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カニ王  作者: ねずみ
第二部 寄生
21/47

3、イチ、ニー、サン、シー、ゴー、ホラ


 それからあっという間に三日が過ぎた。ホウキは戻ってこなかった。ホウキの持ってきた果物は食べきれずに腐ってしまった。

 

 聞き逃したことが山ほどあった。なぜ国の言葉を知っているのか?どこに住んでいて、何人くらいで暮らしているのか?…

 

 何より私はまたあの熱い演技を見せて欲しいと思った。その思いは日をおうごとに強くなっていった。気になって、他には何にも手がつかなかった。

 

 その生活はひどく気疲れするものだったし、続けることも無駄なように思われた。そんなある日の夕方、ホウキの立ち去った方向の森の中をブラブラ歩いている時、私はふと、木の枝に引っかかった、白い服の切れ端を発見した。それはホウキの脱ぎ捨てた、あの純白のドレスのものに違いなかった。

 

 私は興奮を抑えながら、そっとあたりの地面を見渡した。

 そこから二、三歩歩いたところに、白く輝く糸くずが落ちていた。それは蜘蛛の巣の糸と見紛うほどに細い、輝くような糸だった。私の胸は高鳴った。

 

 数歩先でも、同じようなものが見つかった。それは点々と森の奥まで続く、糸くずの道であった。それは私に、はるかな巡礼の道を思わせた。


                      *


 とうとう私は、この住み慣れた洞窟を捨て、島の裏へと旅立つことに決めた。

 

 だが何日かかるかもわからない。私はそれから三日かけてカニの服を直し、食べ物を拾い集めた。そうしてホウキと出会ってからちょうど一週間目の朝、私は蟹の冠をかぶり、洗った布切れを腰に巻きつけて、住み慣れた洞窟を旅立った。後を引かれるような思いに、何度も後ろを振り向いた。

 

 糸くずを辿りながら、森の奥を進んでいった。糸くずは泥の中に沈んだり、獣の糞にまみれたりしていた。その度手を汚して、必死に探し出さねばならなかった。

 

 三日三晩歩き続けただろうか。湿ったジャングルを突っ切り、小川を渡り、草原を超えた。ホウキの持ってきた果物のおかげで、体力はなんとか持ちこたえた。だが何よりも私を突き動かす原動力となったのは、自分を尊敬し、存在を認めてくれるホウキにまた会いたいという、強い思いだった。その思いは、海賊や獣への恐怖をはるかに上回っていた。

 

 しかし三日目の夕方に、私はもう糸くずをもう頼りにできなくなってしまったことを知った。

 

 ある大樹の幹に、泥にまみれ、形の崩れたあのドレスが、打ち捨てられていた。

 

 私はすっかり途方に暮れて、大樹の根元に力なく座り込んだ。どっと疲れが襲ってきた。私ははためくドレスと、輝き始めた星を力なく見上げた。そのまま少し休もうと目を閉じて、しばらくすると、ぽんぽん、と肩を叩かかれた。必死に目をこじ開けようとしたが、まぶたは鉛のように重く、いくら頑張っても、開けることができなかった。


                         *


 目をさますと、私は丸太作りのベッドの上に横たわっていた。

 

 あたりにはハーブを炙ったような匂いが充満していた。そこは狭い小屋の中であった。


 異国のガラスや折れ曲がった辞書、アリンコのような文字が書き込まれたパピルス紙、頭の吹き飛んだテディベア、古代の世界地図、藤壺だらけの船の破片、黄ばんだ貴族のドレス、そういった、漂着したと思われるガラクタ類が、所狭しと飾られてある。中にはあの白い王子の衣装もあった。よく見るとそれは、ところどころが黄ばんで破れ、薄汚れていた。難破した異国船から流れ着いてきた、貴族のお古にちがいない。

 

 不意に遠く、海の方から、聞き覚えのない不思議な音が聞こえてきた。それは波のうねりとも、鳥のざわめきとも違う、無数の魚たちが激しく暴れるような音だった。

 

 外に出ようとして驚いた。私がいるのは、木の上にこしらえられた、小さな丸太小屋なのであった。生い茂った青い葉っぱが頭上で密生している。地上何メートルであろうか…眼下では、木々がざわざわと海風に揺れている。下に伝うためのハシゴも何もない。あやうく風にバランスを崩しそうになって、慌てて小屋の中にすっこんだ。

 

 沖の方で、何か黒い、シミのような影が波の合間を漂っているのが見えた。よく見ると、それは一層のカヌーであった。乗っているホウキの顔が、真っ赤なかがり火に、ぼうっと浮かび上がった。銛を抱えたホウキは、じっと海を覗き込んでいる。


「何をしている?…」


 あっ。

 私はぞくりとした。


 ホウキが暗い海の中に、音も立てずに飛び込んだ。それは飛び込むというよりは、降りていった、という方が近かった。


 ホウキはしばらく戻ってこなかったー1分、3分、5分…どれくらいの時間が経ったであろうか。私は瞬きもせずに見つめていた。何年もの時間が過ぎてゆくように思われた。

 

 カヌーの舳先のあたりで、夜光虫の燐光がざわめいた。輝く水面を盛り上げるようにして、ホウキの頭がヌッと現れた。

 

 ホウキはカヌーに乗ると、腰から下げた魚籠を逆さまにして、大量の魚をカヌーの上にばらまいた。それは銀の鱗を輝かす、無数のトビウオであった。ホウキはトビウオの頭を、きらめく金槌のようなもので淡々と殴り殺してゆく。ホウキはまたすぐに海の中へと姿を消した。

 

 私はしばし、その一連の作業に見惚れていた。なんと神秘的で、なんと純真であることか。あの野蛮人は闇の中で、天使のように輝いている。この美しい、密やかな景色を、どういうおつもりで神は、私なんぞに見せなさるのか。その深遠な感動が、私を膝まづかせた。

 

 やがてカヌーはゆっくりと浜辺に漂着した。ホウキは肩から下げた魚籠をガチャガチャ揺らしながら、器用に小屋の上までつたい登ってきた。

 

 ホウキは髪の毛から海水をぼとぼと滴らせながら、輝く目で私を見つめた。なんだか急にこっぱずかしい気持ちになって、お前に会いに来たのだ、と素直に言うことができなかった。

 

 するとホウキは手のひらを出して、あのお得意の、「イチ、ニー、サン、シー、ゴー、ホラ。」をやって見せた。わからない、と首を横に振ってみせると、ホウキは私の左手を引っ張り出して、「イチニーサンシーゴ、ホラ」と早口で言い、私の手のひらの真ん中に、ペッと唾を吐き出した。私は慌てて手を引っ込め、何をする。と叫んだ。


「トモダチ、サイン。」


  そうしてホウキは、再び自分の手のひらを差し出して、ニコニコ嬉しそうに微笑みかけてくるのであった。だがホウキの手に唾を吐くだなんていう意地汚い行為は、冒涜のように思われて、できなかった。


                     *


 ホウキはそれから私にトビウオの刺身と小川の水とを振舞った。それは久方ぶりのまともな食事であった。

 

 だがホウキが犬のような態度で食べ物にありつく姿よりも、私を驚かせ、感嘆させるものは他になかった。大股を広げて魚の身をほじくり、手づかみで貪り、ぼとぼとまき散らすのも気にせぬと言うその姿は、どんな文明にも決して侵されぬことなく守り続けてきた、ひたむきな純朴を思わせた。私が物心つく前から当然のように守り続けてきたテーブルマナーというものや、なんびとも国王陛下より先に皿に手を伸ばしてはならぬと言うあの我が物顔の気取ったルールの薄っぺらさを、今なら笑い飛ばすこともできように…


「アラン、クワナイ?」


  そう言ってホウキは、ぼんやりしていた私の刺身をむんずと掴むと食べてしまった。私はあっ…と思ったが、声には出さなかった。


「ホウキ」私は腹のなる音をごまかそうとして大きな声で尋ねた。「お前は暗闇で、魚が見えるのか?」


  ホウキは片言の言葉で、自分は色盲の一族で、色を見ることはできないが、その分だけ光を感知する能力が強いのだというようなことを言った。つまり、昼の光はホウキにとっては眩しすぎ、お面をつけていなくてはならない。しかしその代わり闇の中で、きらめく魚を見つけることができるのだという。

 

 家族はいるのか、と尋ねると、ホウキは遠く聳え立つ、崖の向こうを指差した。

 

 灯篭のような光がいくつも見えた。目を凝らしてよく見ると、光のひとつひとつは、藁で出来た小屋だった。ここから見えるだけでも、30軒ほどの家があった。私は人家の明かりという、懐かしいものに、どうしようもなく心がうち震えるのを感じた。


  アランもついてこい、というようなことをいった。私が躊躇する様子を見せると、ホウキは安心しろ、婆様も、兄様も、皆、アランにお礼を言いたいのだ、といったので、私は信じてついて行くことにした。


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