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カニ王  作者: ねずみ
第一部 自切
13/47

12、草原の海で


 飛んできたわかめの冷たさに、ビクッとして跳ね起きた。


 それは素晴らしい昼時であった。海は燦々と輝き、寄せては返す波は穏やかに揺れていた。すべてのゴミを、嵐が取っ払ってしまったようだった。空気はつめたく透明で、気道を涼しげに通りすぎていった。

 

 森の中では、焼け付くされた葉っぱや、虫や、木の幹やその他もろもろの匂い全てが、炭素の息詰まるような匂いになって、あたりを漂っていた。ザラザラした灰は砂のようになって、踏みつけるたびに埃のように舞い上がるので、ゆっくり進まねばならなかった。 

 

 しばらく行くと、焼け焦げた森の真ん中に、小さな湖が現れた。涼やかな空気が、煤だらけの肺を洗うようだった。葉っぱの燃えかすが透き通った水面に浮かんで、花びらのように揺れていた。鰻のような長い魚が、鱗をきらめかせながら、貴婦人のように優雅に通り過ぎていく。顔をつけるとひんやりして、気持ちが良かった。


 ふと顔を上げると、湖の真ん中に浮かぶ離れ小島の上で、小さな赤い猿が惜しげもなく大股を開いた淫らな格好で、のんびりと毛づくろいをしているのが見えた。 

 

 瞬間、私の心臓は、止まりそうになった。

 

 猿の頭には、光り輝く王冠があったのだ!

 

 猿は私に気がつくと、弾かれるように飛び上がり、耳障りな警戒の悲鳴をあげながら、湖の奥へと駆け出した。

 

 慌ててあとを追いかける。だが猿はあっという間に木立の中に姿を消してしまった。


 私はすっかり迷子になってしまったようだった。しかしその場所には、燃えずに済んだ太い木々に遮られて、あの聞き慣れた波の音が、少しも届いてこなかった。だがその静けさは、幾分か私の気持ちを楽にした。私は男を沈めたあの海から一歩でも遠くへ遠ざかりたいと、いつの間にか強く願っていた自分に気がついた。

 

 あてもなく進んでいるうちに、突然視界が開けた。


 そこは果てしなく広がる巨大な草原であった。吹きすぎる風に、幾万本の雑草が揺れ、白い綿毛が雪のように舞い上がる。草に隠れた猿の居場所を、王冠の輝きが教えてくれる。


 私は勢いをつけて駆け出した。気がついた猿が、ものすごい速さで逃げてゆく。草の先が足にチクチク触れる。隠れていたバッタが驚いて跳ね上がる。昼寝をしていた野うさぎが飛び出す。とうとう、何もない場所でけつまづいて転んだ。


 私はそのまま仰向けになって、青空を見つめた。真昼の月が、東の方角に浮かんでいる。不意に、人の声を聞いたような気がして、がばと起き上がった。


 私は奥へと進んで行った。しかし草原の真ん中まできたあたりで、それ以上、前に進むことができなくなった。ぐるりと何かを取り囲むように、背の高い頑丈な木の杭が、張り巡らされていたからだ。

 

 それは私の背丈の二倍ほどの高さの杭で、その一本一本が頑丈な太い木材だった。深く土の奥まで埋め込まれ、その上には錆び付いた鉄線が張られてある。

 

 私はしばらくうっとりと、その鉄線を見つめていた。それがたとえ攻撃的なものであっても、少なくともそれは私が久方ぶりに目撃した人工物であり、それは私に人間社会への郷愁を思い起こさせるのに十分であった。

 

 すっかり恐怖は消えさって、ただ先立つ好奇心だけが幅を利かせ始めていた。私は朽ちて斜めに傾いている杭を見つけると、それによじ登り、ハサミで鉄線をちょん切ると、なだれ込むようにして敷地内に飛び降りた。顔を上げて、息を飲んだ。

 

 そこには三本マストの朽ち果てたスクーナー船の半分が、船首を空に向けた状態で、突き刺さっていたのである。


                       *



 側面には蔦や苔が猛然と生い茂り、半壊した見張り台の上には鳥がいくつもの巣をこしらえている。取り払われたマストの帆桁にはラム酒の空き瓶が一定の間隔を置いて吊るされており、そのすべてに濁った雨水がたまっていた。風が吹くたび、錆びついた舵が独りでに、きいきい音を立てて回転した。

 

 船の隣には小さな農園のような一角があって、枯れ果てた植物が軒並み斜めになぎ倒されており、腐った実が地面に落ちて、そのほとんどが土に還りかけていた。

 

 私はしばらく呆然と、この巨大なオブジェを見上げていた。不意に船の中から、不気味な歌声が聞こえてきて、ハッと身をすくめた。


 それは呑気な、酔っ払いのようにかすれた声であった。私は足音を立てないように、やわらかな草を踏みしめながら、ゆっくりと一歩ずつ近づいていった。

 

 近づくほどに、その大きさに圧倒された。すぐ頭上の大砲の穴に、黄色いヒナギクが咲き誇っているのが見えた。

 

 私は声の漏れ出す船室の丸い窓をそっと覗きこんだ。風雨にさらされ続けて汚れた窓からは、中の様子をうかがい知ることはできなかった。私は耳をすませた。


おい、そこのお客様。

これは最後の警告だ。

そのきたねえ足の裏で、

これ以上踏み込もうってんなら、

俺はおめえを生きたまま、

食っちまうかもしんねえぞ。


 私は驚いてちぢみあがった。逃げ出そうと思っても、体は石のように凍りついて、その場から動くことができないのだった。

 

 だが聞いているうちに、その声がおかしな響きを含んでいることに気がついた。ひどく桁外れで、変なところで、突然大きくなったり小さくなったりするのだった。


 私はそれを3回ほど聞いたところで、声の主が人間ではないと、ようやく確信するに至った。勇気を振り絞って立ち上がり、その錆び付いた、分厚い扉を思い切り前にひいて、中へ入った。


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