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カニ王  作者: ねずみ
第一部 自切
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8、サルとの戦い

 

 足跡が不意に途切れた。私は息を止めて、すべての感覚を最大限に研ぎ澄ませた。すべては沈黙のうちにあった。極限まで耳をすますと、地面を這い回るミミズの足音や、木の中で眠るリスのいびき、地面の中で伸びてゆく新芽が軋む音ーそういうものまでもが、聞こえてくるような気がした。

 

 その時、背中に刺すような視線を感じて、私は素早く振り向いた。

 

 猿は背後の高い、ブナの枝の根元に片膝を立てて偉そうに腰掛けていた。しかし毛むくじゃらのその姿は、まるで掃除係が置き忘れた、使い古したモップのようだった。猿がどこを見ているかはわからなかった。

 

 猿の膝の上で、私から奪った王冠が厳粛に輝いていた。猿は王冠のダイヤを削り取ろうと、伸びすぎて丸まった巻き爪で、王冠をゴリゴリやっている最中だった。それは神聖なものへの信じがたい侮辱であった。

 

 私はとうとう、耐え切れなくなって叫んだ。


 「触るな、汚い!」

 

 毛むくじゃらの奥で、小さな眼が光った。私はハッとして目をこすった。その光が一瞬、三つに見えたからだった。いけない。私は自分の考えている以上に、我を失っているのだ。

 

 猿は私の前に落ち着き払って着地した。しかしそれは出会った時に見せた敏捷な動きとは程遠い、ずいぶんのろのろした、精彩を欠いた動きであった。猿は疲れたように顔を上げ、私をもう一度見た。こうして向き合うと、猿の背は私より小さいか、もしくは同じくらいであった。


 しかし猿が丸まった背筋をぐっと伸ばすと、私が見上げる形になった。猿の口元がもごもご動いているのが見えた。それは蟹の口のように、よく見ないとわからないくらい、かすかな動きであった。私はおもわず見入ってしまったー彼が何かを伝えようとしているように思われたのだ。

 

 突然、口の動きが止まった。次の瞬間、真正面から、私の顔に向かって、よだれだらけの蟹の殻が吐き出された。粘ついた蟹の殻が、おでこからほっぺた、そして足元まで滑り落ちた。

 

 猿は満足したのか、こちらにぐるっと背を向けると、森の奥に向かってよたよたと歩き出した。酔っ払いのような千鳥足であった。

 

 もう限界だった。私は助走をつけるとそのしょぼくれた背中に飛び込んだ。小便の刺すような匂いが鼻腔をつき、抱きしめた猿の肌はほんのり暖かだった。猿は必死に身を揺すって私をふるい落とそうとしたが、私はその萎れたキンタマをぎゅっと左手で掴んで離さなかった。

 

 私は相手の地肌をむき出しにするくらいの勢いで、乱暴に毛をむしり取っていった。ぶち、ぶち、っという草むしりのような音が聞こえるたびに、敵は無様な悲鳴をあげた。やがて見えてきた雪のように真っ白な肌に、思わず目をみはった。

 

 猿がバランスを崩して、地面に仰向けに突っ伏した。私はそのまま猿の背中に馬乗りになって、尻と思われる位置に、容赦なく蟹鋏を突き刺した。

 

 驚いた猿は歯をむき出しにして、「アアアッ!」と、情けない声で吠えた。頭上の鳥が驚いて飛び立った。もう一度同じものをお見舞いした。今度は柔らかなプリッとした尻を、えぐるようにやった。赤い血がぶしゃっと飛び散った。

 

 猿は苦しそうに呻き、ぶちぶちと周囲の草をむしり取って悶えた。私はいつの間にか興奮していた。それは危険な興奮だった。猿は私に覆い被さられて、立ち上がる気力すら失っている。汗がぼたぼたと猿の背中にこぼれ落ちた。私は欲望に取り憑かれたー抗いがたい、禁断の欲望に。

 

 私は震える左手で猿の尻の下を弄った。猿の手がヌッと伸びてきて、私の手をしっかと掴んだ。その手を突き刺そうと左手を振り上げると、猿が突然「くそッ」と言った。

 

 私は、耳を疑った。

 

 私の動揺を感じ取った猿が、全身に力を込めて立ち上がった。私の体は勢いよく振り落とされた。

 

 慌てて逃げ出そうとしたが、間に合わなかった。猿は私の首根っこをその分厚い手でぐっと掴むと、木の根元に激しく叩きつけ、首をギリギリ締め始めた。その手は小刻みに震えていた。

 

 私は猿の骨ばった手を掴むと、その指を一本ずつ引き剥がそうとした。だがその手は均等に容赦なく、蛇のように私の首を締め付けゆくばかりであった。

 

 毛の向こうにうごめく猿の片目が見えた。赤い血脈が見え、白目が見えた。それは明らかに、人間の目であった。

 

 かはっ。けほっ。私は濁音のない声で呻いた。そして、「はは…」と笑った。「はっはっは」。目を見開いて、彼に笑いかける。相手を怒らせた時、いつも必ずそうするように。涙がぽろっと一粒、痙攣する頬を流れ落ちていった。私は媚びるように笑い続けた。

 

 すると男は何を思ったか、突然力を緩めてわたしを離すと、両の手で交互に私の顔を殴り続けた。生暖かい血が私の顔を真っ赤に染めて、私の命乞いの涙を、すっかり見えなくさせてしまうまで。

 

 彼は血溜まりの中でへばった私を、しばらく汚物でも見るような目で見下ろしていたが、ふと我に返ったかのように立ち上がると、王冠を夕日の光にちらちら反射させながら、森の奥へと消えていった。


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