第十五章 ―怒り―
一 報告書
永禄五年、春。
七島は穏やかな陽気だった。
桜が咲き、海が青く、島の民が畑仕事を始める季節だ。
鳳凰寺城の時貞の執務室に、浜村清が入ってきた。
顔色が、悪かった。
「殿」と浜村は言った。「九州からの報告書が届きました」
「いつもの定期報告か」
「いいえ」と浜村は言った。「……特別な報告です」
浜村の声に、何かがあった。
時貞は顔を上げた。
浜村の目が、普通ではなかった。
十年以上、情報の分析に携わってきた男だ。どんな残酷な情報でも、感情を切り離して処理できる男だ。その男が——目を逸らしていた。
「何だ」
「読んでいただく前に、一つだけ申し上げます」と浜村は言った。「私は長く情報の仕事をしてきました。どんな報告書も、読んできました。しかし——この報告書は、私が今まで読んだ中で最も……」
浜村は言葉を止めた。
「渡してくれ」と時貞は言った。
浜村は報告書を差し出した。
分厚かった。
諜報部の風間班が、三ヶ月かけて集めた情報だ。表紙に赤い印が押されていた。最高機密を示す印だ。
時貞は報告書を開いた。
最初の数ページは、概況だった。
九州に来航するポルトガル商船の数、主な取引品目、南蛮商人たちの行動範囲——通常の貿易情報と変わらない内容だった。
しかし四ページ目から、内容が変わった。
「南蛮商人による人身売買について」
時貞は読み始めた。
九州各地、特に大友領内の港周辺で、日本人が売買されている。
主な対象は戦で捕虜になった者、借金を返せなくなった者、孤児、そして——攫われた者。
特に多いのは、女性と子供だ。
価格は一人あたり数百文から一貫文程度。農作物と同じように値切られ、まとめ買いをすれば安くなる。
南蛮商人たちは、帰りの船の積荷として日本人を運ぶ。
目的地はマカオ、ゴア、マラッカ、そして東南アジア各地のポルトガル植民地だ。
現地では奴隷として働かされる。農場、鉱山、家事労働——死ぬまで働かされた記録がある。
時貞は読み続けた。
ページをめくるたびに、内容が重くなった。
風間の直接報告より。
博多の裏港で、夜陰に乗じて人が運ばれるのを目撃した。
荷のように縛られた人間が、十数名。女性が多く、子供も混じっていた。
泣き声を上げた者は、殴られて黙らされた。
南蛮商人は笑いながら、値段の交渉をしていた。
時貞は一度、読むのを止めた。
息が、少し乱れていた。
続きを読んだ。
来日している宣教師たちの対応について。
この件について、宣教師たちは黙認している。
一部の宣教師は積極的に反対しているとの報告もあるが、組織として止めようとした動きは確認できていない。
また、一部の南蛮人は「奴隷を売るほうが悪い」という論理を持っている。
彼らの論理では、日本人が日本人を売っているのだから、自分たちは買っているだけだ——ということになる。
時貞は目を細めた。
読み続けた。
博多に滞在する南蛮商人の会話を、通訳を介して記録した。
「日本人は働き者で、体が丈夫だ。農場でも鉱山でも使える」
「値段が安いのがいい。黒人奴隷より手軽に手に入る」
「言葉が通じないのが難点だが、どうせ命令に従わせればいいだけだ」
「宗教?あいつらは洗礼を受けていない。人間ではない」
時貞は読むのを止めた。
「人間ではない」
その言葉が、目の前で止まった。
さらに読んだ。
マカオでの調査報告。(別の諜報員が現地で収集した情報)
日本人奴隷の生存率は低い。
船での移送中に死亡する者が多く、積荷として扱われるため、病気が広がっても放置される。
現地に着いた者も、慣れない気候と過酷な労働で数年以内に死ぬ者が多い。
ある日本人女性の証言(逃亡に成功し、日本に戻った者から聞いた話として)。
「船の中は暗く、立つこともできない場所に押し込められていた。食事は一日一度、腐りかけた魚と硬い麩だった。隣の者が死んでも、すぐに外に捨てられた。マカオに着いた時には、乗った時の半分以下しか生きていなかった」
時貞は報告書を置いた。
執務室に、静寂が落ちた。
浜村が出口の近くに立っていた。
成瀬が、いつの間にか部屋の外で控えていた。
時貞は動かなかった。
窓の外に春の海が広がっていた。
青く、穏やかな、春の海が。
どのくらい時間が経っただろうか。
時貞は再び報告書を手に取った。
最後のページまで読んだ。
一言も、飛ばさずに。
読み終えた時、報告書を机に置いた。
両手が、かすかに震えていた。
「殿」と浜村が静かに呼んだ。
時貞は答えなかった。
窓の外を見た。
春の海が、静かに輝いていた。
その海の向こうに——マカオがある。ゴアがある。マラッカがある。
その海を渡って、日本人が運ばれていった。
縛られて。荷物のように。
女性が。子供が。
「人間ではない」と言われながら。
時貞の中で、何かが動いた。
それは今まで感じたことのない感覚だった。
道雪と話した時の、静かな決意とは違う。
隆信と向き合った時の、計算した判断とは違う。
帝の御前に立った時の、緊張と畏敬とも違う。
もっと——根っこのところから来る何かだった。
三十年間、真田琢磨として生きてきた。
歴史を愛し、近代兵器を愛し、戦国時代に憧れてきた。
乱世の激しさも、人の死も、歴史の必然として受け入れてきた。
だが——
「人間ではない」と言われながら、荷物のように船に押し込まれた日本人の顔が、報告書の文字の奥から浮かんできた。
名前も知らない。顔も知らない。
だが——
(これは、許せない)
その感情は、計算でも外交でも戦略でもなかった。
ただ——怒りだった。
腹の底から来る、純粋な怒りだった。
時貞は立ち上がった。
「成瀬」
廊下で控えていた成瀬が、すぐに入ってきた。
成瀬は時貞の顔を見て、表情を変えた。
今まで見たことのない顔だった。
十三歳の顔に——怒りが、静かに燃えていた。
「はい」と成瀬は言った。
「全員を集めてくれ。幹部全員だ」
「御意」
「それと——この報告書を、天元に全て入力してくれ。一字も漏らさずに」
「はい」
「風間にも帰還命令を出してくれ。直接話を聞きたい」
成瀬が頷いた。
「殿」と成瀬は静かに言った。「お気持ちは——」
「後で話す」と時貞は言った。「今は事実を整理する。感情は後だ」
成瀬は深く頷いた。
「御意」
二 怒りの整理
幹部会議が開かれたのは、その夜だった。
参謀長・成瀬一郎。情報分析官・浜村清。海軍司令官・倉橋玄蕃。陸軍司令官・木島隼人。空軍司令官・朝比奈龍介。医療部長・笹木淳子。そして天元。
全員が報告書を読んでいた。
部屋の空気が重かった。
笹木の目が赤かった。誰かが泣いたのか、あるいは泣くのを堪えたのか——医師として、報告書の内容が特に堪えたのだろう。
木島の手が、机の上で拳を作っていた。
「全員、読んだか」と時貞は言った。
「はい」と全員が答えた。
「俺の感想を先に言う」
全員が時貞を見た。
「——許せない」
その言葉は静かだった。
だが、その静けさの奥に、誰もが感じ取れるほどの熱がこもっていた。
「計算ではない。外交でもない。俺は——この件に関して、純粋に怒っている」
誰も何も言わなかった。
「日本人が人間ではないと言われながら、荷物のように売られている。女性が。子供が。船の中で死んでいく者がいる。それを南蛮の商人たちは笑いながらやっている。宣教師たちは黙認している」
時貞は一息置いた。
「俺はこの乱世に来て、戦力を持ちながら、できる限り戦わない方針を取ってきた。それは今も変わらない。しかし——」
「今回は違う、ということでしょうか」と倉橋が静かに問うた。
「違う可能性がある」と時貞は答えた。「今日はその話をしたい。感情的に結論を出すつもりはない。しかし——武力行使を選択肢から外さない、ということを確認したい」
室内が静まり返った。
成瀬が口を開いた。
「殿。具体的に——何をお考えですか」
「まず事実を整理する」と時貞は言った。「天元、報告書の内容を要約してくれ」
「了解です」と天元が答えた。
「九州各地で確認された日本人奴隷売買の件数は、現時点で年間推定数百名から千名以上。ただし全ての売買が記録されているわけではないため、実態はさらに多い可能性があります。主な経路は博多、平戸、横瀬浦など、南蛮船が来航する港です。売買に関わっているのはポルトガル商人が中心ですが、一部の日本人仲買人も介在しています」
「宣教師の関与は」
「積極的な関与は確認されていませんが、黙認の事実があります。一部の宣教師は反対意見を持っていますが、組織として動いた記録はありません」
「売られた者の行き先は」
「マカオが最多。次いでゴア、マラッカ、その他東南アジアの拠点です。現地での扱いは報告書の通り、非常に劣悪です」
天元が言葉を切った。
「一つ付け加えます。この問題は——今に始まったことではありません。記録を遡ると、日本への南蛮船来航が始まった当初から、人身売買は行われていました。今後、南蛮船の来航が増えれば——規模はさらに拡大します」
部屋が静まり返った。
「笹木先生」と時貞は言った。
「はい」と笹木が答えた。
「医師として、船での移送中の死亡率をどう見ますか」
笹木は少し間を置いてから、静かに答えた。
「報告書にある状況では——移送中の死亡率は三割から五割に達すると思います。換気のない閉鎖空間に多数を詰め込めば、感染症が広がります。食料と水が不十分なら、衰弱死も出ます。船が揺れる中での長期移送は——健康な成人でも消耗します。子供や女性なら、さらに」
笹木は言葉を切った。
「先生」と時貞は続けた。
「はい」
「これは——止められますか」
笹木は時貞を見た。
「医師としては——止めてほしいと思います」と笹木は静かに言った。「ただし、どうやって止めるかは、私の判断する領域ではありません」
「木島」と時貞は言った。
「はい」と陸軍司令官が答えた。
「武力行使を選択した場合——具体的に何ができる」
木島は少し考えた。
「博多など、南蛮船が来航する港を封鎖することは可能です。鳳凰寺海軍の艦艇が港外に展開すれば、南蛮船の入港を物理的に止められます。ただし——」
「ただし?」
「それは大友家など、九州の大名の領内での行動になります。事前の合意なく動けば、九州全体との関係が壊れます」
「道雪殿は理解してくれると思う」と時貞は言った。「問題は宗麟だ」
「はい。大友宗麟はキリスト教に傾倒し、南蛮との関係を重視しています。南蛮船の入港を妨害することは、宗麟殿の意向と真っ向からぶつかります」
「倉橋」と時貞は海軍司令官に向いた。
「はい」
「南蛮船を、公海上で止めることは」
「技術的には可能です。鳳凰寺の艦艇は南蛮のガレオン船より速く、砲撃力も圧倒的に上です。ただし——」
「ただし」
「それは海賊行為と見なされる可能性があります。国際的な——いえ、この時代の、海の掟として、公海上で他の船を止めることは、戦争行為に等しい」
「ポルトガルと戦争になる可能性がある」
「はい。ただし——鳳凰寺の艦艇とポルトガルの艦艇では、力の差が圧倒的です。軍事的な意味での恐れは、ほとんどありません」
「問題は軍事力ではない」と時貞は言った。「問題は——正当性だ」
全員が頷いた。
「俺たちが南蛮船を止める正当な理由が、必要だ」
三 風間の証言
翌日、風間新八郎が七島に戻った。
時貞は風間を呼び、直接話を聞いた。
二人だけで、向き合った。
風間は——変わっていた。
三ヶ月の九州での調査が、この男の何かを変えていた。
「報告書を書いた後、俺はどうすればいいかわからなかった」と風間は言った。「情報を集めることが俺の仕事だ。感情を入れることは仕事の邪魔になる。それはわかっている。しかし——」
風間は言葉を切った。
「続けてくれ」と時貞は言った。
「博多の裏港で、夜中に人が運ばれるのを見た時」と風間は言った。「俺は隠れて見ていた。仕事として、記録するために」
「はい」
「縛られた女の子がいた。十歳くらいだった。泣いていた。南蛮の商人が、黙らせるために殴った」
風間は一度、目を伏せた。
「俺は動かなかった。仕事として、動いてはいけないと判断した。一人救っても、全体の調査が潰れる。そう判断した」
「正しい判断だ」と時貞は言った。
「殿」と風間は時貞を見た。「俺は今でも——あの女の子の顔が、頭から消えません」
時貞は風間を見た。
「消えなくていい」と時貞は言った。
「はい」
「その顔を覚えていてくれ。俺たちが何のために動くのか——忘れないために」
風間は深く頷いた。
「殿。これを——止めますか」
「止める」と時貞は言った。「方法を考える。しかし——必ず止める」
風間の目に、何かが宿った。
「俺に、何かできることがあれば」
「ある」と時貞は言った。「まず——売買に関わっている日本人の仲買人を特定してくれ。南蛮商人だけではない。日本人の側にも協力者がいる。そちらも全員把握してくれ」
「はい」
「それと——過去に売られて、生き延びて戻ってきた者がいれば、その話を聞いてきてくれ。できるだけ多く。俺は実態をもっと正確に知りたい」
「わかりました」
「最後に」と時貞は言った。「南蛮船の航路を詳細に把握してくれ。博多から出た船がどこを通ってマカオへ向かうか。途中で立ち寄る港はどこか。その全てを」
風間は頷いた。
「——殿。俺は、鳳凰寺家に来てよかったと思っています」
「どうしてだ」
「ここなら——あの女の子の顔を、無駄にしないで済む」
時貞はしばらく風間を見た。
「そうだ」と時貞は言った。「無駄にしない」
四 時貞の決断
その夜、時貞は一人で執務室にいた。
報告書が、机の上にある。
天元の端末が、静かに光っている。
「天元」と時貞は呼んだ。
「はい」
「ポルトガルの奴隷貿易について——歴史的な記録を教えてくれ。この先、この問題はどうなるか」
「了解です。記録によれば、日本人奴隷の問題はこの後も続きます。豊臣秀吉が天正十五年に奴隷売買を禁じる法令を出しますが、完全には止まりませんでした。西洋での奴隷制度が廃止されるのは、数百年後のことです」
「数百年後か」
「はい。この時代に、誰かが止めなければ——この先何十年も続く問題です」
「止める者が現れるまで待つ必要はない」と時貞は言った。
「はい」
時貞は窓を開けた。
春の夜の海が広がっていた。
風が入ってきた。
穏やかな、春の風。
(この風は、マカオまで繋がっている)
海は続いている。
その海の上を、今夜も船が走っているかもしれない。
日本人を積んで。
縛られた女性と子供を積んで。
時貞は目を閉じた。
怒りは、まだそこにあった。
だが今は——整理された怒りだった。
燃え上がる炎ではなく、静かに燃え続ける熾火だ。
(俺は何をするべきか)
まず——止める。
日本の港からの、人身売買を止める。
方法はいくつかある。
武力でポルトガル船を排除する。九州の大名に圧力をかけて、取引を禁じさせる。日本人仲買人を潰す。あるいは——その全てを組み合わせる。
しかし——
(これは九州だけの問題ではない)
ポルトガルはアジア全体で奴隷貿易をしている。日本だけ止めても、他の場所では続く。
根っこを止めるためには——ポルトガルの行動を根本から制限する必要がある。
それは今の鳳凰寺家には、まだできない。
(だが——日本の範囲では、俺にできることがある)
まず日本から止める。
完全には止められなくても、大幅に減らすことはできる。
そのためには——
時貞は目を開けた。
「天元」
「はい」
「まず日本でできることを整理してくれ。九州の港での人身売買を、どうすれば最も効果的に止められるか」
「了解です。分析します」天元が少し間を置いた。「最も効果的な方法は、三段階のアプローチです」
「聞かせてくれ」
「第一段階——日本人仲買人の壊滅。南蛮商人だけでは日本人を集められません。日本語を話し、人脈を持つ仲買人が必要です。この者たちを特定し、活動を止めることで、南蛮商人が動きにくくなります」
「第二段階は」
「九州の大名への働きかけです。特に道雪殿を通じた大友家への圧力。人身売買を黙認している現状を変えるよう、求める。龍造寺殿への働きかけも有効です。肥前での売買を止めさせる」
「第三段階は」
「南蛮船そのものへの対応です。博多、平戸、横瀬浦など主要港の沖合に鳳凰寺の艦艇を展開し、人を積んでいることが確認された船を止める。検査し、日本人がいれば解放する。これは実力行使を伴いますが——南蛮側との交渉材料にもなります」
「交渉材料?」
「ポルトガルにとって、九州との貿易は重要な利益です。人身売買を止めれば、通常の貿易は続ける——という条件で交渉することが可能です。彼らは利益を失いたくない。その弱点を使います」
時貞は静かに考えた。
「天元。ポルトガル側に、この問題を問題と思っている者はいるか」
「います。宣教師の中には、奴隷売買に強く反対している者がいます。特にイエズス会の一部の者は、組織として何度か反対の意見を出しています。ただし、商人たちの利益が優先されてきた経緯があります」
「その宣教師たちを探せ。人身売買に反対する立場の者を、俺の側に引き込むことができれば——ポルトガル内部から圧力をかけられる」
「了解します」
時貞は立ち上がり、部屋の中を歩いた。
頭の中で、計画が形を作っていった。
「成瀬を呼んでくれ」
成瀬がすぐに入ってきた。この夜、成瀬は廊下で控えていた。時貞が呼ぶのを、待っていた。
時貞は成瀬に向き合った。
「成瀬。俺の考えを話す」
「はい」
「この件については——外交と武力の両方を使う。どちらか一方ではない。外交だけでは遅すぎる。武力だけでは正当性がない。両方を同時に動かす」
成瀬は静かに聞いていた。
「まず九州の大名たちに、この実態を知らせる。道雪殿、龍造寺殿——両者は必ず動いてくれる。問題は宗麟だ。宗麟を動かすためには——」
「帝を動かす、ということでしょうか」と成瀬が静かに言った。
時貞は少し驚いた顔をした。
「そうだ。帝が——人身売買を禁じる勅命を出してくだされば、大友宗麟であっても無視できない」
成瀬が深く頷いた。「前久殿と晴良殿を通じれば——」
「動ける可能性がある。帝はこの話を聞かれれば——黙っていないと思う」
「帝はお優しいお方ですが、同時に民のことを深く案じておられます」と成瀬は言った。「この件を知れば——」
「必ず動いてくださると、俺は思っている」
成瀬は時貞を見た。
「殿。武力行使の判断は——いつ出しますか」
時貞は少し間を置いた。
「外交の手段を全て使った後——それでもまだ続いているなら、迷わない」
「はい」
「しかし」と時貞は続けた。「外交が動いている間も、艦の準備は進めておく。いつでも動けるように」
「御意」
成瀬は深く頭を下げた。
「殿」と成瀬は言った。
「何だ」
「今日の殿のお顔は——今まで見たことのない顔でした」
「怒っているからだ」と時貞は静かに言った。
「はい。しかし——怒りながら、筋道を考えておられる。感情に流されていない。俺はそれを、頼もしく思っています」
時貞は成瀬を見た。
「成瀬」
「はい」
「風間が言っていた。博多の裏港で、十歳くらいの女の子が殴られるのを見たと。それを——止められなかったと」
「……はい」
「俺は——その子の顔は知らない。名前も知らない。しかし」
時貞は窓の外を見た。
春の夜の海が、静かに揺れていた。
「その子の代わりに動ける者が、この世界に俺しかいないなら——俺が動かないでどうする」
成瀬は深く、深く頭を下げた。
言葉は出なかった。
ただ、その頭の角度が——全てを語っていた。
夜が明け始めた頃、時貞は一枚の紙に書いた。
人身売買の根絶。これを鳳凰寺家の急務とする。
外交を先に動かす。武力はその後の手段として準備する。
しかし——外交が失敗した時、俺は迷わない。
紙を折りたたんだ。
引き出しに入れた。
窓の外が、白み始めていた。
春の夜明けが来た。
どこかで鳥が鳴いた。
時貞は立ち上がり、朝の海を見た。
青い海が、静かに光り始めていた。
その海の向こうに——マカオがある。
いつか、必ずそこまで届かせる。
しかし今は——まず、目の前から。
博多の裏港から。
一人の子供の涙から。
始める。
春の海が、朝の光の中で輝いていた。
(第十六章へ続く)




