ここにいるから。 1
人の心が見えたら、どんなにいいだろう。
そうすれば、誰かを傷つけなくて済むのに。
自分で自分を、傷つけずに済むのに。
どうして、何も見えないのかな。
見えたら、どんなに楽だろう。
小さな頃、私はそう思っていた。今は、もちろん違う。
人間の綺麗なところも、汚いところも、たくさん見てきた。
知らなくてはいけないことも、知らなくてもいいことも、全部。
こんな広い世界で、小さな私。
私が生きているのを知っているのは、ほんの一握りで。
私がいつ死ぬかなんて、誰も知らない。
生きているうちに会える人よりも、会えない人の方が、何倍も何十倍も多くて。
まさか会えるなんて、思ってもいなかった。
まさか、そんな人が私の目の前にいるなんて、誰が予想できたのだろう。
いつもどこも同じような、春の日。
平凡なはずだったこの日に、私は彼を知ってしまった……―――。
*
年月が流れていくのは、とても早くて。
梨歌はいつの間にか、高校生になっている。
幼い頃に考えたことなど、頭のほんの片隅にしか、残っていない。
「梨歌―? 学校、遅れるよ?」
雪乃が玄関先で叫んでいる。
梨歌はそれに返事を返しながら、新しい鞄とジャケットを手に取り、急いで靴を履いた。
「ごめんっ! 寝てた」
「ったく、入学早々寝坊するなっての」
雪乃は梨歌の背中を一度強く叩いてから、歩き出した。
梨歌も遅れないように、小走りで雪乃に追いついた。
入学式を昨日終えて、今日から早速授業が始まる。
中等部からの持ち上がりが殆どで、外部生は珍しい。
最初のオリエンテーションも中等部と同じ内容なので、見事に省かれてしまっている。
外部生には、放課後するみたいだけど。
梨歌も雪乃も、中等部からの持ち上がりだ。
梨歌たちのクラスには、確か一人だけ、外部生だったような気がする。
特進クラスに外部生なんて本当に珍しいらしく、噂になっている。
しかもそれが男子で、上級生、特に女の先輩は騒ぎ立てていた。
あんな無愛想な奴、何処がいいのか。
クラスから完全に浮いている彼を思い浮かべて、首を傾げる。
梨歌には、よく分からなかった。
「今日も先輩方、廊下に集まってるよ―」
本当に飽きないねぇ、と雪乃が呆れたように呟いた。
教室の窓という窓から、先輩の顔が覗いてる。
一年の私たちにとっては、いい迷惑で、いいストレスの基でしかない、それ。
梨歌は先輩方の目的の男子に、目をやった。
相変わらず一人で、窓際の一番後ろの席に座っている。
外に何があるわけでもないのに、視線は窓の外、だ。
―――渡瀬匠哉。
極力、関わらないようにしたい人。
梨歌はその姿を捉えてから、すぐに目を離した。
関わりたくない。
関われば、何があるか目に見えてる。
こんなに人気があるから。
それに……渡瀬匠哉自身も、"関わるな"というオーラを漂わせている。
だから、関わる必要なんて無い。
事務的な用事は、別として。
そう、決めてたのに。
神様は、悪戯好きだからか。
関わらなければならない時は、訪れてしまった。
「安藤さん、この後すぐ、職員室に来て」
帰り支度を終えて、雪乃と教室を出ようとした時、担任の苑江に呼びとめられた。
用件だけ言って、さっさと職員室に向かう苑江の後姿を見つめて、ため息をつく。
「入学早々、呼び出しか」
「また、学級委員なんじゃない? 梨歌ってこう見えて、学年首位だったし」
「こう見えて、は余計だよ」
隣で笑う雪乃を横目で睨んで、梨歌も小さく笑った。
「じゃ、行って来る」
「待っていよっか?」
「ん―、いいよ。先、帰ってて」
梨歌は手を振り、雪乃の背を見送る。
雪乃の姿が見えなくなった後、少しだけ憂鬱な気分になりながら、職員室に向かった。
「はぁ!? 私と渡瀬が学級委員って、どういうことですか!!」
「うるせ―、叫ぶな」
あの後、すぐに職員室に入り、苑江の席に向かった。
自分一人だけかと思いきや、そこには渡瀬匠哉もいた訳で。
見事に二人で学級委員に、指名されてしまったのだ。
横で大袈裟に耳を塞ぐ匠哉を一睨んで、また苑江に向き直った。
「私は内部生だから分かりますが、なんで外部生のコイツが!」
「しょうがないじゃない、入学前試験でのトップは、あなたたち二人なんだから」
「ま、そ―ゆうこと」
「……どっちが、上だったんですか」
「えぇ―っと、確か渡瀬くんの方だったわよ」
信じられない。
まさか、外部生が首席を取るなんて。
梨歌はちらりと横目で、匠哉を見た。
匠哉は何事もなかったかのように、窓の外を眺めている。
……実際、何事もなかったんだけど。
その態度が、何故かムカついて。
梨歌は出せる限りの声で、苑江に言った。
「絶っ対に、引き受けませんからっ!」
「だから、うるせ―って言ってんだろっ」
匠哉が梨歌に負けないような声で、怒鳴った。
が、時は既に遅く。
既に怒りが頂点に達していた梨歌は、そこで止まるような性格じゃない。
……少なくとも自覚はしているのだが、そう上手くはいかない。
「うるさいうるさいって、あんたの方がうるさい!」
「学級委員くらい、引き受けろよ! どうせ、暇なくせに」
「はいはい、暇ですよ! あんたがパ―トナ―じゃなきゃ、引き受けてるっ」
「人のせいにするのかよ、このガキが」
「ガキって……私は、あんたと同い年ですっ!」
「へぇ、初耳」
「んなっ。同じクラスじゃない!」
「いたっけな。お前みたいな、キ―キ―うるさい猿」
「な、さ……酷いっ」
苑江がまたか、と呆れたようにため息をついた。
中等部での梨歌の行動は、高等部でも噂の的だった。
飛び抜けていた。
いろんな意味で。
……確か暴れだしたら、お終い女だっけ。
苑江は過去の記憶を探っている間も、二人の言い争いは続いていた。
暫く言い争いが続く。
ふとした瞬間に、梨歌は勢い余って、匠哉の腕に触れてしまった。
途端、梨歌の手は、思い切り叩き落とされた。
「触る、なっ」
匠哉が怯えたような顔をしたので、梨歌は今までの怒りも叩かれた怒りも、何処かに飛ばしてしまった。
ただただ、呆然と匠哉を見つめている。
……何が起きたのか、さっぱり理解できない。
「センセ、気分悪くなってきたから、帰る」
「いいよ、もう話も終わったし」
苑江は上の空で答えた。
何を考えていたのやら。
梨歌は不思議そうな顔をしながら、首を傾げた。
「学級委員は、引き受けますんで」
「ん、了解。安藤さんは?」
「……や、やります」
「そう。まぁ気楽にやってちょうだい。あ、渡瀬くん、学校のことは安藤さんに聞きなさい。安藤さんも、渡瀬くんにちゃんと教えてあげてね」
「はーい」
梨歌は嫌そうに返事した。
学級委員は引き受けたものの、そんなことまでするつもりはない。
でも、苑江に頼まれたからには、やらなきゃいけないだろう。
中途半端なのも嫌だから。仕方ない。
そう言い聞かせて、ため息を零した。
その間匠哉は返事をせず、下を向いたままだった。
「もう暗くなったから、安藤さん、渡瀬くん送ってあげてね」
「え、普通逆なんじゃないですか?」
「具合悪そうな子に、あなたは送ってもらうの?」
……それもそうか。
梨歌は心の中で納得しながら、もう薄暗くなった窓の外に視線をやった。
遠くで、掛け声が聞こえる。
野球部だろうか。
それとも他の部活だろうか。
生憎部活には興味がないので、何部がこの高等部にあるのかは知らない。
梨歌は苑江に一礼してから、匠哉と一緒に職員室を出た。
さっきよりは回復しているようだが、まだ顔色は悪かった。
触っただけでこんなに悪くなるなんて、重度の潔癖なのだろうか。
医学関係は全く手につけてないから、よく分からない。
あるだけの知識を引き出して原因を考えてみたが、答えはなかった。
また医学関係の方も調べてみようかな、と思いながら、考えることを諦めた。
*
「……何、ついて来てんだよ」
まだ青い顔をして、匠哉は前を歩く梨歌に言った。
1人にしてくれ。
そう切実に思う。
もし……こんな力のことに気付かれたら。また、1人になる。
いらないんだ、どうせいなくなる優しさなんて。
「ついて来てるのは、あんたの方でしょ。私、家こっちだもん」
「あっそ、じゃ俺はここで暇つぶしするから、さっさと消えろ」
「……嫌だね」
はぁ?と思わず匠哉は言いそうになった。
こっちが解放してやるって言ってやってるのに。
匠哉はその場で足を止めた。
しばらくして梨歌も止まり、匠哉の方を振り返る。
暗くて表情ははっきりと見えないが、それでも。
何処か温かさを纏っている。
……離れていても感じる、人。
感じたくないのに。
どうして感じてしまうのだろう。
こんなの……傷つけることしか出来ないのに。
「まだ具合悪そうだし。道端で倒れたら大変でしょ」
「別に放って置けばいいだろ」
「そんなことしたら、あんたのファンに殺されるから、無理。……あー絶対あんたとは関わらないと思ってたのになぁ」
「じゃぁ、関わるなよ」
「そんな顔されたら、放って置けない」
「どんな顔だよ」
「……哀しそうで、寂しそうな、顔」
匠哉は言葉を詰まらせた。
何が……何が分かっているんだ?
何をどう勘違いして、そんなことが言える。
匠哉は梨歌に手を伸ばした。
梨歌は動かず、その手をじっと見つめている。
恐る恐る出した指先は、手のひらは、梨歌の腕を捕らえた。
その瞬間、匠哉は感じた。
何かが自分に入ってくるのを。
「な……なんで……」
「どうか、した?」
梨歌が心配そうに匠哉の顔を覗き込む。
「なんで、何も分からないんだ……っ?」
「何のこと?全く理解できないんですけど」
「お、お前には関係ないっ!」
匠哉は梨歌から手を離すと、そのまま走ってその場を離れた。
1人残された梨歌は唖然と匠哉の背を見つめていた。
何で、何で、何でっ!!
確かに職員室で触れられた時には感じた。
道の真ん中でも分かった。
それなのに……何故。
ちゃんと触れた手はあいつが分からなかったのだろう。
まるで、そこに誰もいないかのように、何も感じなかった。
匠哉は息を切らせて、立ち止まった。
そして、つい先程梨歌に触れた方の手を見つめる。
何も変わりはない。
でも、さっきまでの苦しさは残っていなかった。
不意に誰かの肩が触れる。
その衝動で、匠哉は胸を押さえた。
やばい……いつの間にか人通りの多い表道に出ていたのか……。
匠哉は重くなっていく体を引き摺りながら、急いで裏道に回ろうとした。
前に進む度、誰かの肩や体に触れる。
目が霞んできた。
油断して一気受け止めてしまった……。
もうダメだ、と思った時、後ろから自分の名前を呼ばれた気がした。
梨歌は、人ごみの中で走り去った匠哉の姿を探していた。
この時間は1番人通り多いこの道で匠哉を探すのは困難だった。
それでも梨歌は走った。
何かに惹かれるように。
「渡瀬っ!」
苦しそうに壁に寄りかかる匠哉を見つけて、梨歌は叫んだ。
匠哉はゆっくりと振り返ったが、そのままその場に倒れ込んでしまった。
「ちょっと、大丈夫?!」
慌てて駆け寄った梨歌は、匠哉の頭を自分の膝の上に乗せて尋ねた。
返事は、ない。
完全に気を失ってしまったようだ。
「ちょっ……ちょっと!え、どうしたらいいんだろ……救急車?でもあんまり騒動になっちゃ……あー……もうっ!」
こんなこと、過去に1度もなかった。
ある方がおかしい。
通りの隅でしばらく考え込んだ後、梨歌は鞄から携帯を取り出した。
*
「ん……っ」
匠哉がゆっくりと目を開ける。
それを見て、梨歌はほっと胸を撫で下ろした。
「ここ、何処……だ?」
「私の部屋。ごめんね、汚いところで」
不思議そうに辺りを見回す匠哉は、梨歌を捉えて勢いよく起き上がった。
「余計なことを……っ」
「はい?」
「俺のことは放っておけって言っただろっ?余計なことするんじゃねぇ!」
「人が助けてあげたのに、その言いようはないでしょ」
「誰も助けろ、とは言ってない。放っておけ、と言ったはずだ!」
「生憎目の前で人が倒れて放って置けるほど、無神経な人間ではないんで。別にいいじゃない」
「いいわけないっ」
匠哉はそう言って、梨歌の腕を強く掴んだ。
その強さに顔をしかめる。
匠哉はそんな梨歌の表情など気にも留めない様子で、ただ梨歌を睨んでいた。
「"痛い、折角助けてあげたのに、何するのよ。この恩知らず"」
匠哉は淡々とした口調で、ゆっくりと読み上げるように言った。
それを聞いて、梨歌ははっとなった。
……その言葉は、声に出さずに心の中で呟いた、自分の言葉だった。
「何、それ」
やっとのことで、声を絞り出した。
何が起こっているのか、さっぱり分からない。
「気持ち悪い、と思っただろ?」
「そ……っ」
そんなこと、思ってない、と言おうとしたが、口を噤んだ。
何もかも知っているような目で見据えられる。
否定したくても、本当はそう思っているのかもしれないと思うと、何も言えなかった。
「……俺は、こうやって人の心が読めるんだよ」
わかったなら、これ以上俺に関わるな。
匠哉はそう続けて、梨歌の部屋から出て行った。
遠くで声がして、玄関が閉まる音がする。
梨歌はその音を聞きながら、静かに座り込んだ。
さっきまで匠哉が掴んでいた腕をもう一方の手で撫でる。
何が何だか分からなかった。
頭が混乱して、上手く状況を飲み込めない。
ただ一つ分かったのは。
―――これ以上、渡瀬匠哉に関わってはいけない。




