第三章 one's stage(瑞木ゆう編)
“涙がもったいないわ”
“……”
“男は幻想よ。触れると消えてしまうものなの。男のために、心を揺らすなんて、浅はかだわ”
まみは、誰より、深い愛を持っていて、だからこそ、誰より、孤独だった。
☆☆☆
「まみりん!見て見て」
「よしてくれる?その呼び名、不快だわ」
まみは、ビーカーの底に溜まった濁り水に神経を注いでいた。放課後の実験室は、彼女の探求の場になる。
魔女に白衣ね。せっかくの青春を人体模型と過ごすだなんて、あたしには、まず、理解できない心裏だわ。
「もう、ツレないわよ!」
私が、ぷんと拗ねせみせると、まみは、仕方なくチラシを一瞥した。
「ミス美魔女コンテスト?なあに、下品」
「こら、あからさまに嫌な顔しない!私の彼氏が運営に関わってるの。案外、まともな催しなのよ」
「彼って、非常勤講師のテディーベアコレクターだったかしら?失礼、三年の演歌歌手志望だったわね」
「ちっがうわよ!今は、隣のクラスの黒柳木 貴志くん」
「あの悪魔族の」
「そう。彼ったら、もう完璧なの。でね、このコンテストにまみは、どうかって、推薦しちゃった」
「あら。本人の了承は必要ないのかしら」
まみりんは、あたしにゴーグルを掛けさせて、ガスバーナを点火する。
「お願~い。まみりん」
青白く照らされる彼女の横顔は、きっとルーヴル美術館に飾られていても不思議ないほど、人を惹き付ける魔性の力を秘めていた。
☆☆☆
「また電気つけないで。今度は、なあに?また0.4kg太った?」
二段ベッドの上段を譲ってもらったのは、寮の殺風景な部屋が少しでも見晴らしよくなると思ったから。
こうして、まみりんのベッドで横になっているのは、彼女に声をかけてほしいから。
「貴志くんが、もういらないって」
「なにそれ」
「あたしに飽きちゃったって」
「呆れた」
「……好きだったの。今度こそは、本物の恋だと思ったの」
部屋には、たくさん家具があるべきだわ。しゃくりあげる声が壁に跳ね返るたび、惨めになる。
「涙がもったいないわ」
まみりんは、ベッドの端から上半身を乗り上げてあたしを覗き込んだ。
「……」
「男は幻想よ。触れると消えてしまうものなの。男に心を揺らすなんて浅はかだわ」
「……まみ、恋したことないでしょう」
私は、知らぬ間に彼女の心の迷宮に足を踏み入れていた。
はじめてみる一条の光。
まみの涙があたしの頬骨を伝って唇に重なった。
☆☆☆
「ねえ、面白い?」
「……」
まみは、今日も、試験管と戯れていた。
「ねえ」
「……」
「無視しないでよ」
彼女は、下のアングルからも見劣りしない。あたしは、椅子に股がって、作業台に顎を引っかけていた。
「……そうだっ!どうせならさ、惚れ薬かなんか作ってよ。で、学食のお味噌汁の中に混ぜてやんの。拙作じゃん」
「趣味悪いわね」
「やっと答えてくれた。まみりんに飲ませてみてもいいな。きっと可愛いよお」
「……」
むっ。また、無視ですか。
「惜しいなあ。もっとこう口角上げてみな。ぶっきらぼうじゃ、美人さんが台無しよ?」
あたしが自分の頬肉をぐいっと持ち上げると、彼女はぷっと吹き出した。
「よしなさい。このままになったらどうするの」
なんだ、笑えるんじゃない。可愛いぞ、こんにゃろう。
ちょっとした悪戯心だった。ただ、小犬に挨拶でもするような、チュッと触れ合うプラトニックkiss。
それだけのことだと思っていたのに、まみの落としたビーカーが地面に砕け散ったとき、ふたりの物語は、もうまわりはじめていたの。
☆☆☆
二段ベッドの下段は、ふたりの時間。
彼女の前では、少女のままでいられた。
一番、綺麗なあたしのままでいられた。
「ねえ、まみちゃん。愛ってどこにあるのかしら」
「強いて言うなら、大脳辺縁系と前頭前野ね」
「はは。らしい回答。でも、あたしは、誰かの心の中に見つけたいわ。たとえば、鍵穴みたいなものがあればいいと思わない?誰が運命の人なのか、すぐにわかるでしょう」
「運命に縛られることないわ。探しているうちに、そばにある大切なものを見失ってしまうと思うもの」
まみが欲しいもの、あたしは知ってる。本当は、ずっと知ってたの。
一度、手を握ったら、離さなくてはならない日がやってくる。
ねえ、そばに居てよ。気づいてないふりで居させてよ。
まみが、あたしの髪を掬い上げた。
「髪まで涙色」
「どうせあたしは泣き虫ですよ」
「切ったほうが似合うわ」
「やよ。ロングヘアーでなきゃ」
「じゃあ、別のものをちょうだい」
彼女の人差し指があたしの耳の窪みをなぞりはじめた。
「いや?」
「まだお風呂行ってないから」
「嫌いじゃないわよ、ゆうの匂い」
まみ、私たち、どうして、こうなったのかな。
どうして、あのままで居られなかったのかな。
☆☆☆
「黒柳木に誘われて拒めなかったって、どうして私に言うの」
「愛してるから」
「随分、自分勝手だとは思わない?」
坂を走るビー玉のように、私たちの関係は急速に音を立てて崩れ始めた。
あの日も、私は、まみとの約束を忘れたことにして、貴志くんの部屋にいた。
煙草の染み付いたカーテンや、不潔なシーツ、いつ開くか分からない寮の扉とか。
彼の熱を身体に受け入れてしまうと、どうでもよくなるの。
「俺は、ゆうがコンテストで優勝するところが見たいな」
「どうかな。まみが出るなら、あたしの出番はないかも」
「まみって、前に言ってた子だよね」
彼の真顔。ときどき、怖くなる。
「そうだよ、どうかしたの」
「お前ら、付き合ってるとかって冗談だよな」
「何言ってるの」
まみの腰のシルエットがちらついた。
「悪りぃ。ありえねぇわな。女同士で恋愛ごっこだとかウケる。あーいう“私何でもお見通しです”みたいな女見てるとムシャクシャすんだよね。処女に女王はないっしょ。あれには、さっさと魔女の座を降りてもらわなきゃ」
「どういうこと?」
☆☆☆
知らなかった。知らなかったの。
まみ、あたし、失ってみるまで、ほんとうの恋がどういうものか知らなかったの。




