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マッチ率100%の二人だが、君は彼女で私は彼だった  作者: naomikoryo


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番外編:第5話「既読がつかない夜」

四月二十五日。

雨が降りそうで降らない、湿った空気が朝から肌にまとわりついていた。

百貨店の裏口へ向かう通路の床は、いつもより光って見えた。

ワックスの匂いに混じって、濡れた傘の匂いがする。


佐伯和人は、従業員口のカードリーダーに社員証を当てながら、胸の奥の重さを誤魔化すように息を吐いた。

(今日、乗り切れるかな)

転職してまだ日が浅い。

覚えることが多すぎて、頭の中が常に散らかっている。

その上、売り場から回ってくる要望は容赦がなくて、販促の机の上には“至急”の付箋が雪崩みたいに増えていく。


昨日は、帰宅してから“千佳”としてメッセージを返す余裕があった。

「お疲れさま」

「無理しないでね」

その一言を打つだけで、胸の奥に小さな灯りが点いた。

誰かに必要とされる感覚。

誰かと繋がっている感覚。

それが、今の自分の支えになっていた。


だからこそ、今日。

朝礼が終わる前からインカムが鳴り、立て続けに売り場から呼ばれて、昼過ぎにはクレームの火消しまで飛んできた瞬間、和人の中で何かがぷつんと切れかけた。

身体が動いているのに、心が追いつかない。

言葉が必要な場面で、言葉が出てこない。

相手の怒りを受け止める顔が、引きつりそうになる。


「佐伯さん、ちょっと」

先輩の声に、背筋が固まる。

机に置かれた資料の不備。

数字の転記ミス。

たった一桁の違いで、全体の見積もりが変わってしまう。

「ここ、確認したよね」

責めているわけじゃない。

でも、信頼の上に乗った“当然”が崩れた時の空気は、鋭い。


「すみません」

和人は頭を下げた。

「すぐ直します」

声が、思ったより小さくなった。

喉の奥が乾いていた。


(何やってんだ)

(まただ)

(また、真面目にやってるつもりで、肝心なところでミスする)


“真面目で面白くない”と言われた時の、あの感覚が戻ってくる。

自分はちゃんとしているつもりなのに、相手からすると物足りない。

ちゃんとしているつもりなのに、結果が伴わない。

一番傷つくのは、他人の言葉じゃなくて、自分の中の「またか」だった。


夕方。

一息つく間もなく、次の用件が舞い込む。

「今日中にこの資料、回覧回して」

「明日朝イチで確認するから」

頭が白くなりそうで、和人は机の引き出しを開けた。

そこに入っている小さなチョコレートを一つ口に放り込む。

甘さが広がる。

でも、それは救いじゃなくて、ただの刺激だった。


◆◇◆


その頃。

同じ建物の別のフロアで、新堂真子もまた、胸の奥に鈍い疲れを溜めていた。

化粧品売り場は、女性の笑顔と香りで満ちている。

けれど、それは“整えられた表側”でしかない。

裏側では、在庫の数が合わない。

包装の順番が崩れる。

リピートのお客様が怒る。

新人が泣きそうになる。


真子はその全部を、笑顔のまま捌く。

それができる自分を誇りに思ってきた。

でも、今日だけは無理だった。


昼前、レジ前で待たされたお客様が声を荒げた。

「こっちは時間ないの」

「なんでこんなに遅いの」

真子は謝罪しながら、内心で数を数える。

(ここを乗り切れば、次の波が落ち着く)

(落ち着いたら、休憩が取れる)

そう思っていた。

でもその休憩の直前に、元彼の名前を思い出させるような香水の匂いが、通路の向こうから流れてきた。


それだけで、胸の奥がざわつく。

視界が一瞬、狭くなる。

(まだ引きずってるの)

(もう終わったのに)

終わったはずの恋が、匂いだけで戻ってくる。

その弱さが悔しい。


真子はバックヤードへ入り、ロッカーの扉を閉めた。

深呼吸。

鏡に映る自分は、仕事の顔をしている。

なのに目だけが、少しだけ泣きそうだった。


(こんな時、誰かに言いたい)

(でも、琴美には言えない)

(言ったら、また「男見る目ない」って笑われる)


だから真子は、スマホを取り出した。

マッチングアプリの画面を開く。

リョウ。

この一か月、誰にも言えなかった言葉を吐けた相手。

男のふりをしている自分を、肯定してくれる相手。

変だと分かっているのに、そこだけは“安全”だった。


「今日、ちょっとしんどいかも」

打って、送る直前に止まった。

(重いかな)

(でも、言わないと自分が潰れる)

真子は送信した。


既読がつかない。


真子は最初、気にしないふりをした。

リョウだって忙しい。

百貨店勤務なら尚更。

返信が遅れる日もある。

それは分かっている。

分かっているのに、スマホを伏せても、数分おきに手が伸びる。

画面をつける。

既読はつかない。


(なんで、こんなに落ち着かないんだろう)


自分が男のふりをしていること。

相手が男だと信じていること。

その前提の上に、この焦りが乗っているのが、奇妙だった。

恋愛じゃない。

恋愛じゃないはず。

ただ、話せる相手が欲しかっただけ。

それなのに、既読がつかないだけで胸が締め付けられる。


(これ、依存じゃないよね)

(依存なら、嫌だ)

(でも、頼りたい)


◆◇◆


その頃、和人のスマホは机の引き出しの奥にあった。

通知が来るたびに見る余裕がない。

というより、見るのが怖かった。

“千佳”で返事をしなければならない。

その義務感が、今日の自分には重すぎた。


夕方、ようやく席に戻った時、和人は引き出しを開けてスマホを手に取った。

画面に通知が並んでいる。

その中に、リョウからのメッセージがあった。


「今日、ちょっとしんどいかも」


和人の胸がきゅっとなった。

返したい。

すぐ返したい。

でも指が動かない。


(今の俺が返したら、変になる)

(千佳の言葉が、上滑りする)

(優しい言葉を打てない)

(“千佳”の皮を被ってる余裕がない)


和人はスマホを握りしめたまま、椅子に深く腰を沈めた。

頭の中がぐちゃぐちゃだった。

仕事のミス。

先輩の視線。

転職初日の緊張。

そこに、リョウの弱音が重なる。


(俺が助けたいのに)

(俺が、今助けられてるのに)

(この人がいないと、俺はまた一人になるのに)


“千佳”を作ったのは、理想の女性を演じるためだった。

自分がこうありたいと思う優しさを、形にするためだった。

でも今日は、その優しさの形すら出てこない。

出てこない自分が嫌で、和人はスマホを閉じた。


逃げた。

逃げたことが、さらに自分を責める材料になった。


夜。

真子は帰宅して、部屋の電気をつけた。

靴を脱ぐ。

バッグを置く。

その動作が機械みたいで、自分が自分じゃない感じがする。

一番最初にやったのは、手洗いでも着替えでもなく、スマホを開くことだった。


既読がついていない。


真子は唇を噛んだ。

自分でも分かる。

これはよくない。

でも止められない。

「怖い」

その感情だけが、胸の底で膨らんでいく。


(終わるのかな)

(このまま、自然にフェードアウトするのかな)

(また、そういう終わり方?)


元彼も、最初は毎日連絡をくれた。

それが減っていった時、真子は不安を飲み込んだ。

「重い女だと思われたくない」

そう思って、言えなかった。

そして、言えなかったまま、終わった。


同じことが繰り返される気がして、真子は耐えられなくなった。

指が勝手に動く。


「大丈夫ですか?」

送信してしまう。

送った直後に、自分の中の何かが崩れた。

(送っちゃった)

(重いって思われる)

(終わった)


◆◇◆


数分後。

スマホが震えた。


既読。


真子の息が止まる。

そして、返信が来た。


「返信遅れてごめんなさい。

今日、ちょっとバタバタしてました。

リョウさん、大丈夫ですか。」


真子はその文章を見て、肩から力が抜けた。

涙が出そうになる。

でも、泣いたら負けだと思って、深呼吸をした。

(返ってきた)

それだけで、今日一日分の痛みが少し溶けた。


和人の方も、返信を送った後に、机に突っ伏したくなるほど疲れが押し寄せていた。

千佳の言葉として送ったはずなのに、そこには自分の本音が混じっていた。

“千佳さん、大丈夫ですか”と打ちながら、実際は「あなたがいなくなるのが怖い」と思っていた。


真子は震える指で返信を打つ。


「大丈夫じゃないです(笑)

でも、返ってきたから大丈夫になりました。」


和人は画面を見て、胸が熱くなった。

(俺も同じだ)

(あなたから返ってくるだけで、今日が救われる)


でも、そのまま「俺も」なんて言えない。

言えないから、千佳として優しい言葉を探す。

そして、ようやく送った。


「今日はよく頑張りました。

今夜はあったかくして寝てください。

返信遅れたの、本当にごめんね。」


真子はその文章を読んで、泣きそうな笑いを漏らした。

(この人、やっぱり優しい)

(でも、優しいからこそ怖い)

優しい人ほど、失った時の痛みが大きい。

その怖さを、真子はもう知っている。


和人も同じだった。

優しい言葉を送るほど、嘘の重さが増す。

自分は男で、千佳ではない。

相手は女かもしれないのに、男のふりをしている。

その矛盾が、夜になると濃くなる。


真子は最後に、少しだけ冗談を混ぜた。


「じゃあ明日は、既読つかなかったら、また聞きます(笑)」


和人は、画面を見て笑った。

笑った瞬間、胸の奥の痛みが少しだけ軽くなる。

返した。


「それはプレッシャー(笑)

でも、聞いてくれたら嬉しいです。」


二人の部屋には、同じ種類の静けさが落ちた。

夜の窓の外の暗さ。

スマホの画面の光。

布団の温度。

それぞれが違う場所にいるのに、同じ夜を過ごしている気がした。


(既読がつかないだけで、世界が壊れると思った)

(でも、壊れなかった)

(壊れなかったから、もっと大事になった)


その夜、二人は眠る直前まで、長い会話はしなかった。

ただ「おやすみ」とだけ送り合った。

短い言葉。

それだけで足りるほど、互いの存在が濃くなっていた。


そして翌朝。

二人は何事もなかったように百貨店へ出勤した。

同じ建物で、同じ匂いの中で、何も知らない顔で働きながら。

昨夜の既読ひとつが、二人の心を見えない糸で結んでいたことを、誰にも見せないまま。

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