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関わってはいけない、関わりたくない、と思っていても、昨日と同じように、その時は訪れてしまう。
こんなことなら、学級委員なんて引き受けるんじゃなかった、と後悔しても、時既に遅し。
先生だけでなく、学校にもクラスにも承認を受けてしまった。
何事も迅速に。
そんな学校方針が少しだけ恨めしく思えた。
放課後、夕焼けが差し込む教室で、2人は交流会の冊子の製本をしていた。
さっさと帰ろうとしていたのに、運悪く教室を出たところで苑江に引き止められ、今に至る。
だいたい冊子は教師である担任かもしくは手の空いた先生が作るものであって、生徒に任せるものではない。
しかも、自分のクラスだけならともかく、他の1年のクラスの分まで渡されたのだ。
2人きりになりたくないのに、こんなに仕事を渡されたらなかなかこの状況から抜け出せない。
匠哉も同じように思っているようで、さっきから無言のまま作業を進めていた。
「あーもう、終わらない」
梨歌は匠哉に聞こえないように呟くと、そのまま机に顔を伏せた。
そのまま目を閉じて、机の冷たさを感じる。
丁度その冷たさが気持ちよくて、このまま眠ってしまいたくなった。
……そうすれば、何も考えずにいられるから。
しばらくそのままの体制でいると、急に足音が聞こえた。
顔を横に向けて、机に耳を当てるとその音が心地よく響いた。
「……サボって寝るなよ」
頭上から匠哉の声が降ってくる。
梨歌は聞こえなかったフリをして、目を閉じたまま匠哉が離れていくのを待った。
でも、その時はなかなか訪れなかった。
終いに、匠哉は作りかけの冊子を持って来て、梨歌の隣で作業を始めたのだ。
起き上がって作業を再開したくても、これでは出来ない。
時折感じる視線は、鋭いものじゃなくて柔らかいものだった。
薄く目を開けると、匠哉が作業しているのが見える。
思ったよりも近くて驚いた。
……てか、近すぎじゃないか……?
「……昨日は、ごめん」
匠哉は梨歌が狸寝入りをしているのにも気づいてないようで、静かにそう言った。
ますます起きられなくなった梨歌はそのまま匠哉の話に耳を傾ける。
「いろいろ、混乱してて。こんな変なもの持ってるから、あんまり人と関わらないようにしてたし。それに……まともに人に触れたのは久しぶりだったし。……初めて、だった。俺が安藤に自分から触れたとき、何も感じなかったんだ。今までは全て見えてたから。だから……余計混乱して」
そこまで言って、匠哉は口を閉ざした。
また黙々と作業を進める。
その横顔が少し紅く見えたのは、夕焼けのせいだろう。
少しだけほっとしたように見えたのは、ただの思い過ごしだろう。
でも。
それでも。
「うん、許してあげる」
梨歌がそう言って上半身を起こすと、匠哉は驚いたようにこちらを見た。
その表情に笑みを浮かべながら、冊子を手に取り、作業を再開する。
しばらく視線を感じていたが、舌打ちする音が聞こえた後、それは途切れた。
全ての冊子が完成した頃、既に外は暗くなっていた。
時折聞こえていた話し声も今はしない。
職員室に完成した冊子を運んでいくと、そこにも苑江を含んだ5、6人の先生しかしなかった。
「遅くまでごめんねー、ご苦労様」
苑江は冊子を受け取ると、またパソコンに向かって仕事を再開した。
苑江に一礼をして、梨歌と匠哉はその場を離れた。
*
「昨日よりも遅くなっちゃったねー」
梨歌が窓の外を眺めながら呟いた。
匠哉は何事も無かったように鞄に教科書を詰めていた。
その様子を見てため息をつき、梨歌も鞄の中に教科書を入れた。
ただでさえ静かな校舎なのにもっと静かに感じて、寂しく思えた。
その沈黙はまるで自分1人がこの校舎に残っているような錯覚を起こす。
「帰るぞ」
梨歌が思い更けてると、匠哉が教室の電気を消しながらそう言った。
教室が月明かりでぼんやりと青く色づく。
それだけで梨歌はなんだか切なくなった。
何故だろう。
カタン、と椅子に腰掛けて、前を見つめた。
匠哉が不思議そうに様子を伺っているのが分かる。
「どした?」
匠哉はゆっくりと梨歌に近づいた。
隣に立つと、頭上から言葉を降らせる。
それが何だか心地よかった。
「ううん。何でもない……なんかさ、感傷的になっちゃって……どーしたんだろーね、私」
さて、帰りますか、と梨歌は立ち上がって、椅子を片付けた。
匠哉はそれをしばらく見つめていた。
梨歌が急かす様に匠哉を見ると、匠哉は苦笑しながら教室を出た。
廊下も教室同様青白かった。
窓の外には職員室の灯りが地面の一部を照らしている。
先生は何時まで此処に残るのだろうか。
そんな他愛もない思いに馳せていると、隣で歩いていた匠哉が足を止めた。
それに気付き、梨歌も足を止める。
「どうしたの?」
さっきの匠哉と同じように、梨歌も言った。
匠哉はその声に顔を上げた。
真剣な目つきに、梨歌は一瞬怯む。
おかしくなってる。
自分も匠哉も。
この青白い月明かりに照らされて。
何かが途切れてしまったように、おかしくなってしまっている。
怖い、ただ単に自分と彼が怖かった。
梨歌は走って、匠哉から離れた。
一緒にいてはいけない。
関わってはいけないのだ。
昨日そう誓ったのに、忘れていた。
後ろを振り返ったのは、家の前に着いたときだった。
全速力で走ったせいで、肩が大きく上下に揺れる。
何とか息を整えて、何事もなかったように、家に入った。
匠哉は走り去っていく梨歌の背中を見つめていた。
姿が見えなくなってからも、しばらくそのままでいた。
何が梨歌をそうさせたのかは分かっている。
でも分からない。
分かっているはずなのに、心の何処かでそれを拒否している。
頭の何処かで、それは違うと言っている。
「……どーしたいんだ、俺は」
誰もいない廊下で、誰かに問うように匠哉は呟いた。
そんな自分を自嘲すると、此処を後にすべく早足で梨歌の去ったその先へと進んでいった。
*
何かを手に入れたいとは思ってはいけない。
そういう運命なのだ、自分は。
幼い頃から自分に言い聞かせていた言葉が蘇る。
この力を知っても尚接してくれたアイツに期待を抱いてはいけない。
いつかは他の人の所へ行ってしまうのだから。
こんな化け物の相手より、もっとアイツに似合った未来がある。
誰も愛してはいけない。
愛すれば愛するほど、その現実に嘆き、その愛を憎しみに変えてしまうのだから。
消えてしまいたい、そう思ったことだって何度もあった。
聞こえなくてもいいことを聞き、感じなくていいものを感じ、他人を傷つけ、自分をも傷つけてきた。
いや、それしか出来なかった。
他人を守ろうとすれば、自分が傷つく。
自分を守ろうとすれば、他人を傷つける。
そんな悪循環から抜け出したいと思ったのは数え切れないほどある。
でもその度あの淡い期待が胸を過ぎる。
もしかしたら。
大人になれば誰かが分かってくれるかもしれない。
この力だって消えてなくなってしまうかもしれない。
もう一つ理由はあった。
同じ境遇に合った妹のために、自分は生きて彼女が同じ道を歩かないようにしなければならない。
自分の幸福よりも彼女の幸福を得なければ。
彼女が本当の幸福を得られるまで、自分は消えてはいけない。
先を生きて、経験したことを彼女に伝え、彼女が誤ることのないようにする。
その役目が終わったとき、自分はどうなるのだろうか。
そんなこと分かっている。
知らないフリを出来るはずがない。
彼女が本当の幸福を手にしたとき、俺はここから消える。
その時にはもう、俺は生きていられないほど傷ついているだろうから。
*
あれから何事もなかったように、日々は過ぎていった。
学級委員の仕事も殆ど片方ずつが交代でやっていき、2人が関わることは殆ど無かった。
最小限の付き合いだけはやり、ただのクラスメイトを演じきっていた。
「相変わらず渡瀬は友達作らないんだね」
日差しも強くなり、そろそろ夏を迎えようとした頃、雪乃がシャーペンを指先で器用に回しながら呟いた。
今はLHR。
苑江が急用でいないので、自分達でやっている。
で、学級委員である梨歌と匠哉が出した課題は、文化祭の案。
何をするか友達と話し合うことにした。
案の定教室に飛び交うのは、文化祭とはかけ離れた話ばかり。
いくら特進クラスだからと言って、そこまで真面目ではない。
これでもちゃんとした案は提出してくれるし、不備なところは1つもなかった。
梨歌もその中の1人で、雪乃と2人で話していた。
案はもう出来てあって、他愛のない会話を進めていたとき、雪乃がふとそう漏らした。
「私、梨歌と以外で話してるの見たことないかも。あんな無愛想なのに、人気が衰えないのも不思議じゃない?」
「だねー。先輩方が面食いなだけなのかも」
入学してきた頃と同様、匠哉の人気は衰えることはなかった。
何人かは告白してきたらしいし、ファンクラブなんてものも作ってるという噂も耳にしていた。
「私には渡瀬の魅力なんて分からないや」
雪乃がため息を漏らしながら言った。
梨歌もそうだね、と頷く。
そこでタイミングよくチャイムが鳴り響き、梨歌は案を書いた紙を回収していった。
職員室に持って行こうとすると、後ろから紙束を持って行かれる。
「俺が持って行くから」
匠哉はそれだけ言うと、教室を後にした。
そのLHRがあったのが5時間目。
あと2時間授業があったが、そこに匠哉の姿が現れることは無かった。
*
「あっれー渡瀬くんいないのぉ?」
放課後、いつものように匠哉を見に来た先輩が残念そうに言った。
梨歌はそんな先輩を気にも留めないで、雪乃と一緒に教室を出ようとした。
「ねぇ、丁度いいや。あんた、安藤梨歌でしょ」
教室から出た途端、梨歌は先輩方に呼び止められた。
無視しようかと思ったが、肩をぐいっと引かれて、無理矢理先輩の方に向かされた。
「ちょっと顔貸してよ。そっちの友達に先に帰ってもらってさ」
「梨歌、帰ろう。すみません、先輩。今日用事があるので、また日を変えていただけませんか?」
「ふぅん、生意気言うんだね。痛い目見たいの?」
先輩の矛先が雪乃に向かっていくのを感じて、梨歌は慌てて横から言った。
「雪乃、先に帰ってて」
「梨歌っ!」
「大丈夫、だから。ね」
「ほぅら、こう言っているんだから、さっさと帰りな、お友達」
梨歌は雪乃に心配させないように微笑んだ。
雪乃は悔しそうな顔をして、手を振ってその場で別れた。
雪乃の姿が見えなくなってから、梨歌は先輩に連れられて、立ち入り禁止である屋上に向かった。
だいたいの予想は梨歌でも分かっている。
匠哉のことだろう。
あのクラスでは、同じ学級委員である梨歌が1番彼に近い存在だ。
屋上の扉を先輩が静かに開けた。
その向こうには気持ちがいいくらい晴れ渡った青空。
梨歌はその時だけ、こんなに綺麗に晴れた空を恨めしく思った。