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キアンパーキアンライ――苦難幸福をともに

 ワット・アルンは、大小合わせて五つの仏堂からなる寺院です。アユタヤ王朝時代よりも前に作られたとされているものの、創建についての記録は未だ見つかっていません。ヒンドゥ教の聖地カイサーラ山をイメージして作られ、塔のあちこちに聖霊を模した仏像が飾られているので、どうぞ皆さん、色々な聖霊を探してみてくださいねー。


 チャオプラヤー川を間に挟んだ対岸からその建造物を眺めていると、頭の中で勝手にツアーガイド用の文句が再生されていく。ついこの間も、横井たちを引き連れて同じ言葉を口にしていた。

 ナガラピロム公園は、チャオプラヤー川沿いにある公園だ。今の明里のようにこの公園のベンチに座ると、川向こうのワット・アルンが正面に見える。

空を縦に割くように聳え立つワット・アルンと、そこに向かう観光客を乗せた小船が行き交うチャオプラヤー川。バンコクを象徴するようなこの景色が好きで、明里は時々ふらりとこの場所まで来ていた。

 いつもは三脚をセットしてワット・アルンを撮ろうとする観光客や、階段に等間隔で座りこむタイ人カップルがいるくらいの静かな場所だ。だけど今日はいつもと様子がちがっていて、来る日をまちがったなと苦笑する。


「ローロー!(待ってよー!)」

 十三、四歳くらいのタイ人の子たちが、はしゃぎながら手に持っている大きな水鉄砲で水をかけあう。ベンチに腰掛ける明里のところまで、彼らのかける水の余波は飛んだ。明里は微苦笑して、濡れた前髪を横に流した。

 ソンクラーンが始まった。この期間中は明里たちの店があるビルも閉まるから、こうして休みが取れている。仕事柄めったに連休なんて取れないから、彼らみたいにもっとウキウキしたっていいはずだ。それなのに、ベンチに座ったままはしゃぐ若者たちの様子をぼんやりと見ている自分は、まるで定年を迎えたばかりのサラリーマンのようだ。


 ふぅとひとつ息を吐いて、首から提げた防水ポーチからスマホを取り出す。どこで水をかけられるかわからないこの期間は、この防水ポーチが必需品だった。みんなこれを首から提げて、スマホと数枚の紙幣を入れている。

 スマホを取り出して、通話ボタンをタップする。プルルルル、と日本式の通話音が聞こえて、懐かしさにふっと表情が和らいだ。

 甲高い笛の音が聞こえて視線だけ向けると、目の前の船着場に観光客を詰め込んだ船が止まるところだった。船の中に席はあるけど立っている人も大勢いて、特に出入り口近くは満員電車のようだ。オレンジ色の旗を掲げたその船から、エスニック柄のワンピースを着た欧米人や中国人が続々と出てくる。

 この連休で、どのくらい人がバンコクに来てるだろう。連休明けには発表されるだろう渡タイ人数をおもって、ああ私はやっぱりこの仕事が好きだな、と実感する。

 だけど次の瞬間、ふぅと呼吸をひとつ胸でして、せりあがった高揚感が抑えられる。

 好きという気もちがいつも、こんなふうに明確ならいいのに。


『もしもし』

 呼び出し音が途切れて、声が聞こえた。明里は足を組んで意識をスマホに戻した。久しぶりに聞く母親の声に、おもわず頬が緩む。

「もしもし」

『どうしたの。元気にしてる?』

 うん、と答えて、脇に置いたペットボトルの水を口に含む。

「あのさ」

 迷いながら口にすれば、軽い相槌を打たれる。その声に怖じたわけでもないのに、どう切り出していいのかわからなくなる。

「本田奏に会ったよ」

 結果、なんの前置きもできずにいきなり直球をぶつけてしまった。スマホをぴったりと耳に押し付けて、母親の反応をうかがう。

『……そう』

 一拍置いた後、母親は言った。明里は薄く開いた唇から息を吐く。

「驚かないの」

『驚いてるわよ』

 平常時と全く変わらない声音で返される。自分が食らった衝撃の半分も受けてないような泰然とした言い方に、おもわず非難がましい声が出る。

「私にふさわしくなるまで会わせないとかさ、そんなの勝手に言わないでよ」

 思い返せばずいぶん恥ずかしいことだ。自分が知らない間に母親と奏がそんなやり取りをしていたなんて。電話の向こうで、母親の笑い声がわずかなノイズと混ざって聞こえる。

『それで、どうだったの? 本田君は』

 明里は目を伏せて、自分の手元に視線を置いた。

「……好きなんだって、私のこと」

 なんだこの告白。言ってすぐ後悔した。小学生じゃあるまいし、誰が自分を好きだとか、そんなことわざわざ報告する歳でもないのに。

『それは知ってるわよ』

 けれど母親は動じた様子もなくサラリと返した。だからだろうか、心の奥がぐらりと揺さぶられた気がした。

「そんなの、信じられないよ」

 おもったより大きな声が出た。おもわず辺りを窺うけど、追いかけっこをしながら水鉄砲合戦に夢中になっている少女たちは気づいた様子もなかった。

 ほっとして足を組み変える。ペットボトルの水をもう一口飲んだ。

十二年前自分を虐めてきた相手が、今度は好きだという。そんなことが本当にあるんだろうか。時間が経てば経つほどに、わからなくなる。

 信じられない。


「本田奏なんて嫌いだよ」

 あれから奏はなにも言ってこない。あの夜のことなんてなかったことみたいに、なにも。

奏が近々日本に帰るらしいということは、今や社員全員の知るところとなっていた。

 本当に自分勝手だ。十二年前一方的に明里を傷つけて、言いたいことだけ言って、そして明里の前からいなくなるなんて。

 最低な男。

『……昔ね、ひとに言ったことがあるの』

 明里の吐露を黙って聞いていた母親は、ふいに話し始めた。明里は知らず垂れていた頭をのろのろと持ち上げる。

『あんたは辛かった分、これからはずっと幸せだって』

 奏から聞いた、母の言葉を思い出す。あの時、ずいぶん心配をかけてたんだ。今さら実感して、心の奥が熱くなる。

『だけどね、最近思うの。苦難こそがひとを成長させるんだなって』

 わずかに微苦笑する気配。その笑い声にああお母さんだな、と懐かしさを感じる。

『そりゃ幸せになってほしいわよ、娘なんだから。でもね、悩んで迷って、傷ついたりしながら得た物って、幸も不幸も超えて、とても大事なものだとおもうのよ』

 母親の柔らかな声音が、自分にとって大切なことを教えようとしてるのがわかる。

わかるから、目をそらした。

「なに言ってるのか、わかんないよ」

 娘の憂鬱そうな声と対照的に、母親は明るい口調で言った。

『まぁだから、大いに悩みなさいってこと』

 そんな投げやりとも取れる言葉でまとめられた後、

『あとねぇ。昔に比べれば、いい男になったと思うわよ、彼』

 さりげなくそう言われ、言葉を失う。

「――あいつが何したか、忘れてるの?」

 おもわずそう言っていた。どんなつもりで聞いてるのか、自分でもよくわからない。いい加減、昔のことをずるずる引きずることに一番嫌気が差しているのは、たぶん明里自身なのに。

『もちろん忘れてないわ。そんなことできるはずない』

 穏やかな声が答える。十二年前、泣いている明里を慰めたときと同じ声。その声を聞いて、明里の胸はまた、柔く苦しくなる。

『本田君を許すかどうかは、明里だけが決められることよ。お母さんは、お母さんから見た一つの成長の感想を言っただけ』

 母親の言葉が、耳を通って体のなかに流れ込む。息を吐いたら、熱量のある震えたものになった。


 それから、ゴールデンウィークにはそっちに遊びに行くとか、ちゃんと栄養あるもの食べなさいよとか話をして、電話を切った。通話によって熱を持ったスマホをぼんやりと見る。

 こまった。それが正直な感想だった。

 本田奏なんて、絶対にやめとけ。近寄るな。そう言ってくれればよかったのに。そうすれば、蓋をしてもゆるゆると隙間から零れてくるこの不可思議な熱を、抑えることができたかもしれないのに。

 ママが反対するから、やめるなんて。

 考えてることの幼さに自嘲する。

中学生のときから本当に変わってないのは、自分の方なのかもしれない。

 はぁ、と息を吐く。

「まいったなぁ……」

 そう呟いたとき、

 びしゃっ。

 ふいに真横から衝撃が来た。

 え? と気づいたときには右半分の顔と頭が濡れていて、驚いて振り返る。

「やっぱり明里だ」

 こちらを向いてる、マシンガンのような形の蛍光イエローの水鉄砲。それを抱えているのはスーだった。スーの濡れた髪がぺたりと顔に貼りついて、白いTシャツと短パンはずぶ濡れだ。シャツの中に着ているらしいオレンジ色の水着が透けて見える。

「なにしてんの」

 驚いた。スーがいることに対してじゃない。

「なにって、デートだよ」

 スーの隣に立つカーヴィンがそう言って笑った。スーのように、大きな水鉄砲を両手に持っている。ポカンと口を開けている明里を見て、二人は顔を見合わせてクスクスと笑い合う。

「ちょっと、ちょっと」

 明里はおもわずスーの腕を引いてベンチに引き込んだ。カーヴィンの顔を見ながら、スーに向かってひそひそと尋ねる。

「日本人と結婚する野望はどうしたのよ」 

 スーは、ああそれ? と事も無げに返す。

「もうやめたの。一番大事なことは両親(ポーメー)に楽させることじゃない。私が幸せになることだって気づいたからね」

 スーの歯列矯正が覗く笑顔が、やけに眩しく見えた。

 しあわせ、と頭の中でくり返す。

 そもそも幸せってなんだろう。そんな根源的な質問さえ出てきそうになる。

 っていうか、私は幸せだったのだ。

 この国で暮らして、仕事は楽しくて、一人でなんでもこなしていて。

 本田奏が来るまで、私はたしかに幸せだったのに。

「……よかったねぇ」

 なんだか拗ねたような言い方になって、ベンチにもたれかかる。二人がおや、というように顔を見合わせるのが視界の端に映った。

「明里は? 本田さんはどうしたの」

 奏の名前を聞いて、心が卵の殻みたいに固くなる。

「知らない」

 口にした声は予想よりはるかに冷たくて、却って余計なことを詮索されそうだ。ごまかすようにスーから水鉄砲を奪うと、目の前に立つカーヴィンに水をプシュプシュと浴びせた。

 カーヴィンは笑いながら逃げる。自分も水鉄砲を持ってるのに応戦してこない辺り、不意打ちで顔面に水を浴びせてきたスーとは違って紳士的というか、人が好い。

「もーなにやってんのよ」

 スーは呆れたように言った。

「本田さん日本に帰っちゃうのよ。後悔してもいいの?」

 後悔してもって、なによそれ。心の中で反論する。そんな、先輩の卒業を前に告白を扇動する友だちみたいなこと言わないでほしい。

「いいの。帰ってくれたほうが、いい」

 ピュッ。ソンクラーン用の水鉄砲は、日本の子どもがお風呂で使う水鉄砲よりずっと威力が強い。目にあたったら普通に痛い。細い滝みたいな水が、チャオプラヤー川目指して噴き出る。

 スーが咎めるような視線を送ってくる。でも本心なんだよ、と心の中で答える。

 奏が来る前の、穏やかだった毎日に戻りたい。強がりじゃなくて、本当に思ってることだ。

 ただ心の別の場所が、なにかちがうことを求めてもいて、だから明里は自分をもてあます。

 帰っちゃうのに。帰っちゃうからこそ、このままなにも起きずにいられればいい。そう思う。

 力任せにおもいきり水鉄砲を飛ばすと、ちょうどベンチの前を横切った四人組のタイ人に当たった。あ、とおもいつつ、ソンクラーンだからと笑ってすませようとする。

 四人とも男だった。男の一人が濡れた頬を手の甲で拭って、こちらを見る。目が合う。

 ……あれ?


 見覚えのある顔だった。職業柄、一度見た人の顔は忘れないようにしている。だけど、最近会ったお客さんの中にはいない。なにか、別の場所で会ったような感覚。相手も同じなのか、目をそらさない。男の探るような目の強さに怖じて、その隣を歩く男へと視線を逃がした。

 ――――あ。


 隣の男にも、見覚えがあった。そして気づいた。思い出した。目の前の男。その隣の男も、後ろに立つ男たちにも、みんな覚えている。

 ビッグBで会った、スリの男たちだ。

 慌てて顔を伏せる。横からスーがのん気な声で、

「明里? どうしたの?」

 と尋ねてくる。それを無視して手元に集中する振りをする。胸がドクドクと嫌な騒ぎ方をした。

 ざり。サンダルの擦れる音がして、男たちが近づいてくるのがわかった。ざり、という音と、こちらに向かってくる気配。まずい。唇を噛んで、顔を上げずに固まる。

「フォン?」

 頭の上で声がして、そっと視線を向ける。

カーヴィンが、男に向かって言っていた。

「フォンじゃないか。どうしたんだ」

 フォンと呼ばれた男は驚いた様子でカーヴィンを見ている。二人が知り合いらしいことがわかって明里も驚く。

「おまえ、この日本人と知り合いなのか」

 フォンが警戒するようにカーヴィンを睨んだ。カーヴィンはいつものように穏やかに笑って頷いた。

「ああ。友達(プワン)だよ」

 その言葉に、フォンとその周りの男たちが顔を見合わせて笑う。馬鹿にしたような、粘ついた笑い方だった。

「友達? 日本人だぞ。日本人は俺らをスタッフとしか思ってないんだよ」

 そう言って唇を歪めたフォンは、侮蔑の混ざった目で明里を見下ろした。憎しみがこめられているような鋭い視線を受けて、胸が鈍く痛む。


 ルンピニー公園の少女が言っていた。日本人にはわかんない、と。

 何年ここで暮らしていても、外国人だという変えようのない事実。それが時々いろんなタイミングで顔を出しては、明里の胸を薄く塞ぐ。相手がたとえ卑劣なスリグループであっても。

 自分はこの国が好きなのに、この国の人たちに本当の意味で受け入れられることは一生ないんじゃないか。そんな風に思うとき、目の前にこのワット・アルンと同じくらい高い壁が聳え立っているように思ってしまう。


「そう。彼女はお客さんで、僕の大事な友達だ」

 カーヴィンは嘲笑を浮かべる男たちを見つめて微笑む。

「フォン。君だって、僕の大事な友達のままだ」

 そう告げられたフォンの肩がびくりと揺れる。一瞬だけ、その顔が傷ついたように歪んだように見えた。だけどすぐに、フォンはぎろりとカーヴィンを睨んだ。

「おまえはそうやってずっと、日本人のご機嫌取ってればいいんだよ」

 行こうぜ、とフォンは仲間たちの肩を叩く。途中、脇にいる男たちがチラチラとカーヴィンを振り返った。フォンは最後まで前を見たまま、大股で歩いていく。  カーヴィンはその後ろ姿を目をそらすことなく見つめていた。


「知り合いなの?」

 スーが尋ねる。カーヴィンはこくりと頷いて、明里を見た。ふっとさみしげに笑う。

「子どもの頃、ストリートチルドレンだった。あいつも僕も。僕が仕事を始めたのが面白くないみたいで、それからはずっとあんな感じ」

 いつも穏やかなカーヴィンからは想像のつかない単語を言われ、目を見張る。スーがなにかを呟いて、慰めるようにカーヴィンの手を握った。

「ねぇ明里」

スーの手に自分の指先を絡ませて、カーヴィンが明里を見た。その目はやっぱり、彼らしい穏やかな光に満ちている。

「こんな風になってもね、相変わらず僕は彼が好きなんだ。なんでだと思う?」

 カーヴィンにしては珍しい、なにか含んだような言い方だった。告白の衝撃がまだ飲み込みきれずにいた明里は、黙って首を横に振る。

カーヴィンはにこりと笑って頷いた。

「物事はシンプルにしたほうが、たいていの場合うまくいくんだ。これはね、ミリンがよく言ってたこと」

「……ミリン?」

「僕のママ。酔って僕を殴ったりもしたけど、良いところもあるんだよ」

 明里の運転手にして友人の青年は、優しい笑顔のまま言った。

 カーヴィンの言葉を頭の中に残したまま、視線をゆるゆると動かす。目の前に流れる川を見た。


 日差しを受けてたゆたう川は美しいけれど、そばにいくとその汚泥がはっきりとわかる。まるでこの国のようだ。貧富の差が激しく、時に残酷な現実を容赦なく叩きつける。

 だけど明里に生き方を教えてくれた。

 どんなことを言われても、一貫して明里の印象は変わらない。現実が辛いときもあるから、だからこそ大丈夫(マイペンライ)と告げる。相手と自分を許す匙加減を心得ている国だから、明里は救われたんだ。

 これからも、本当の意味で理解することはできないかもしれない。

 それでもこの国が好きで、ここで生きている自分が好きだ。

「だって、好きなものは多いほうが、楽しいじゃないか」

 カーヴィンが屈託なく笑う。


 ――大丈夫、これからずっと楽しいから

 昔、母親が言っていた言葉だ。そう、たしかに、お母さんはそう言ったんだ。

 カーヴィンの言葉と母親の言葉が、明里の中でくるくると混ざり合う。

 頼りなげな目で隣を見れば、スーが面白がるように言った。

「明里が泣くなんて、はじめて見た」

 その言葉に頬に手を当てる。熱い水。さっき掛けられた水とはちがう温度で濡れた指先を、ぼんやりと眺めた。

「ねぇ、私の知ってる星野明里は、こんなところで一人で泣いてるだけの子じゃないんだけど」

 スーが歯列矯正を見せてにやっと笑う。その言葉に力なく笑い返す。

そうだ、もう黙って学校からいなくなる中学生の明里じゃない。言いたいことを言う。今度こそ、自分の言葉で。

 そう決めたらなにかが吹っ切れた気がして、濡れた頬を手の甲でこすりあげて背筋を伸ばした。水鉄砲を持った若者たちの笑い声が、遠く近く、聞こえてきた。




 夕暮れと共にライトアップされたワット・アルンは、薄灰色の空にぼうっと浮かび上がるように幻想的に佇んでいる。真下に連なる船着場の白い外灯が、建物を彩る星のように光っていた。

 水面に映りこんだライトアップの灯りは橙色の粉を散りばめたようにきらめき、チャオプラヤー川を神聖な物のように見せる。この時間が生み出す特別な魔法だ。

昼間とはまたちがった顔を見せるワット・アルンを、先ほどと同じ場所で見つめる明里の胸の内も同じように変わっていた。


 奏宛に電話したのは初めてだったな、と通話を切ってから気がついた。驚いた様子の奏に、なにか口を挟む暇を与えず場所の名前だけ告げて切った。

 電話で一方的に呼びつけるなんて、昔は考えられなかった。そうおもったら、緊張で焼ききれそうな神経が少しだけ緩んで、その緩みが唇の端に笑みを乗せた。

 あらゆるものは変わる。変わらないものなんてない。この古の寺だって、作られたときは夜景用にライトを先端に点けられるなんておもわなかったはずだ。だけどそれが今はとても美しく、人々の目を惹いている。

 変化は恐れるものじゃない。手を広げて、受け入れるものだ。

「だってそのほうが、楽しいじゃない」

 カーヴィンの言葉をそっと真似る。声はやっぱり震えていたけど、でもいい、とおもえた。

 両手を強張らせて突っぱねていた力を緩めたら、自分の心の内側に辿り着いた。

 だけどひとりではできなかった。

やっぱり明里は、臆病でもあるから。

 たくさんの大事な人たちの力を借りて辿り着いた、今の心を大事にしたい。素直にそう思えたことがうれしい。


「明里」

 呼ばれて振り返れば、息を切らした奏がすぐそばに立っていた。その格好を見て息を飲む。

 奏はスーツを着ていた。片手には、ここまで引いてきたらしいキャリーケース。

 まさか、もう日本に帰るんだろうか?

 いくらなんでもそんなはずないとおもいつつ、冠婚葬祭というよりはビジネスカジュアルなスーツ姿の奏を見て、行き先は一つに絞られてしまう。

 どん、と嫌な音が胸を鳴らす。なにかに打ち抜かれたみたいに、緊張していた心もバラバラと砕けそうになる。

「話って?」

 奏は二人掛けの小さなベンチに座らず、立ったまま明里を見下ろす。薄闇のなか、表情はあまりわからない。いや、わかるほど凝視することができず、視線を避けるように明里は再び川向こうを見つめた。等間隔に並んだ街灯が、飛行場の誘導灯のように橙色の灯りを灯している。

「……お礼を言ってなかったなとおもって」

 どう切り出せばいいかわからず、とりあえず言いやすいところから口に上らせる。

「お礼?」

 奏がふしぎそうに尋ねる。距離が近づいたわけでもないのに、緊張で組んだ両手に力がこもる。

「デモキャンプまで探しに来てくれたとき、言ってなかったから。助けてくれて、ありがとう」

 おもいきって奏を見上げると、奏はじっと明里を見つめていた。前髪の下から覗く、あの猫の瞳と目があう。静かな眼差しだった。

「私の代わりに、お客さんのホテルに行ってくれたことも」

 守られるなんて面映いこと、予め言われていたらきっと明里は断った。それを見越して奏は黙って行ったんだろう。

「ありがとう」


素直な心で見れば、このひとに魅力的なところはきっといくつもある。そのことにようやく気がついて、苦い笑いがこみあげた。

ひたと明里を見る奏が、ごくりと喉を嚥下する。少し肌が青白いように見えるのは、闇夜の所為ばかりじゃないだろう。明里もきっと、同じだから。

 体中がドキドキと脈打っているのがわかった。気温は相変わらず高いし、からだの内側も熱いのに、指先がこんなに冷たいなんて嘘みたいだ。

 心の奥で芽生えた言葉を、どうやって口にしたらいいのかわからない。ためらいをどう取ったのか、急いた様子で奏が言った。

「待ってても、いいか」

 かすれた声は語尾が震えたように聞こえた。問うようにまなざしを向けると、眉を寄せた奏がじっと明里を見つめていた。

「仕事ももっと頑張る。悪いところは直すようにする。だから、何年かかってもいい。明里がいつか俺を見てくれるまで、待っててもいいか」

 奏は少しさみしげに笑うと、 

「諦められなくて、ごめん」

 そう言って頭を下げた。夜風が垂れた髪を音もなく揺らしている。

 おもいがけない言葉に、散り散りに浮かんでいた考えが真っ白に消える。そして頭に残ったのは、数日前の奏の姿だった。


 責任は僕にあります。


 斎野にそう言って、明里を庇ったあの日の奏。クラスのボスの面影なんてない。ただきちんと謝罪した、大人の男がそこにいた。

 そう、もうわかっていたはずだ。奏も自分もあの頃と同じじゃないと。

 だから、踏み出すのは恐いことじゃないはずだ。

 

「……待たないでいい」

 そう言うと、奏は痛みを耐えるような顔をした。明里は小さく首を横に振る。

「私だって、奏が」

 はじめて名前を呼ぶと、奏が驚いたように目を見張った。その目を見つめながら、

「――好き」

 言葉は自然とこぼれた。ほとんど掠れた声は、自分さえも聞き取れないようなほどのものだったけど。

 その瞬間、また奏の顔が変わった。猫でもなく虎でもなく、気のせいじゃなければ、ものすごく切羽詰った顔をしたひとりの男が、元同級生が、一瞬で距離を詰めた。

 気がつけば覆いかぶさるように抱きしめられて、奏の心臓に一番近いところにいる。ドッドッドッと轟く音が明里の胸に直接響いて、わけもなく眦を涙が溶かした。


 顔を上げると、奏の顔がとても近いところにあったから、心がまた音をたてる。

 相手との間に見えないカウンターを、挟みようもないほどの近い距離。見つめあいながら、明里は心臓の音に負けないように声を出した。

「いつ日本に帰るの」

 ずっと高音で鳴っていた心臓が、今度は重低音で鳴り響いてる気がする。同じ緊張でも甘みはない。息を殺して返事を待つ。

 それなのに、奏は訝るように眉を寄せると言った。

「もう帰ったけど。知ってるんじゃなかったのか」

「……え?」

 噛み合わない答えに違和感を感じつつ、

「本帰国になるんでしょ。皆知ってるよ」

 自分の言葉に、胸がぎゅっと絞られる。なにを言われても気丈にしていたい。そう思うのに、そんな願いは叶わないかもしれない。

 奏は目を丸くしてまじまじと明里を見て、その後脱力したように隣に座り込んだ。

「そういうことか」

 ぼそりと呟き、一人納得した様子で明里に向かって苦笑する。

「変な噂、出回ってるのはなんとなく知ってたけど」

 明里は別のことを言おうとして開いた口をそのまま停止させる。

「うわさ……?」

 奏は頷いて息だけで笑った。

 いつの間にか空はすっかり闇色で、川との境もない。奏の黒髪も、夜の深い空気に溶けていきそうだ。その反面やけに一本一本の輪郭がくっきりと見えるのは、明里が目を凝らしている所為なんだろうか。

 思考を深く探っていくよりも先に、奏が口を開いた。

「日本に帰る話はあったよ、出張でね。ワールドにクレームのこと直接報告に来いって呼ばれてたんだ。社長とその話してるの、誰かが聞いて勘違いしたんだろ」

 言われた言葉に、今度は明里が呆然とする。


 ただの噂だった。

 奏は帰らない。

 

 そのことが、こんなにも胸をあたたかくしてしまう。

「じゃあ、その格好」

 奏は頷いて、

「さっき日本から帰ってきた。あんまり馬鹿なことすんなって叱られたよ。高い餞別だったんだから、金に見合った仕事して来いって。口悪いんだあの人たち」

 そう言うと、なにかを思い出したように苦笑する。だけどその目は上司たちを懐かしむように細められていたから、明里は顔も知らない親会社の社員たちの印象が、自分の中で変わっていくのを感じた。

「餞別って?」

 心はもっと別のことでドキドキしている。それなのに、奏がどことなく楽しげに笑うから。気がつけばそう尋ねていた。

 自分の心が加速的に変化していく。いつのまにか夜になっているこの空のように。

 だけどそのことに、明里はちゃんとついていってる。

 流されているわけじゃなく、自分の意思で変化を受け止めている。


 奏は頷くと、明里と反対の方に置いていた鞄を引き寄せて見せた。

「これ」

 あ、と口の中で言う。はじめて会った時に持っていた、皮の鞄。その価値を、貰い物だからわからないと言っていた。

 思えばこの鞄のせいで、勝手に彼女がいると勘違いしていたんだ。その時の自分を思い出して、力のない笑いが浮かぶ。

 奏はそんな明里の思いには気づかないようで、鞄の表面をそっと指で撫でた。

「入社してからずっと、俺が海外で――タイで働きたいって言い続けてたの皆知ってたからさ、赴任が決まったとき喜んでくれたんだ」

 さりげなく吐かれたその言葉の意味に、胸が突かれた。

 なにも言えずに奏を見つめれば、奏はゆっくりと振り返った。


 睨まれたり、驚かれたり、心配されたり。たくさんの意味をもつ眼差しで見られたけど、今はそのどれでもない。ふしぎに凪いだ、だけど目をそらすことのできない強さを持った目が、明里を見つめている。

「いつか、許してほしい。俺が明里にしたこと」

 やっぱりなにも言えず、無言で首を横に振る。否定したいわけじゃない。なのに、それを表す言葉が急にわからなくなる。夜の色をした川が建物の光を水面に散らばせて、それが涙で滲んだ視界のなかで強く瞬く。

 片手を伸ばした奏が目元の涙を拭った。それなのに、そのしぐさが呼び水となって簡単に新しい涙が生まれる。

「好きだ」

 大きく頷けば、零れた涙が光りながら落ちていく。その軌跡を見る間もなく、伸びてきた腕に今度は自分からしがみつく。

 ずっと前から知り合いだった。でも、今日はじめて本田奏を知ったような気がしている。そして今はじめて、自分自身とも出会いなおしたような、そんな気もちで相手を見上げれば。

 同じように泣きそうな顔をした男が、これ以上見てくれるなと言わんばかりに顔を近づけてきたから、明里は目を閉じた。

 触れた唇が熱くて、キスは甘いのだとはじめて思った。




 あっつい。

 明里は口の中で呟いて寝返りを打った。からだの下のシーツが熱くなって寝心地が悪い。

 薄く目を開けると、遮光カーテンの隙間から白い光が漏れていた。

 眠気を追いやるために伸びをすれば、窓とは反対の肘がなにかにあたった。

「って」

 かすれた声が小さく聞こえて、全身の毛穴から汗が噴き出たような、そんな感覚に目を見開く。眠気は一気に霧散した。

 ぎこちなく体を捻らせれば、明里のほうを向いて笑っている男と目が合った。

「おはよ」

 半分吐息だけで言ったような、そんな甘やかな声に反応できないでいると、するりと伸びた腕に抱き込まれる。裸の胸が明里の顔にあたって、ああやばいこれはやばい、と心の中で悲鳴をあげた。

 そんな風に支離滅裂なことを考えて思考を逃がそうとしているのに、奏は明里の髪の毛を気だるげに梳いた。セットしてない、ましてや寝起きの髪がどれだけひどいものかわかってる明里は顔を赤くして身を捩る。

「やめてってば」

 それなのに奏は息だけで笑って髪を弄ぶのをやめない。朝から酸素不足になりそうだ。

「なぁ、昨日言ってないことがあるんだ」

 その言葉に顔を上げると、奏が明里のこめかみ近くを掌で揉むように撫でた。愛撫とも言えないような戯れなのに、体中ドキドキさせている自分はもうずいぶんこの男の思い通りになっている気がした。

「日本に帰ったとき、明里の家に行ったんだ。お母さんに会ってきた」

 言葉に目を丸くして奏を見上げる。めがねが必要ないくらい近くで、奏は照れたように笑った。

「お母さんにはさ、知っといてほしかったから。明里に会えたことと、俺はやっぱり明里が好きなんだってこと、伝えてきた」

 明里はようやく納得した。だから母親は驚いてなかったんだ。そして、いい男になったと思うわよ、という言葉の意味も、やっとわかった。

 うん、お母さん。

 私もそう思うよ。本田奏は、悔しいくらい、いい男だったよ。

 後で母親に電話しないと、と決める明里は知らず微笑みを浮かべている。

「ゴールデンウィークにさ、お母さんたちが来るとき」

 明里の髪から手を離して、再び明里を抱きしめながら奏が言う。

「俺も会いに行っていい?」

 明里の頭に口をつけて話すから、吐息がくすぐったい。それでも振り払う気にならず頷けば、さらに抱き込まれて足同士も意図的に絡められる。

 付き合うって、恋人ってこんな感じだったんだろうか。こんな、最初から全開フルスロットでベタベタしちゃうと、飽きるのも早いんじゃないだろうか。

 友だちの延長みたいな付き合いしか経験のない明里は、一足飛びでそんなことを懸念する。

 そんな杞憂を振り払うように、奏は明るく言った。

「娘さんをくださいってやつ、ちゃんとやらないといけないもんな」

 おもいがけない言葉にポカンとした顔で相手を見ると、奏は明里の眉の下あたりに小さなキスを落とす。

 そんな軽い愛情表現の後に、奏はひどく真剣な顔で言った。

「ここでもいいし、他の国でもいい。どこでもいいから、一生一緒にいよう」

呆然と奏の顔を見ていた明里は、じわりと瞳が熱をもつのを感じた。それを振り払うように、

「気が早くない?」

 からかった声で言った途端、涙が一筋鼻を横切って唇へと落ちていった。

 奏の腕が伸びてくる。

「血、出てる」

 唇に落ちた涙を拭いながら、奏がポツリ呟く。問うような眼差しを向けた明里に、奏は笑った。

「このとき、好きになったんだ。十二年もかかった。全然早くなんかないね」

 その言葉を耳だけじゃなく心が拾うから。眉に力がこもあって、更に涙が落ちていく。黒く日に焼けた首に腕を回して引き寄せた。

「今度、俺の親にも会ってくれよ。紹介したい人がいるって言ったら、なんか……驚いてた」

 一瞬言いよどんだ後の声はどこか嬉しそうで、奏の鎖骨に鼻を押し付けたまま顔だけを横に向けた。

 この前少しだけ聞いた奏と母親の話。うちとはちがう距離感で、二人で生きてきたこの親子の話も、もっと聞きたい。もっといろいろな奏を知りたい、と思う。

「私も」

 奏を見つめたまま、笑ってみせる。

「一緒にいたい」

 この国が好きだ。だけどたとえどこにいても、もう大丈夫だ。

 隣にこのひとがいれば、大丈夫。

 どんなことがあっても、こんな風に思える日を迎えることができたら。

 私の人生は幸せだと言っていいと、そう思えた。

 だってそのほうが、楽しいから。




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