01. 「だって私、家族に愛されておりませんもの」
自然と歩調が早くなる。そんなロクサーヌを落ち着かせるためか、エスコートする夫のアルバンが立ち止まった。
ロクサーヌも足を止めれば、名を呼ばれる。
「ロクサーヌ、そんなに焦らなくても。あの子がこの夜会に参加するのは間違いないのだから」
諭すような声がかけられて、ロクサーヌはほっと小さく息を吐いた。
「ええ、わかっているわ。少しだけ、あの子に会いたい気持ちから急いだだけよ」
伯爵夫人としての自覚はあるのだ。それはそれとして、嫁に出して暫く会えていない娘に会えるのだという、逸る気持ちに背を押されるのも無理はない話で。
嫁ぎ先の関係で国の外へと出ることの多くなった娘は忙しいらしく、手紙が届くこともほとんどない。似たような家に嫁いだ夫人に確認したが、手紙を返せないといったことはない様子だった。
心配なのだ。娘は不器用で、何でも卒なくこなせる子ではなかった。
学園にいた頃の成績は悪くなかったはずだが、二人の息子の教育に忙しく、よく憶えていない。そして日頃の行いが悪いせいか、絶えず悪い噂がつきまとっていた。
その上、人見知りで家族との団欒にすら交じることができなかった娘に、外交官の妻など。それも責任ある立場であるなど辛いだろう。
気疲れで痩せてしまっていないか、それとも何もできなくて内に籠ってなどいないか、そればかりが気にかかる。
今夜の夜会は娘の嫁ぎ先であるバルバストル侯爵家で開かれたもので、ロクサーヌ達、エルトランジェ伯爵夫妻だけではない。エルトランジェ伯爵夫妻の大切な息子達も婚約者のいない従姉妹や友人の妹などを伴って参加する予定だ。
それから娘の幼馴染であったエクトル・アルトー子爵令息。
彼は学園で娘の世話をしてくれていた。身持ちの悪い生徒だと言われていた娘に親身になってくれていたのに、バルバストル侯爵との縁ができた瞬間に切り捨てられたのだ。
別れらしい挨拶もないままに嫁いでいったのを気にかけていたので、彼もまた参加させてもらう予定にしている。
事前にバルバストル侯爵家には、ロクサーヌから手紙を送っているので問題ない。
返事はなかったが数人増えたところで、侯爵家が困ることはあるはずなかろう。
「今夜の集まりで、エヴァンとロイにも良い縁が見つかれば。
その為に領地は従弟のテオトルに任せて、王都まで出てきたんだ」
「そんな、領地を任せるなんて」
苦笑混じりに話すアルバンに視線だけ向け、そしてエントランスをくぐる。
ここを抜ければ侯爵家自慢の大広間は目の前だ。かつて娘の婚約式で訪れた際に見たことがある。
「テオトルならば大丈夫さ。最近では大きな仕事も任せられるようになって、私の署名も上手に真似できるようになった。
「まあ、旦那さまったら」
大変よろしくない話だが、領地と王都のタウンハウスという住まいが二つある以上、どこの貴族でもしている話だ。信用できる身内にしかできないことなので、そうそう心配することも起こらない。
それより可愛い息子達の婚約を、娘に頼もうとしている方が今は問題だった。
「旦那様、あの子に頼るのはお止めください」
ロクサーヌが呆れを隠さずに言えば、アルバンは肩をすくめてみせた。
「成人して暫く経つ嫡男に、婚約者がいないのは問題だろう?
あの子が他国に顔が利くのならば、もしかしたら婚約相手に当てがあるかもしれない」
「旦那様。エヴァンに婚約者がいないのは、前の相手がこちらの評判を落とすような噂を流したからでしょう。これは我が家が対処するべき問題で、嫁に出したあの子に助けてもらう真似はできませんわ」
でもなあ、と言葉尻が曖昧になるアルバンを見ずに前へと進む。
「あの子に期待などしてはいけません。できないことを頼んでは可哀そうでしょう」
すぐにロクサーヌは昼間かと思うような明るさに出迎えられ、侯爵家の一族と系譜に連なる者達や関係者らしい人々が歓談する場に足を踏み入れた。
今夜は部外者を入れない、内輪でのささやかな祝い事だと聞いている。人数にして五十程度。だとしても侯爵家でいうささやかは、エルトランジェ伯爵家で行う友人達を招いて大掛かりに行う夜会と比べても、桁違いに華やかであった。
大広間の中心より少し奥。そこで娘を見つけてロクサーヌは息を吐き、けれどすぐに表情を強張らせた。
なんて下品なの。
言葉が口から零れ落ちはしなかったが、娘の姿に苛立ちと怒りが増していく。
嫁いでいった娘はいつの間に傲慢になったのだろう。まるで今日の主役かといわんばかりに派手なドレスを身に纏っている。
黄金のドレスには遠目から見てもわかるぐらいに豪奢な刺繍が施され、肩が大きく開かれて胸元が見えるのが厭らしかった。
胸元にあるのは大ぶりな宝石のネックレス。ここからでは真贋などわからないが、侯爵家が用意したのならば本物で高価なものだろう。少なくとも伯爵夫人であるロクサーヌでも持てない代物だ。
コルセットをきつく締めたのか、やたらと細腰であるのや体のラインを強調しているのも色気づいて気持ちが悪い。
あれほど嫁ぎ先では可愛がられるよう慎ましやかであれと、口煩く説いていたのに。
家にいた頃には肌を晒すようなドレスは選ばせなかったし、ロクサーヌがドレスを選ぶか、手持ちのドレスを下げ渡して手直しさせていた。
親元を離れれば煩わしい説教など忘れて、金を湯水のように使うことを覚えたに違いない。
なんて恥ずかしい。
「さあ、ロクサーヌ。フェリシーに声をかけようか」
「ええ、そうね。そうしましょう」
震えそうになる声は自然と低くなるが、アルバンは気づかないようで能天気にしているのが憎たらしい。
二人が近づいても娘は気づかないようで、周囲を囲む婦人や令嬢達と楽しそうに話している。
「本当にフェリシー様はご苦労されたのね」
ロクサーヌよりも年配の婦人の声が耳に届く。どうやら娘を労わっているらしい声に、また一つ、小さな苛立ちを募らせる。
家では何もできない娘としていらぬ心配をかけ続け、あれこれと手を掛けて育てたロクサーヌの方がどれだけ苦労したか。
ありがとうございますと返すフェリシーの声は柔らかで、あたかも社交辞令の言葉を本気にしていそうなのにも溜息が出そうになる。
本当に外交官の妻として上手くやっているのだろうか。もしかしたら離縁されるのではないかという考えがロクサーヌの中に湧く。
内向的な性格から社交術も身に付けておらず、そのくせ良い家に嫁いだことによって贅沢を覚えてしまった娘。そんな娘をバルバストル侯爵家が認めているとは思えない。
いっそ、こちらから娘を引き取る話をした方が良いのだろうか。
ぐるぐると思考がめぐるロクサーヌの歩みは無意識に鈍くなり、そうしている間にも次々と娘の周囲にいる女性達の言葉が届く。
「こんなことが本当にあるなんて。私も知った時には驚いたもの」
息子のエヴァリストと同じ年頃らしい若い夫人の声。
どこかで見覚えがある気もするが、思い出せない。バルテルミ男爵夫人と呼ばれていたので、格下だから記憶にないのだと納得する。
「私も半信半疑だったのだけれど、以前に話す機会があって。そうして話を振ってみればもう、令息夫人のお話は本当だったのだと信じられましたわ」
これはロクサーヌと同じ年頃の、確かアルスラ伯爵夫人のはずだと思い当たる。
彼女達はフェリシーに起きたことを何か話しているようだった。
何か良くないことがあったに違いない。そういう時こそ母であるロクサーヌに手紙を送るなりするべきだというのに、娘は本当に人との交流が疎かで何もできないのだ。
彼女達の同情めいた視線に囲まれて、横顔の娘が小さく笑う。
「仕方ありませんわ。だって私、家族に愛されておりませんもの」
カツ、と音が響いた。周囲の人々が音の元を辿って、ロクサーヌへと視線を向ける。
自身の手から扇子が抜け落ちていることにすら気づかず、怒りに支配された体はブルブルと震え、頬に熱を感じた。
こちらを向いた娘が薄く笑う。
「まあ、いらしていたのですか」
その視線に家族を思う愛情など欠片も無い。赤の他人を見るような瞳に見守られ、母として子を叱らねばならないと一歩近寄る。
「今の発言はどういうことなの? 自分に都合の良い嘘ばかり並べて、家族を陥れるつもりなら許せないわ」
愚かな娘だが、ロクサーヌの生んだ末の子だ。ちゃんと躾をしたはずの、エルトランジェの娘。
全く何も学ばなかったというのならば、せめて伯爵家の教育でもどうしようもない娘なのだと周囲に知らしめ、それを母親として諭すのだ。
大丈夫。娘はロクサーヌの言いつけを守る子だった。厳しく言えば、ちゃんと言うことを聞くはず。
また一度体が震える。それは怒りではなく、また違う感情だ。
娘は隠すことなくため息を落とし、父親であるアルバンへと冷めた視線を向ける。
「私の旦那様は帯同者を認めないと手紙に書かれていましたのに、それを破っておいでになったのですね。大旦那様がいらっしゃる前に、お帰りになることをお勧めします」
「フェリシー。お前はいつだって問題から逃げているが、ちゃんと母親と話をするべきだ。
ロクサーヌと向き合うことを止めないでくれ」
悲壮感漂う夫の言葉に、ロクサーヌの瞳から涙が溢れそうになる。こんなに娘を想ってのことなのに、一切伝わらないのだから。
けれど、薄情にも娘は表情を変えることなく言い返してきた。
「この場にいらっしゃるのは、私の事情を知る方々ばかり。どなたもエルトランジェ伯爵の味方はなさらないわ」
ちらりと視線だけがロクサーヌを向く。
「もう一度言いますが、大旦那様がいらっしゃれば大事になります。おいでになる前にその方を連れてお帰りください」
瞬間、ロクサーヌの中に吹き荒れたのは激情だった。
夫の腕を振り解き、自身が落とした扇子を踏んで一歩、更に一歩と足早に娘へと近寄る。誰もが驚きで動けない中で、妙に娘だけが無表情にこちらを見ている。
振り上げる腕。夫が名を呼んだ気がしたが、気にもならなかった。頬を力一杯に叩く音が響いたのはすぐのこと。
すぐに会場では小さな悲鳴が上がり、「誰か!」という声に使用人が走り寄る。
アルバンが慌てた様子でロクサーヌに駆け寄り、それと同時に護衛らしき者がロクサーヌと娘の間に立ち塞がった。
ここから娘の様子は見えないが、「口の中を切ったのか血が」「腫れる前に冷やさないと」といった声が聞こえる。
肩で息をするロクサーヌから誰しもが距離を取り、少しして娘の名を呼ぶ若い男の声。すぐに姿を見せたのはバルバストル侯爵令息で間違いがなく、彼は愚妻であるはずの娘を憐れむように声掛け始めた。
そうやって侍女が取り囲んで娘を連れて行こうとする。ここでちゃんと説教をしなければと一歩踏み出せば、バルバストル侯爵家の護衛が距離を詰めてくるので立ち止まらなければならず、そして燃え盛るような怒りを表情に滲ませたバルバストル侯爵令息に睨まれて後退りした。
「どうやらエルトランジェ伯爵は、私の手紙など読む価値も無いと判断されたようだ」
声音からも怒りが隠されていない言葉に、アルバンの顔が蒼褪めていく。
「こ、これは家族の問題として、きちんと解決するべく、私は」
「言い訳は結構。少なくとも伯爵夫人が侯爵家の者に、それも後継者である令息の夫人に対して取るべき振る舞いではない」
令息からぴしゃりと言い捨てられて、アルバンの額には汗が浮かぶ。
「ですが、その子は私の娘です! 娘を正しく導くことが、バルバストル侯爵家の為でもあるのです!」
なけなしの勇気でロクサーヌが叫ぶも、底冷えする程の冷たい視線がロクサーヌに向けられて、そこに共感も同情もないことに息を呑んだ。
慌てて救いを求めるように周囲を見渡して気づく。誰もが同じ目でロクサーヌ達を見ていたのだ。
軽蔑に満ちた視線達。
どうして、と胸の中を絶望が満たす頃、バルバストル侯爵の名前が聞こえた気がした。




