第五十二章 ―帝への奏上―
一 準備の完成
永禄八年(1565年)、冬。
七島の執務室に、浜村が最後の書類を持ってきた。
「——完成しました」と浜村は言った。
机の上に、一冊の書物が置かれた。
厚かった。
半年をかけて作られた書物だった。
統治研究部門と天元が共同でまとめた、鳳凰寺の統治理念の全て。
そして——時貞が目指す世界の、言葉による記録だった。
時貞は書物を手に取った。
開いた。
最初のページに、冬姫の文字があった。
丁寧で、流れるような文字だった。
しかし——その文字が伝えているのは、難解な統治理念を、帝にわかる言葉で書き直したものだった。
日本の根っこは、帝でございます。
根っこが揺らがない限り、どんな嵐が来ても木は倒れません。
しかし根っこが全ての枝の向きを決める必要はありません。
枝は枝の仕事があります。
根っこが根っこの仕事をすれば、木全体が育ちます。
時貞は少し間を置いた。
「冬姫」と時貞は呼んだ。
部屋の隅で、別の書類を整理していた冬姫が顔を上げた。
「はい」
「この最初のページ——これが一番大事だ」
「そうですか」と冬姫は言った。少し照れた顔をした。
「帝はこの言葉で、全てを理解されると思う」
「時貞様の言葉を——わかりやすくしただけです」
「そのわかりやすさが——一番難しいことだ」と時貞は言った。
成瀬が入ってきた。
「上様。前久様から——書状が届きました」
時貞は受け取った。
開いた。
時貞殿へ。
準備ができた。
帝は——待っておられる。
毎日、「時貞はいつ来るか」とお聞きになる。
それだけ言えば、十分だろう。
日取りは——来月の初旬を提案する。
春が始まる頃に、お前の言葉を聞いていただく。
それが、最も良いと俺は思っている。
一つだけ言う。
俺はこの日を——ずっと待っていた。
お前が最初に七島から書状を寄越した日から、この日が来ることを。
近衛前久より。
追記——冬姫は元気か。
連絡が少ない。妹が心配な兄の気持ちも、少しは考えてくれ。
時貞は書状を読んで——少し笑った。
「前久殿」と時貞は言った。
「何が書いてありましたか」と成瀬が問うた。
「準備ができた、と。来月の初旬に、帝のもとへ行く」
「ついに」と成瀬は言った。
「そして——冬姫殿への追記がある。連絡が少ないと怒っている」
冬姫が書類から顔を上げた。
「兄上が?」と冬姫は言った。「先月も書状を送りましたのに」
「前久殿にとっては、少ないのでしょう」と成瀬は言った。
「妹を手放した兄上の気持ちが——少しわかります」と時貞は言った。
冬姫は少し間を置いてから、笑った。
「返書を書きます。今すぐ」
二 出発の朝
来月の初旬。
七島の港が、静かに輝いていた。
春の朝だった。
風が柔らかかった。
海が、穏やかだった。
船が準備されていた。
時貞が乗る船だった。
同行するのは——冬姫、成瀬、護衛十名。
今回は護衛を増やしていた。
冬姫との約束を、時貞は守っていた。
幹部たちが、桟橋に並んでいた。
成瀬以外の全員が——見送りに来ていた。
木島。倉橋。浜村。朝比奈。風間。
そして笹木。
「気をつけてください」と笹木は言った。時貞に。
「わかっています」と時貞は言った。
「帝に——しっかり話してきてください」と浜村は言った。「あの書物に書いたことを、全部」
「全部話す」と時貞は言った。
「上様」と木島は言った。
「何だ」
「——行ってらっしゃいませ」
木島が、深く頭を下げた。
全員が、頭を下げた。
時貞は全員を見た。
「留守を頼む」と時貞は言った。
「御意」と全員が応えた。
船が動き始めた。
桟橋から、幹部たちが見送っていた。
冬姫が船の上から、笹木に手を振った。
笹木が、珍しく手を振り返した。
「先生が手を振っている」と冬姫は時貞に言った。
「珍しいことだ」と時貞は言った。
「わたくしも——珍しいと思います」と冬姫は言った。嬉しそうに。
七島が、小さくなっていった。
春の海が、広がっていった。
三 京へ
船は大阪湾に入り、そこから陸路で京へ向かった。
京の入り口で、前久の使いが待っていた。
近衛家の馬が用意されていた。
「前久様が——お待ちです」と使いは言った。
近衛邸。
前久が玄関で待っていた。
時貞を見た。
「来たか」と前久は言った。
「来ました」と時貞は言った。
二人は向き合った。
「大きくなったな」と前久は言った。
「前久殿も——少し、疲れた顔をされています」
「京は大変だ。毎日が戦だ」と前久は言った。「しかし——お前が来ると聞いて、今日は少し楽だ」
冬姫が前久の前に出た。
「兄上」と冬姫は言った。
前久は妹を見た。
しばらく——黙っていた。
「——元気そうだな」と前久はようやく言った。
「はい」と冬姫は言った。「七島は——良いところです」
「そうか」
「兄上も——いつか来てください」
前久は少し笑った。
「お前の招待なら——行ってやる」と前久は言った。
その夜。
前久と時貞が、向き合って話した。
「奏上の内容は——全部、書物にまとめました」と時貞は言った。
「見せてくれ」
時貞が書物を差し出した。
前久が受け取った。
開いた。
最初のページを読んだ。
冬姫の文字で書かれた、根っこの比喩を。
「——冬姫が書いたのか」と前久は言った。
「はい。難しい言葉を、帝にわかる言葉に直してもらいました」
前久はしばらく、最初のページを見た。
「俺には——書けない言葉だ」と前久は言った。
「そうですか」
「俺は政の言葉を知っている。しかし——こういう言葉は、冬姫が持っている言葉だ」と前久は言った。
前久は書物を読み続けた。
一ページ、一ページ、丁寧に読んだ。
全部読み終えた時——前久は少し間を置いた。
「時貞殿」と前久は言った。
「はい」
「——これを読んで、俺は思った」
「何を思いましたか」
「お前は——本当に、ここまで考えていたのか、ということだ」
「はい」
「最初に会った時から——このことを考えていたのか」
「転生………した…日から、考えていました」と時貞は言った。
前久は時貞を見た。
「転生…した日?」と前久は繰り返した。「……その言葉が、出てくることが、俺には…何か引っかかる」
「はい…」
「いつか——全部、話してくれるんだろうな?」
「はい…」と時貞は言った。「しかし——今日は、まだその時ではないと思っています。帝への奏上が先です。その後、改めて前久殿には全て話します」
前久は少し間を置いてから、頷いた。
「わかった。待つ」
四 御所
翌日の朝。
時貞は御所へ向かった。
冬姫と成瀬が同行した。
前久が先導した。
御所の中が、静かだった。
廊下を歩くたびに、足音が響いた。
「——緊張していますか」と冬姫が小声で言った。
「している」と時貞は小声で言った。
「何度目の参内ですか」と冬姫が言った。
「四度目だよ」と時貞は言った。
「それでも緊張しますか」
「するな」と時貞は言った。「帝は——そういう方だ。何度会っても、その前では背筋が伸びる」
前久が扉の前で足を止めた。
「——準備はいいか」と前久は言った。
「はい」と時貞は言った。
「冬姫は——ここで待っていてくれ。奏上の場は、時貞だけで」
「わかりました」と冬姫は言った。
時貞は冬姫を見た。
冬姫が、小さく頷いた。
(行ってきてください)
言葉ではなかった。
しかし——伝わった。
時貞は前を向いた。
扉が、開いた。
五 帝との再会
部屋は広くなかった。
しかし——静かだった。
春の光が、窓から差し込んでいた。
帝が座っておられた。
四十八歳になられた正親町天皇だった。
五年前に最初に向き合った時より——少し、年を重ねた顔だった。
しかし——目が変わっていなかった。
深く、静かな目だった。
時貞は、帝の前に座った。
深く、頭を下げた。
「——お久しぶりでございます」と時貞は言った。
「よく来た」と帝は言われた。
「お待たせ致しました」
「待っていた」と帝は言われた。「毎日、待っていた」
時貞は顔を上げた。
帝と目が合った。
「時貞よ」と帝は言われた。
「はい」
「顔が——変わったな」
「変わりましたか」
「前に来た時より——鋭くなった。しかし温かさは残っている」と帝は言われた。「何かあったか」
「刃に倒れました」と時貞は言った。正直に。
「そうか」と帝は言われた。静かに。「それが——お前を変えたか」
「変えました。良い方向に、変わったと思っています」
帝はしばらく時貞を見られた。
「——朕は、お前を信じておる。ずっと。今も変わらない」
「ありがとう存じます」
「今日は——全てを話してくれるのだろうな」
「はい」と時貞は言った。「全てを、お話させていただきます」
六 奏上
時貞は書物を取り出した。
帝の前に、置いた。
「これに——俺が目指している世界を、書かせていただきました」と時貞は言った。
帝が手に取られた。
最初のページを開かれた。
冬姫の文字を、読まれた。
日本の根っこは、帝でございます。
帝が少し間を置かれた。
「——続きを、お前の口から聞きたい」
「はい」と時貞は言った。
時貞は話し始めた。
この乱世に来て、俺が見てきたことを。
九州の民が人身売買されていたことを。
島津が御書を無視したことを。
荒木一助が死んだことを。
帝が錦の御旗を授けてくださったことを。
薩摩の村々を回って、民の顔が変わっていったことを。
四国を制圧して、元親の墓に参ったことを。
信長が八カ国の主になったことを。
そして——百年後の日本を、俺は見ている、ということを。
帝は、全てを黙って聞かれた。
「帝」と時貞は言った。
「何だ」と帝は言われた。
「俺が目指しているのは——こういう国です」
時貞は言葉を選んだ。
「力を持った者が従わせるのではなく——仕組みが正しいから、民が従う。そういう国を作りたい。武力が衰えても崩れない統治を作りたい」
「それは——幕府ではないのだな」と帝は言われた。
「はい。幕府は——力に依存しています。力が衰えれば、崩れます。俺が作りたいのは、仕組みに依存した統治です」
「仕組みとは」
「帝を頂点とした合議の機関です」と時貞は言った。「帝は——日本の正統性の源として、頂点にいる。しかし実務は、合議で動く機関が担う。その機関は帝への責任を持ち、帝が承認した法の範囲内で動く」
帝はしばらく、静かに考えられた。
「合議で動く機関の構成員は——誰が決める」
「能力の試験と、実務の経験と、地域の民の信任の三つで決めます」と時貞は言った。「一つの基準だけでは偏ります。三つを組み合わせることで、より広い者から選べます」
「民の信任、というのは」
「各地域の民が、自分たちの代表を選ぶということです」と時貞は言った。「民が自分で選んだ者であれば——その者は民の声を持って合議に参加します」
「民が——選ぶのか」と帝は言われた。
「今すぐは難しい」と時貞は言った。「民が読み書きを学び、政を理解し、自分の意志を持てるようになることが前提です。学舎の整備が、その最初の一歩です。百年かかるかもしれません。しかし——百年後には、そういう国を作りたい」
帝はしばらく、窓の外を見られた。
春の御所の庭が、光の中にあった。
「時貞よ」と帝は言われた。
「はい」
「百年後というのは——お前はいない」
「はい」
「お前がいなくても——その仕組みが動き続けることを、望んでいるのだな」
「そうです」と時貞は言った。「俺が作った仕組みが、俺がいなくなった後も動き続ける。それが最終目標でございます」
帝が——少し、目を細められた。
何かを、深く考えておられる目だった。
「朕が歴史で学んできた統治は——全て、人に依存していた」と帝は言われた。「優れた将軍がいる間は安定し、その将軍が死ねば崩れた。平安の時代も。鎌倉の時代も。室町の時代も。全て同じだった」
「はい」
「お前は——その繰り返しを、止めようとしているのだな」
「はい」と時貞は言った。「止めたいと思っております」
帝はしばらく黙られた。
時貞は待った。
「時貞よ」と帝は言われた。
「はい」
「朕に——一つだけ、教えてくれ」
「何でしょう」
帝が、時貞をまっすぐ見られた。
「お前は——何者だ」
時貞は、その問いを受け取った。
(来た)
心の中で思った。
(帝が——直接聞いてこられた)
時貞はしばらく、考えた。
前久にはまだ話していないことを。
冬姫にも、まだ全ては話していないことを。
しかし——帝には。
(帝には——話せる)
(話すべきだ)
(この乱世に来て——帝だけが、最初から俺を信じてくださった)
(その帝に、嘘はつけない)
「帝」と時貞は言った。
「何だ」
「——話します。全てを」
帝が少し前に傾かれた。
「俺は」と時貞は言った。静かに、しかし確かに。「この時代の人間ではありません」
帝は何も言われなかった。
「俺は——二十一世紀と呼ばれる未来に生きていた人間です。今から四百年以上先の未来に、日本という国があります。その時代で、俺は三十歳の男として生きていました」
「……」
「ある日、気がついたら——この乱世にいました。鳳凰寺時貞という十二歳の体の中に。自分が作った人物の体の中に」
帝はじっと、時貞を見ておられた。
「天元は——その未来から俺が持ち込んだ知識と技術の産物です。鉄の船も、空を飛ぶ鉄の化け物も、見えない距離からの砲撃も——全て、俺が知っていた未来の技術です」
「——」
「俺が百年先を見えているのは——俺の頭が良いからではありません。既に起きた歴史を、知っているからです。しかし」
時貞は少し間を置いた。
「しかし——今は、その歴史が変わりつつあります。鳳凰寺が現れたことで、信長の速さが増した。毛利の動きが変わった。四国の歴史が変わった。俺が知っていた歴史と、現実がずれていっています」
「つまり——今の俺には、もう先は見えません」と時貞は言った。「歴史の知識という武器が、少しずつ使えなくなっています。しかし——目指している世界は、変わっていません」
帝は、長い間、黙っておられた。
部屋が——静かだった。
前久が、廊下で待っているはずだった。
しかし、廊下も静かだった。
春の光だけが、動いていた。
帝がゆっくりと口を開かれた。
「——わかった」と帝は言われた。
「信じていただければ幸いでございます」と時貞は言った。
「朕は——最初に会った日から、お前が普通の者ではないと思っていた」と帝は言われた。「それがどういう意味かは、わからなかった。しかし——わからないまま、信じると決めた」
「はい」
「今、理由がわかった」と帝は言われた。「理由がわかっても——信じるという気持ちは変わらない。むしろ」
帝が少し、目を細められた。
「朕は——今日、より深くお前を信じる気持ちになった」
時貞は少し、驚いた。
「なぜでございましょう?」と時貞は問うた。
「お前が——全てを話してくれたからだ」と帝は言われた。「今まで誰にも言わなかったことを。朕に話してくれた」
「はい」
「それは——お前が朕を信じているということだ。朕がお前を信じているように、お前も朕を信じている。その証だ」
時貞は——深く、頭を下げた。
「ありがとう存じます」
七 帝の言葉
帝はしばらく考えられた後、言われた。
「時貞よ。朕からも——一つ、話がある」
「はい」
「お前が目指している統治の形を——朕は、支持する」と帝は言われた。
「……」
「幕府に疲れた。室町に疲れた。力で動く統治に、朕は疲れ果てている」と帝は言われた。「しかし——今まで、別の道が見えなかった。今日、お前の言葉を聞いて——初めて、別の道が見えた気がした」
「帝——」
「仕組みで動く国。民が豊かになる国。力が衰えても崩れない統治。お前が百年かけて作ろうとしているもの——朕は、生きている間に、その始まりを見たい」と帝は言われた。
「必ず見せます」と時貞は言った。
「約束か」
「お約束致します」
帝が——静かに、頷かれた。
「それと——一つだけ」と帝は言われた。
「はい」
「お前の秘密は——朕だけが知っている。前久にも、冬姫にも、成瀬にも——言わない。これはお前と朕だけの秘密だ」
時貞は少し間を置いた。
「前久殿には——いつか、話すつもりでいます」と時貞は言った。
「そうか」と帝は言われた。「その時は——お前が決めれば良い。朕は急かさない」
「ありがとうございます」
「時貞よ」と帝は言われた。
「はい」
「——よく来た」
その言葉に、温かさがあった。
四年前、最初に会った時に言われた言葉と、同じ言葉だった。
しかし——四年分の、重さが違った。
時貞は再び、深く頭を下げた。
「必ず——約束を果たして御覧に入れます」
八 廊下で待った者
時貞が部屋を出た時。
廊下に、前久と冬姫がいた。
前久が時貞の顔を見た。
何かを察したような顔だった。
しかし——何も聞かなかった。
「終わったか」とだけ言った。
「はい」と時貞は言った。
「帝は——どうだった」
「全てを聞いてくださいました。そして——支持していただきました」
前久はしばらく、時貞を見た。
「——そうか」と前久は言った。
「前久殿」と時貞は言った。
「何だ」
「いつか——俺のことを、全部話します。帝に話したことも含めて」
前久は少し間を置いた。
「……待っている」と前久は言った。「急かさない。しかし——楽しみにしている」
冬姫が時貞の横に来た。
「時貞様」と冬姫は言った。
「はい」
「顔が——少し、軽くなりましたね」と冬姫は言った。
時貞は少し考えた。
「そうかもしれない」と時貞は言った。「ずっと、一人で抱えていたものを——今日、帝に話せた。それだけで、少し軽くなった気がする」
「良かったです」と冬姫は言った。
廊下の窓から、春の御所の庭が見えた。
梅が、満開だった。
乱世の春が——静かに、その場所にあった。
九 七島へ
帰路。
船の上で、時貞は成瀬と話した。
「成瀬」と時貞は言った。
「はい」と成瀬は言った。
「帝から——統治の支持をいただいた」
「それは——」と成瀬は言った。目が光った。「本当ですか」
「本当だ。帝は——仕組みで動く国を、望んでおられた。俺が目指しているものと、同じ方向を向いておられた」
成瀬はしばらく黙った。
「統治研究部門に——帰ったら伝えます。浜村が喜ぶと思います」
「そうだな」と時貞は言った。
「上様」と成瀬は言った。
「何だ」
「今日——帝と、どんな話をされましたか。もし話せることがあれば」
時貞は少し考えた。
「百年の計を話した。目指す統治の形を話した。そして——帝に、一つのことを話した」
「一つのこと、とは」
「それは——まだ、言えない」と時貞は言った。
成瀬は少し首を傾けた。
しかし——それ以上は聞かなかった。
「いつか——教えていただけますか」
「いつか、必ず」と時貞は言った。
冬姫が船の先頭に立っていた。
海を見ていた。
七島の方角を見ていた。
時貞が横に来た。
「冬姫」と時貞は言った。
「はい」と冬姫は言った。
「今日——冬姫のおかげで、奏上が成功した」
「わたくしは最初のページを書いただけです」
「それが一番大事だった」と時貞は言った。
冬姫は少し間を置いてから言った。
「帝は——どんな方でしたか。今日」
「前に会った時と、同じ方だった」と時貞は言った。「深く、静かで、正直な方だ」
「前久兄上も——帝を深く尊敬していますね」
「当然だ」と時貞は言った。「あの方は——この乱世の中で、最も正直に生きておられる」
冬姫は海を見た。
「時貞様は——今日、帝に何か特別なことを話しましたか」
時貞は少し間を置いた。
「話した」と時貞は言った。
「内容は——聞けませんか」
「いつか話す」と時貞は言った。「必ず」
冬姫は時貞を見た。
「わかりました」と冬姫は言った。「待ちます」
「ありがとう」
「けど…」と冬姫は言った。
「けど?」
「あまり長く待たせないでくださいまし」と冬姫は言った。少し笑いながら。
時貞も笑った。
「わかった。できるだけ早く」
春の海が、広がっていた。
七島が——遠くに見え始めていた。
時貞は七島を見た。
(帰ってきた)
(しかし——また、出発だ)
帝への奏上が終わった。
次の一手が、既に時貞の頭の中にあった。
統治の仕組みの具体化。
民への教育の拡充。
官兵衛との関係の深化。
信長との境界線の確認。
台湾への接触。
北の拠点の強化。
やることは——まだ、無数にあった。
しかし。
(急がない。焦らない。止まらない)
その言葉が、春の風の中に聞こえた。
七島の旗が、遠くに見えた。
鳳凰寺の旗が、春の風に揺れていた。
(第五十三章へ続く)




