。
マジに、記憶がないのだ。
自分の名前も年齢も、出身も嗜好もこの街の名前もわからない。わかったことがあるとすれば、自分が女であるということと、今の下着の色だけだ。これは、服の中を覗くことでわかった。ちょっと薄かったけど確かにあったし、新品だった。
それと、文字もわからなかった。これはあるお店の立て看板を見たのだが、そこに書かれていた文字が全く読めなかったことから明らかになった。
記憶を喪失したからじゃなくて、元々私が識字の出来る人間じゃなかったのかもしれないけど……これにはちょっと困った。
だって、何故だか知らないけれど、街に人が1人も居ないのだ。聞いて調べることが出来ないから、文字を見て情報を集めるしかなかったのに。
――あ、でも、幸いリスニングには問題がないようだった。立て看板と同じお店の前に置かれていた、巨大なぬいぐるみの裏に隠されていたスピーカーの言葉は理解できたのだ。それが不幸中の幸いだった。
「……そういえば」
私は、ぬいぐるみが喋っていたことを思い出す。あのクマの子は確か、
【今日は竜災の日だよ! みんな5時までにおうちに帰ろうね。魔法使いさんから報告があるまでお外に出たらダメだよ。おうち時間が退屈なお友達は、オランジェット商店に来てね。君の退屈をハッピーに変えるアイテムがあるよ!】
なんて、誰も居ない大通りに向かってずっと宣伝していたけれど、
「『竜災』ってなんだろうな……?」
早い時間の帰宅を促しているし、あまり良いイベントではなさそうだ。
そう思いながらも私は、周囲を見回した。白と褐色の煉瓦が織りなす綺麗な街並みが広がっている。詳しい時刻はわからないけど、ちょうど5時くらいだろうか。
手近にあった服屋の中に、今の時刻がわかるものがないか探りつつ、私はショーウィンドウを鏡代わりに自分の姿を見た。
「……ふふ」
思わず気持ちの悪い笑みが溢れる。よだれも出た。
悪くない、というのが、自分の姿を見て最初に思ったことだった。
春の花を思わせる桃色の髪は、肩で切り揃えられ艶やかに靡いている。まんまるの瞳はルビーのように赤く、白い肌によく映えた。ネイビーのワンピースも、ラメ入りのネイルやアイシャドウもよく似合っている。
思わずターンをしてしまった。ずっこけたのは内緒だ。
それにしても、見れば見るほど今日の私は着飾っているみたい。こんなに気合が入っているところを見ると、本来の私はこの街に遊びに来ていたんだろうか。
もしや1人で? それも楽しいだろうし、実際目覚めた私の側に誰も居なかったことからかなり有力な説ではあるけど。
何にせよ、こうして着飾るくらいのイベントがこの街にあった可能性は高い。ショッピングか、ご飯か……待て、お財布がないな。誰かに抜き取られてない?
新たな気づきにちょっと不安になりつつ、私は推理を進めた。
記憶を失う前のことを推理したところで、『どうして記憶を失ったか』だ。
誰かに思いきり殴打されたから、好きな人に振られてショックを受けたか――考えられることはいっぱいある。だから今の私にはわからないけれど、何にしても、誰も助けてくれなかったんだろうか。
ショーウィンドウを見る限り、私は年頃の美少女だ。もう1度言うが美少女だ。絶世のってほどじゃないけど、こんな可憐な少女が街中で倒れていたら、声をかけるか応急処置をするか、してくれても良いんじゃないだろうか。
「――いや」
私は先程のアナウンスを思い返す。もしも私が倒れたのが5時以降だったのなら、助けるとか助けないとかいう以前に周りに人が居なかったのかもしれない。5時よりも前だったら、ただの冷たい世の中で終わるけど。
世の中が善意で満ちていると信じる――信じたい――なら、私が倒れた時刻もある程度予想できそうだ。
そう思っていると、不意に。足元に影が差した。
それは、あまりにも大きな影だった。一帯が刹那にして真っ暗になり、私は一瞬、時間が夜に飛んだのかと錯覚した。錯覚して、空を見上げた私の息が止まった。
そこにあったのは、巨大な竜の姿だった。
悠々と銀の翼をはためかせ、その巨体で街すれすれを滑空していく竜。それが私の側を通り過ぎた後、強風が街をさらっていって、砂埃が一斉に舞い上がった。
周りに人も居ないのに、裏返りそうになるスカートを反射で押さえる私の目に、風と砂粒が容赦なく入ってくる。いった! めっちゃ入った!
心の中で騒いでいるうちに、竜は夕空へと舞い上がっていく。大きな翼を煌めかせながら風を掴み、ぐんぐんと上昇――最終的には、雲の上に消えて見えなくなってしまった。
私は絶句する。
でも、ようやくわかった。
竜災という言葉の意味も、街中に人の姿が見当たらない理由も。
きっと、今この街はさっきの竜に襲われていて、街の人達はみな屋内にこもっているか、ここではないどこかに避難しているのだ。
推理が1歩前進して、ちょっと嬉しくなる。
ただ、そうなると私の身が凄く危うい。先程は竜に完全スルーされたけど、これだけ立派で人が沢山居そうで、反抗期の子供の割合もそこらより多そうな街で、人っ子1人見かけないのだから、竜災とは誰もが恐れる大災害なのだろう。
そんな災害を目前に、外に居続けるのは危険だ。
早く私も逃げなきゃ。――でも、一体どこへ?
そんな問いが、私自身を絶望に突き落とした、その時だった。
《おはよう! いい日暮れどきだね!》
不意にそれは聞こえた。それは、生声でもなくスピーカーの機械音でもなくて、神様からの天啓みたいに頭の中で響いて聞こえた。少年とも少女ともとれる中性的な声で、透き通っていて、人を惹きつける不思議な力に満ちていた。
声は続く。
《早速だけど、こっちに来て! その角を曲がって、奥へずっと進むんだ》
「……!」
《行き過ぎたらダメだよ。その道の奥にはドクネズミの巣窟が……あぁ、今日は居ないか。とにかく、気をつけて。竜に気づかれないように、でも急いで!》
――あぁ、なんて綺麗な声なんだろう。
曇天に差す光のような天啓に、私は導かれるように進んでいく。
後から考えると、この時の私はちょっとおかしかった気がする。でも、今は自分の異常に気づいていなかった。気づけなかった。
この声がなんなのかとか、声の主が信頼に足る人物なのかとか、そんなのはどうでもよかった。澄み渡る空のような美声に、疑問など霧散してしまっていた。
知らない街をすいすいと歩いて、辿り着いたのは袋小路だった。日が暮れて、建物の影が埋め尽くしているそこには、ぽつんと白いドアが置かれていた、
ドアが、単体で置いてあるのだ。そして、淡く光り輝いていた。
《そのドアを開いて、ボク達のところに来て。でも、飛び込んではいけないよ。危険だからね。それと、入る時は合図をして欲しいんだ》
「あ、合図……?」
そこで私は初めて困惑する。このドアはどう見たってどこにも繋がっていない。どうしろというのだろう。合図をしたら不思議の力で繋がるんだろうか。合図ってなんだろう。ノックか、それとも秘密の合言葉みたいなものだろうか。
私が立ち止まっていると、声の主は私の困惑を見透かしたように言った。
《ただ入ることを合図すればいい。そうしたら、ボクと君は出会える。急いで、でも焦らずに来てね。――必ず受け止めるから》
その、小さく呟かれた最後の言葉に、私は気づいていなかった。謎の高揚感が私を支配していて、あまり周りが見えていなかった。
私は勇気を出して、ドアノブに手をかける。ひんやりと冷たい感触がした。
「いっ……行きます!」
私なりの合図をして、ドアを押し開け――重っ。このドアめちゃくちゃ重い! ドアに見せかけた壁なんじゃないかって、一瞬疑ったくらいには重い。数ミリだけ隙間が出来たから、一応開いてるみたいだけど……。
「な……に……くそぉぉぉーーッ!!!」
品のない掛け声と共に、全体重をかけて押し開ける私。すると、隙間から飛び込んできた強い風が私を襲う。その風に押されて、ドアも勢いよく全開になった。
「うわっ!」
先程の竜が起こした風とは比べ物にならないほどの風圧。目も開けていられないほどの風が押し寄せてくる。それでも、構えた両腕を盾代わりに恐る恐る目を開いてみると、そこには信じられない光景が広がっていた。
白くたなびく雲。藤紫が端から染めていく夕空と、海の彼方へ沈んでいく太陽。ちりばめられた白い星々の中、1番星が煌々と輝いていた。
遥か目下に見えるのは、家々と煉瓦の道が作る街並みだ。そして――
「どっ……」
目の前を、銀の竜が通っていった。竜は、羽毛が鼻先に触れるんじゃないかというほど近くで、翼をはためかせた。ごうっと風の塊が私を殴る。私は吹き飛ばされないように、咄嗟にドアの枠組みにしがみついた。が、
「――ぇ」
ドアの方がもたなかったようだった。ドアは、僅かにあった足場ごと消え去った。足場に乗っかっていた私の身体が、真っ逆さまに落ちる。
「でぁぁぁぁぁーーーーッッッ!?!?!?」
立て続けに起こる不可解に、私は何がなんだかわからないまま絶叫。
スカートめちゃくちゃめくれた。いや、それどころじゃない。やばい、死ぬ!
さっと青ざめる私。自分ではよくわからないけど、とんでもないスピードで落ちているように思える。このままでは街に激突するんだろう。運良く海に飛び込んだとしても――いや、この高さからでは海に落ちても死ぬはずだ。
え、私、騙された?
フラッシュバックする天啓。凛としていて、透き通っていて、凄く優しい声だったのに。嘘でしょ。騙されて死ぬとか嫌すぎる……!
そう思っても遅い。もう、私は私をどうすることも出来ない。
このまま、私は私を知らないまま死ぬんだろうか。
悲観的な気持ちになった時、その声は再び聞こえた。今度は天啓じゃなく、ちゃんと耳を通して聞こえた。私が圧倒的なスピードで落ちているにもかかわらず、その声はごうごうと唸りをあげる風を掻き分けて、妙にクリアに聞こえた。
「待ってたよ!」
それと同時、風圧が半減された。内臓が持ち上がる感覚も、風の音もあまり感じなくなって――気づけば、私は誰かに腕を掴まれて、宙ぶらりんになっていた。
聞き覚えのある声に、私は上を向く。
そこには、天使のように綺麗な子供が居た。女の子? いや、男の子だ。雪のように白い髪をボブにして、身の丈よりも大きな箒に跨って浮いている。掴んでいる私の重みのせいか、若干身体が斜めになって不恰好な体勢だったけど。
サファイアをはめこんだような、青の瞳が私を射抜く。
「だっ……誰ですか……!?」
反射的に声が出た。めちゃくちゃひっくり返った声だった。恥ずかしくなるが、仕方がない。誰だって天使に出逢ったら声をひっくり返すだろう。
そう言い聞かせていると、天使は笑った。
「ボクはシエルシータ。空の魔法使いだよ。さぁ、あの竜を倒そう、プリマステラ!」