番外編:第4話「もしも最初から名乗っていたら」
四月十日。
夜。
新堂真子は、ベッドの上でスマホを握りしめていた。
画面には、出会いサイトの新規メッセージ通知が点滅している。
指先が震えるのは、期待じゃなくて警戒だった。
(もう二度と、あんな思いはしたくない)
先週別れた元彼の顔が、ふっと脳裏をよぎる。
優しい言葉の裏で、平気で嘘をつく男。
それを見抜けなかった自分。
笑って許してしまった自分。
その後悔が、胸の奥にまだ残っている。
真子は、姉に言われた言葉を思い出した。
「真面目な人を探すなら、あなたも真面目に行きなさい」
その時は、軽く流した。
でも今夜は違う。
逃げるために男のふりをするのではなく、自分の名前を差し出してみようと思った。
プロフィールを開く。
性別:女性。
名前:新堂真子。
年齢:26。
勤務:百貨店(都内)。
余計な飾りのない情報。
それが怖いのに、どこか気持ちが軽かった。
(これで傷ついたら、仕方ない)
(でも、嘘で始めたくない)
◆◇◆
一方その頃。
佐伯和人は、実家の自室でスマホを見つめていた。
転職初日の疲れが身体の奥に残っている。
緊張で肩が上がりっぱなしだったのか、首筋が痛い。
それなのに眠れない。
(誰かと話したい)
(でも、どう話せばいいか分からない)
高校の時、告白された相手と半年だけ付き合った。
「真面目すぎて面白くない」
その一言が、胸に刺さったまま抜けていない。
面白い男になれなかった自分が、ずっと恥ずかしい。
だから、理想の女性を演じることで安全な場所を作ろうとしていた。
千佳という名前。
化粧品売り場の女性。
絵文字と柔らかな言葉。
そうすれば、距離を保ったまま誰かと繋がれると思った。
でも、今日は指が止まった。
画面の向こうにいるのが、同じように孤独を抱えた“誰か”だと考えた瞬間。
自分が嘘をつく理由が、急に薄汚れて見えた。
(俺は、誰かを試したいんじゃない)
(ただ、受け入れてほしいだけだ)
和人はプロフィール編集を開く。
性別:男性。
名前:佐伯和人。
年齢:28。
勤務:百貨店(都内)。
それを入力する指が、思っていたよりも軽かった。
(本当の自分でダメなら、ダメでいい)
◆◇◆
その夜。
マッチングが成立した。
理由は単純だった。
互いに「百貨店勤務」「真面目に話したい」という項目が一致していた。
マッチ率は、100%。
そして最初のメッセージ。
和人は、丁寧に打った。
「はじめまして。
佐伯和人といいます。
転職したばかりで、まだ慣れなくて。
もしよかったら、少し話しませんか。」
真子は、胸が少しだけ温かくなるのを感じた。
文章が丁寧で、でも堅すぎない。
自己紹介が短くて、余計な飾りがない。
変に口説こうともしない。
その“普通さ”が、今の真子には安心だった。
「はじめまして。
新堂真子です。
私も百貨店で働いています。
最近色々あって、ちゃんと話せる人と繋がりたくて登録しました。
よろしくお願いします。」
送信して、真子はスマホを伏せた。
心臓が速い。
それは怖さだけじゃない。
久しぶりに、ちゃんとした扉を叩いた感覚があった。
◆◇◆
翌日。
二人の会話は、驚くほど自然に続いた。
嘘がないぶん、言葉が短くても伝わる。
探り合いがないぶん、沈黙も怖くない。
和人は仕事の話をした。
新しい百貨店の空気のこと。
バックヤードの匂いのこと。
緊張で笑顔が固まること。
真子は化粧品売り場の話をした。
お客様の機嫌が香り一つで変わること。
忙しい日に耳が疲れること。
それでも「ありがとう」が救いになること。
不思議だった。
二人は“理想の異性”を演じなくても、ちゃんと噛み合った。
それどころか、素のままの方が会話が滑らかだった。
◆◇◆
そして、四月十三日。
和人は、ふと不安を零した。
「新堂さん。
僕、話していて楽しいんですが。
こういう場所だと、みんな嘘をつくって聞くので。
少し怖いです。」
真子は、画面を見つめた。
そこにあるのは疑いではなく、臆病さだった。
自分と同じ種類の傷を持っている。
そう感じて、真子は正直に返した。
「分かります。
私も怖いです。
でも、佐伯さんの文章は、嘘をつく人の文章じゃない気がします。
変に盛ってないというか。」
その一言で、和人は救われた。
“面白くない”と言われた男が、“盛ってないのがいい”と言われた。
それは、違う世界線の救いだった。
◆◇◆
五月二日。
本編では二人がテラスカフェですれ違っていた日。
この世界線の二人は、すでに一度会っていた。
場所は、百貨店の近くのカフェ。
平日昼間。
人が少なくて、窓際が明るい。
真子は先に着いて、手元のメニューを眺めながら指先を落ち着かせていた。
和人が入ってきた瞬間、真子の背筋が伸びた。
写真と同じ顔。
でも写真より少し疲れた顔。
それが妙に現実的で、胸がきゅっとなる。
和人は、真子を見つけて少しだけ目を見開いた。
想像より、柔らかい雰囲気の人だった。
でも、視線の芯がぶれない。
仕事をしてきた人の目。
嘘を許さない目。
それが怖いはずなのに、和人は安心してしまった。
「はじめまして。
佐伯です。」
「新堂です。
……来てくれてありがとうございます。」
それだけで、会話は続いた。
ぎこちないのに、途切れない。
言葉が少なくても、沈黙が痛くない。
二人は笑って、コーヒーを飲んで、仕事の愚痴を少しだけ言った。
帰り道、真子はふと思った。
(これでいいんだ)
(嘘をつかなくても、ちゃんと繋がれるんだ)
けれど。
この世界線には、この世界線の“欠け”があった。
本編の二人は、アプリだけで一か月、心を育てた。
会う前に、心が先に近づいてしまうほど。
だから“会った瞬間”に、言葉がいらなかった。
この世界線の二人は、早く会えた。
安心も早かった。
でも、心の深いところに踏み込む速度は、意外と遅かった。
なぜなら、会ってしまうと、日常の層が厚くなるから。
仕事、見た目、態度、間。
評価の要素が増える。
それが“普通の恋”の現実だった。
◆◇◆
五月六日。
真子は仕事でミスをした。
予約特典を入れ忘れ、クレームになった。
落ち込んで、和人に連絡をした。
「今日、ミスして。
すごく落ち込んでます。」
和人は返した。
「大丈夫ですか。
何があったか、話せるなら聞きます。」
そのやり取りは優しい。
優しいのに、真子の胸は少しだけ寂しかった。
本編でリョウに言えた“弱さ”ほど、さらけ出せない。
実際に会っているからこそ、格好悪いところを見せるのが怖い。
和人もまた、同じだった。
真子の前では、どうしても“ちゃんとした男”でいたい。
傷ついている自分を見せれば、幻滅されそうで怖い。
だから言葉が丁寧になるほど、心の芯が遠ざかる。
それが悪いわけじゃない。
ただ、本編の二人が持っていた“文字だけの裸”が、ここにはなかった。
そして何より。
この世界線には、琴美が“共犯者”として介入する余地がない。
受付の琴美は二人を見かけて、「あ、新堂と販促の佐伯さん、仲いいんだ」くらいにしか思わない。
真子が追い詰められたとき、裏で背中を押す存在になりきれない。
和人が“千佳”という逃げ場所を失って揺れたとき、救いの役にも立てない。
二人は、普通に出会って、普通に仲良くなって、普通に不安になっていく。
その普通さは健全で、優しくて。
でも、どこか物足りなかった。
◆◇◆
ある夜。
真子がぽつりと言った。
「私たち、すごく相性いいと思う。
でも、なんか。
“本音の底”に触れる前に、いつも止まってる気がする。」
和人は、返す言葉を探した。
そして思った。
(もし最初に嘘をついていたら)
(もっと踏み込めたのかな)
そんなことを考える自分が、矛盾していて嫌だった。
嘘は嫌だ。
でも、嘘が作ってくれる距離感の中で、人は時々本音を言える。
皮肉だけど、そういうこともある。
和人はそれを、どこかで知っていた。
この世界線の二人は、壊れはしなかった。
ただ、燃え上がりもしなかった。
ゆっくりと近づいて、ゆっくりと確かめ合って。
きっといつか恋人になる。
きっと穏やかに続く。
それは幸せの形のひとつだ。
でも、本編の二人が持っていた、あの“会う前に心が会ってしまった熱”は。
この世界線には、最後まで生まれなかった。
だからこそ、もしこの世界線の真子が、ふと空を見上げて思うなら。
「遠回りも、必要だったのかもしれない」
そう呟くかもしれない。
嘘から始まったからこそ、嘘じゃない心が育った。
遠回りしたからこそ、窓際の席が特別になった。
そして本編の世界線へ、物語は静かに戻っていく。
“君は彼女で、私は彼だった”という、あの不器用な最短距離へ。




