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カニ王  作者: ねずみ
第一部 自切
12/47

11、サルとの戦い、再び



 夜更け過ぎに、洞窟の中で目が覚めた。外で、何か濡れたものが這いずり回る音がしていた。私は息を潜めて、耳をすませた。それは同じ場所を、何度も行ったり来たりしていた。

 

 私は甲羅を背負い、木刀を持って、そっと外へ出た。

 

 風は相変わらずごうごう音を立てて唸っていた。何か黒いヌラヌラ光る塊が、岩の周辺を這いずり回っている。私は木刀を握る手に力を込めて、そっと近づいていった。

 

 不気味な音を立てながら、その黒い丸い影は、蟹の死体を食い漁っていた。私は折れそうなほどに強く、木刀を握りしめた。

 

 雷が光って、その正体を照らし出した。私はゴクリと息を飲んだ。

 

 それは巨大な黒いタコだった。

 

 私は戦慄した。まさか。

 

 あの猿ではなかったのか?

 

 まさか、冤罪だったのかー

 

 その時だった。背後に立つ人影が見えた。私はゴクリと息を飲んだ。相手が暗闇の中で、私の位置をしっかり捉えていることが感じられた。冷たい嫌な汗が、脇の下からゾワッと滲んだ。

 

 一瞬の雷光が、猿男の顔を照らし出した。焦げて縮れた毛が張り付いて、焼けてただれた皮膚がむき出しになっている。怒りに濁った青い瞳だけが、爛々と輝いていた。

 

 私は全速力で駆け出した。向かい風を切って砂浜を走り抜け、海に向かって飛び込んだ。

 

 男は水中で私を捉えると、むき出しの腕や足首に噛み付いた。私は必死で抵抗した。打ち付ける波が次から次へと顔を打ち、呼吸がままならない。

 

 すぐに足がつかなくなった。私は浮上しようともがいたが、しっかり抱きついた猿男が重しになって、暴れれば暴れるほど、体は深く沈んで行く。男は岩に引っ付いたフジツボのようにぴったりくっついて離れそうにもなかった。

 

 私は蟹鋏を盲滅法に振り回し、男の体に差し込んだ。柔らかい肉に当たって、私を捉えていた凄まじい力が緩んだ。私はその一瞬のうちに男を死に物狂いで引き剝がし、海面へと四肢を精一杯動かして浮上した。

 

 海面からやっとの思いで顔を出すと、押し寄せる波の合間で、必死に酸素を吸い込んだ。塩水を幾度も飲み込みながら、歯医者に向かってやるように、口を精一杯に開き続けた。新鮮な空気が少しずつ肺を満たして行く。それは私にほんのすこしだけ落ち着きを取り戻させた。

 

 私は甲羅を脱ぐと、それを浮き輪の代わりにして捕まり、陸地を探すため周囲を見渡した。

 

 だが視界をふさぐほどの大波が、私の体を弄ぶように、何度も何度も波の間に叩きつける。まるで千人の乳母たちに同時にひっぱたかれているかのような感覚であった。私は必死に甲羅にしがみいた。

 

 ようやく西に輝く光を認めた。それはまだ延焼し続けている森の炎であった。私は波を蹴り飛ばすようにして、力を振り絞ってバタ足で進んだ。

 

 その時突然、下から伸びてきた手に、甲羅を強く引っ張られた。私は悲鳴ごと水中に飲み込まれた。

 

 私は彼が甲羅を奪おうとしているのではなく、甲羅に乗ろうとしているのだとわかった。だが大人二人を乗せる余裕はない。

 

 私は甲羅を掴みながら、男の体の方向に向かって、縦泳ぎの要領で、両足を交互に蹴り出した。私の攻撃はぶつかったり外れたりした。だが男も甲羅を離すまいと必死であった。私たちは波に飲まれながら、ラグビー選手がボールを奪い合うが如く、汚い甲羅を狂ったように取り合った。

 

 だが既に半分沈んでいる彼よりも、より上部に浮かんでいる私の方が優勢であった。蹴りがヒットするごとに、猿男の体が弱々しく離れてゆくのがわかった。私は大量の海水を飲み込み、吐き出しながら、夢中で男を蹴り続けた。私はさながら回転する船のモーターのように、とめどなく足を回し続けた。つま先やかかとが、海水をぐるぐる巻き込みながら、男のやわらかな肉に食い込み、めり込んだ。

 

 やがて甲羅をつかむ男の手からふわりと力が抜けた。男の充血した青い瞳が私を捉えた。私はそこに、救いを求める光を見た。私はその時、胸の裂けるような後悔をした。

 

 男はそのまま、音もなく静かに沈んでいった。彼の影はゆらゆらとクラゲのように揺れて、やがて深い海の中へと吸い込まれて消えた。最後の気泡が弾けて消滅したあともしばらく、私は惚けたように海の上に留まっていた。

 

 私は湧き上がる複雑な思いを振り払うように陸を目指した。何度も後ろを振り返ったが、そこにはただ無慈悲に荒れ狂う波があるだけであった。

 

 陸に近づくと、潮の流れは私の体を背中から乱暴に押しやった。私の体はものの十分も経たぬうちに砂浜に打ち上げられた。

 

 風が、砂浜に残された男の足跡を消していった。森の向こうに夜明けの光が見えた。私は砂の上に崩れ落ちると、泣くことも、喜ぶこともなく、その場で死んだように眠りに落ちた。



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