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カニ王  作者: ねずみ
第二部 寄生
29/47

11、熊は死んだ


 翌朝早く我々は起き出して、熊笹の周辺をくまなく探し廻った。ホウキの姿がどこにもないことに、私はいち早く気がついた。

 

 その時、一人が獣の糞を手にして叫んだ。一行は瞬く間に、緊張と静かな興奮の渦に包まれた。

 

 私はいよいよだ、と思うと、緊張のあまり、だんだん呼吸が荒くなって、頭がフラフラして、立っているのもやっとになった。目の前がチカチカ点滅して、景色がぐるんぐるん回った。誰かが鼻息荒く何かを話しかけてきたが、「うるさいっ」と言って追い払った。


 私はそのまま近くの木に寄りかかって、呼吸を鎮めようとした。それは暖かな、ふわふわの大木であった。熱を持っていて、触れると少し暖かかった。


 深呼吸をして、やっと目を開けられるようになった時、仲間の狩人たちが私の周りをぐるりと取り囲むようにして、こちらをじっと瞠目していた。彼らの手には槍やナイフが握られており、それらの針のように尖った切っ先は、いっせいに私の背後に向けられていた。

 

 冷えた汗がポタリ、と鼻の頭からこぼれ落ちた。ゆっくり振り返ると、左目のつぶれた熊の瞳が私をじっと見つめているのだった。私は何も考えられなくなった。腰のナイフに手を伸ばすのと、熊が怒りの咆哮を轟かせるのと同時であった。

 

 私は助けてくれ、と悲鳴をあげながら彼らの輪の中へと駆け出した。しかし勇猛果敢な狩人の輪は、私とは逆方向へ、つまり、熊の方へと弾けるように突っ込んでいった。私はとろけるような瞳でその光景を見つめていた。熊と彼らとの戦いが、自分からは遠く離れた、舞台のクライマックスシーンのように思えてきた。

 

 彼らは吠えながら熊に槍を突き刺したり、弓で最後の瞳を狙ったりした。熊は血を流しながら悶えくるしんだ。熊は戦う前からひどく弱り切っていた。狩人たちが圧倒的に優勢であった。

 

 その時、熊が牙をむいて食いかかった。その勢いに、狩人たちは一瞬ひるんだ。その隙をついて、熊はこちらに向かって駆け出してきた。慌ててでんぐり返しで避けると、熊は木をなぎ倒し、笹を掻き分けながら、海の方へと姿を消した。

 

 私は覚悟を決めると、落ちていた槍を握りしめ、熊の後を追いかけた。


                     *


 砂浜に出て、あたりを見渡した。しかし姿はどこにもなかった。どんどん細くなって行く砂の道をまっすぐ進んで行くと、突然藪の中から、「こっちよ。アラン、こっち」と呼ぶ声がした。

 

 足を踏み入れて、ぎょっとした。息も絶え絶えの熊が、苦しげに体を横たえていた。瞳からは赤い涙が流れ、かすれるような呼吸が響いた。ホウキは熊の頭を抱えて、震えているところであった。

 

 ホウキはその泣きはらした小さな目で、私を乞うように見上げると、言った。


「あたし、やっぱり、ダメだと思うの」


 しゃくりあげるホウキは、小さな幼稚園児のようだった。「簡単に、彼を殺すべきでないのよ。だって、彼が何をしたというの。」

 

 ホウキの瞳から涙の玉があふれ出した。


「だけど、ホウキ」


「お願いアラン。ここにいることを誰にも言わないで。私はここで、看病をしなくちゃいけないわ」


「だけどー」私はカーペットのように平べったくなった熊を見た。体からどくどくと流れ出す黒い血液を見た。悲しげに揺れる瞳を見た。


 森の方向から、騒めく狩人たちの声が聞こえてきた。私はそっと藪から飛び出し、彼らのところへ駆けて行って、熊は反対側へ行った、と身振り手振りで示して見せた。


                       *


 それからホウキはつきっきりで熊の看病をした。私はなるべく熊には近づかないようにして、木の実を拾ったり、水を汲んできたりした。うさぎや鳥は一匹もとれなかった。 

 

 日が沈み、黄金色の光が足元や葉っぱを染めて行く頃になっても、ホウキは変わらず熊の顔を抱いていた。

 

 熊は夜のうちに峠を越したようだった。

 

 明け方、うつらうつらしていると、ホウキが私の横に、崩れ落ちるように座り込んだ。遠くに、震える水平線が見えた。


「ホウキ。お腹が空いたよ」私はかすれ声で頼み込んだ。「明るくなる前に、トビウオをとってきてくれないか」


「兄さんは…」ホウキは私などいないかのように、ひとりごちた。「心配しているかしら」


「さあ」


「兄さんは、追いかけてきた?」


「来ないよ。ねえ、それよりもう直ぐ日が昇ってしまうよ。その前に魚を…」


 ホウキの顔は、すっかり惚けた老人のようであった。私は何にも言えなくなった。それで、「私が何かとってこよう」と立ち上がった。


「彼はもう長く持たないわ」


 私はじっとホウキを見下ろした。そんなホウキをこれ以上見たくはなかった。


「そんなら尚更、最後の晩餐に、魚を食したいだろうね」


 そこでホウキはようやく、目の前の私に焦点を合わせた。


「もう、獲れないの」


「なんだって?」


「近ごろ、暗闇の中で魚が見えないの。きっと、色をみすぎたせいね…」


「それって、つまり」私はつっかえつっかえに言った。「君は、追放ということか」


「あるいは、そうなるかもしれないわ」


 私はぐわんと脳天を殴られたような気持ちがした。私のせいで、ホウキは役割を失おうとしているのだ。何も言えないでいるうちに、ホウキは踵を返し、藪の中へと戻っていった。



                      *

  

 私は動揺を抑えながら、森の中へと突っ込んだ。あたりに生える、金色の実を毟りとって口に放り込んでいった。しかし、空腹感はより高まり、苛立ちは募る一方であった。

 

 藪の中へ戻って行くと、熊の耳を撫でていたホウキが、私の足音の大きいのを口に指を当てて注意した。私はうなだれて、ごめんと謝った。


「アラン、口の周りにベリーがついてるわ」


 私はしかし拭おうともしなかった。


「自分だけ食べられれば満足なのね」


 ホウキは長いため息を吐いた。まるで子育てに疲れ果てた若い母親というような調子で。


 そこでホウキは黙り込んだ。私が泣いているのに気付いたのだ。


「アラン…」ホウキは私の手を握った。「ごめんなさい、つい」


「いいんだ、いいんだ、すべて、私が悪いんだから」


 我々は沈黙のうちに沈んだ。


「見て、アラン」


 熊は今にも息絶えようとしていた。私たちは沈黙のうちに寄り添い、手を取り合って、熊の最期を見つめた。


 熊は目を開けたまま、戦っていた。私たちは互いの手をぎゅっと握り合った。我々は人知を超えた神聖な死を目前にして、今再び寄り添い合っていた。そこには想像を絶する、命の脈動があった。熊は勝てぬとわかっていても抵抗を止めなかった。一秒でも長く、生きようと必死でいる…我々だって熊と同じ生命を持っている。我々の心臓は、我々を生かすためにただ無心に動き続けているというのに、肝心の我々がこの地上でなすことといえば、あまりにロクでもないことばかりで、心臓のなすことほど立派なことを、我々人類は永遠に行えようはずもないという気がした。

 

 やがて熊は、長い、生暖かいため息のようなものをゆっくり吐いて、息絶えた。

 

 私たちは息もできずにじっとしていた。


「魚を取ってあげられたらよかった」ホウキはポツンとつぶやいた。


 その時、遠くの森の方から響いてくる、遠吠えのように呼び合う、狩人たちの声を聞いた。それは行方不明のものに向けて大勢の狩人たちが語りかける、おきまりの呼び声だった。


        


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