第十四章 ―旗を立てる―
一 前久との対面
永禄四年、冬。
京は底冷えのする朝だった。
時貞と榊原が近衛家の邸に着いたのは、辰の刻を少し過ぎた頃だった。
門をくぐると、前回と違う空気があった。
庭の一角に、新しい植木が据えられていた。調度品は相変わらず少ないが、邸全体に——手入れされた痕跡がある。五千貫と十万貫が、ここにも使われていた。
前久が自ら出迎えた。
書状で何度もやり取りをしてきたが、顔を合わせるのは初めてだ。
二十六歳。
時貞は前久を見た。
背が高く、動きに無駄がない。公家らしい柔らかさの中に、どこか武人に近い気質が混じっている。目が鋭く、笑っていない。
前久は時貞を見た。
十三歳の少年。
だが——前久は一瞬で、表情を改めた。
この子供の目は、子供の目ではない。
「——遠路ご苦労でした」と前久は言った。
「お時間をいただき、ありがとうございます」と時貞は答えた。
玄斎に叩き込まれた礼法が、自然と出た。
前久がわずかに目を細めた。所作が、きちんとしている。
「中へ」
通されたのは、邸の奥の部屋だった。
前回榊原が通された部屋より、さらに奥だ。
人払いがされていた。
前久と時貞、二人だけだ。
榊原は廊下で待つことになった。
二人が向き合って座った。
しばらく、沈黙が続いた。
秋から冬にかけて、書状で言葉を重ねてきた。だが実際に顔を合わせると——互いに、相手を測る時間が必要だった。
「書状と同じ字か」と前久は言った。
「はい」
「十三歳が書く字ではない」
「よく言われます」
「何度もそう言われているのか」と前久は少し笑った。
「はい。道雪殿にも、龍造寺殿にも、隆信殿にも」
前久の目が動いた。「道雪殿と龍造寺殿と——どちらとも話をしているのか」
「はい」
「それは——」前久は少し考えた。「九州での動きが、思ったより深いな」
「九州は今、最も大切な足場です」と時貞は答えた。「信長が中央で動く間、俺は九州を固める。その方針は変わりません」
前久は腕を組んだ。
「本題に入る」と前久は言った。「俺は回りくどい話が嫌いだ」
「俺もです」と時貞は答えた。
前久が少し目を細めた。「十三歳に言われると、腹が立つな」
「申し訳ありません」
「謝るな。本音で話せ、ということだ」
時貞は静かに頷いた。
「では——本音で」と時貞は言った。「前久殿に聞きたいことがあります」
「言え」
「前久殿は今、何が一番したいですか」
前久が黙った。
予想していなかった問いだったようだ。
しばらく、前久は天井を見た。
それから——静かに答えた。
「朝廷を、本来の姿に戻したい」
「本来の姿、とは」
「大名に頭を下げず、民に仰ぎ見られる場所に。帝が雨漏りする御所で野菜を育てる必要のない場所に」
「それ以外には」
前久は時貞を見た。
「——俺自身の手で、日本の行く末に関わりたい。公家は政に口を出すなと言われ続けてきた。大名たちの駒として使われ続けてきた。しかし俺は——」
前久は言葉を止めた。
時貞は待った。
「俺は、ただの官位を授ける役所ではいたくない」と前久はついに言った。
その言葉には、長年の鬱屈が滲んでいた。
時貞は頷いた。
「わかりました」と時貞は言った。「では、俺からも本音を話します」
「聞こう」
「俺は前久殿に、朝廷と日本の情勢の橋渡しをしてほしいと思っています。信長が上洛してくる——その時、朝廷が信長に完全に依存しないためには、別の支えが必要です。その支えを、俺が作ります。資金、情報、必要とあれば兵力も。しかし俺は伊豆沖の島の勢力で、朝廷との直接の繋がりが薄い。その繋がりを作るために——前久殿が必要です」
「俺をどう使うつもりだ」と前久は言った。
「使う、とは思っていません」と時貞は答えた。「共に動く、と思っています」
前久は時貞を見た。
「言葉と行動が一致している者は少ない」と前久は言った。「お前は今まで、言ったことを全て実行してきたか」
「はい」
「豊後の村も」
「はい」
「帝への拝謁も」
「はい」
「銭も」
「はい」
前久は少し黙った。
「——お前を信じる根拠が、少しずつ積み上がっている」と前久は言った。「俺はまだ、全てを信じたわけではない。しかし」
「しかし?」
「今日ここに来て、お前の目を見た」と前久は言った。「嘘をつく目ではない」
時貞は静かに待った。
前久は深く息を吸った。
そして言った。
「——一つだけ、約束してくれ」
「何でしょう」
「帝を、守ってくれ」
その言葉は、静かだった。
命令でも要求でもなかった。
長年、朝廷を一人で支えようとしてきた若い当主の——ただの、願いだった。
時貞は前久の目を見た。
その目の奥に、二十六年分の重さがあった。
「——約束します」
時貞はそう言い、深く頭を下げた。
前久は黙っていた。
しばらくして、静かに言った。
「顔を上げろ」
時貞が顔を上げると、前久の表情が変わっていた。
硬さが、少し溶けていた。
「では——共に動こう」と前久は言った。
「はい」
「まず俺にできることを言う。信長が上洛した時、朝廷がどう動くか——それを俺がある程度、形作ることができる。信長に全てを委ねるのか、距離を保つのか。その舵取りを俺がする」
「それが前久殿の力です」
「そして——帝への信頼を、俺が繋ぐ。お前と帝の間の橋を、俺が担う」
「ありがとうございます」
「礼は要らない」と前久は言った。「お前が帝に言ったのと同じことを、俺も言う。行いで示せ」
時貞はわずかに笑った。
「帝と同じ言葉を使われますね」
「帝のお言葉を、長く聞いてきたからな」と前久は少し笑った。
部屋に、冬の光が差し込んでいた。
二人の間の空気が、少し変わっていた。
会見が終わり、廊下に出た時、前久が付け加えた。
「時貞殿」
「はい」
「来月、帝に参内する折がある。その際に——お前のことを、もう少し詳しく申し上げる」
「ありがとうございます」
「帝はお前を気に入っておられる」と前久は静かに言った。「あの方がそうなるのは、珍しいことだ」
時貞は頷いた。
「前久殿」と時貞は言った。
「何だ」
「一つだけ、お伝えします。信長が美濃を取るのは——来年のことです」
前久が目を細めた。「どうして——」
「俺には、ある程度先が見えます。理由はまだ言えません。ただ——前久殿に、準備する時間を差し上げたかった」
前久はしばらく時貞を見た。
「……来年か」
「はい」
「その後、信長は上洛を目指す」
「はい。足利義昭を奉じて」
前久は深く息を吐いた。
「——わかった。準備する」
「よろしくお願いします」
時貞は邸を出た。
冬の京の空が、高く澄んでいた。
二 アッツ島
同じ頃、北太平洋。
「天鷹」は荒波の中を進み続けていた。
千島列島を北上し、さらに北東へ。
気温はマイナス十五度を超えた。
甲板に出ると、息が白く凍る。手すりに触れると、手袋越しでも冷たさが伝わってくる。海は鉛色で、波が高く、視界が悪い日が続いた。
「白石中佐」と藤崎が言った。「前方に陸地の影が——」
白石は双眼鏡を手に取った。
低い霧の中に、黒い輪郭が浮かんでいた。
小さな島だ。
山がなく、平坦で、海岸線がなだらかに続いている。
「——アッツ島だ」と白石は呟いた。
天元のデータと照合した。千島列島の最北端を過ぎ、アリューシャン列島の最西端に位置する島。
「確認します」と藤崎が端末を操作した。「座標一致。アッツ島で間違いありません」
艦橋に、静寂が落ちた。
誰も声を出さなかった。
乗員たちが、モニターと窓の外を交互に見た。
白石は前方の島を見た。
荒涼とした冬の島。
雪に覆われ、風に吹きさらされた、小さな大地。
だが——その小さな大地が、今まで誰も踏んだことのない場所だった。
少なくとも、日本人の誰も。
「——上陸します」と白石は言った。
小船が浜に乗り上げた時、白石は最初に降り立った。
砂利混じりの雪の浜に、ブーツが沈んだ。
風が強かった。
耳が痛くなるほどの冷たい風が、北の海から吹きつけていた。
白石は立ち止まり、島を見渡した。
草はなく、木もなく、ただ雪と岩と風だけがある。
だが——この大地の下には、豊かなものが眠っているはずだ。
天元の分析では、アリューシャン列島一帯は水産資源に富み、一部の島には金属鉱床の可能性がある。周辺の海はオットセイやラッコの宝庫だ。
「班員、全員上陸」と白石は言った。
八名の上陸班が、一人ずつ浜に降り立った。
全員が黙っていた。
この場の重さを、全員が感じていた。
旗を立てる準備が始まった。
鳳凰寺家の旗だ。
白地に鳳凰の紋——七島の旗印と同じものが、冬の風の中で広げられた。
旗竿を、雪の大地に打ち込んだ。
固い地面だった。
複数の班員が交代で打ち込み、旗竿がようやく大地に固定された。
白石は旗を見た。
鳳凰寺の旗が、北太平洋の冬風の中で、力いっぱいはためいていた。
白石は旗の前に立ち、帽子を取った。
班員全員が帽子を取った。
誰も声を出さなかった。
ただ——旗が風に揺れる音だけが、荒れた浜に響いていた。
(殿。鳳凰寺の旗が、アリューシャンに立ちました)
白石は心の中で、七島の方角に向かって言った。
上陸調査が始まった。
地質班が土壌のサンプルを採取した。
測量班が島の輪郭を記録した。
白石は浜を歩きながら、島の状態を目に焼き付けた。
この島の価値は、今すぐにはわからない。
百年後、二百年後——この島が何の役に立つかは、今は測れない。
だが——この島に旗を立てたことは、変わらない事実になった。
鳳凰寺家が最初にここに来た。
それは歴史に刻まれた。
「白石中佐」と測量班の一人が言った。「東の浜に、何かあります」
白石は歩いた。
東の浜の岩場に——食べ物の残骸があった。
貝殻と魚の骨が、岩の隙間に積もっている。
「人の痕跡か」と白石は呟いた。
「ここにも人が来ていた」と班員が言った。「アレウト族かもしれません」
「アレウト族」
「この辺りの海域に暮らす人々です。天元の資料にありました」
白石は痕跡を見た。
最近のものではなかった。季節を越えた古いものだ。
「今はいない。だが——この海域に人々が暮らしている」
「はい」
白石は立ち上がった。
「記録してくれ。この島に暮らす人々がいる可能性がある。将来ここに拠点を作る際には——アイヌの人々と同じように、誠実に向き合う。それを必ず報告書に記しておいてくれ」
「はい」
白石は旗の方を振り返った。
鳳凰寺の旗が、まだ風にはためいていた。
旗を立てた。
だが——旗を立てることは、征服することではない。
ここに来た。関わる意志を示した。
その先にどういう関係を作るかは——これから、時間をかけて決めていくことだ。
(殿が言っていた通りだ)
白石は思った。
急がない。だが止まらない。
夕刻、「天鷹」に戻った白石は、即座に七島へ通信を送った。
「白石より鳳凰寺城。アッツ島上陸、完了。鳳凰寺の旗を立てました。アレウト族の痕跡を確認。島の状態は良好。引き続き東方の島々を調査します」
七島では成瀬が報告を受け取った。
その夜、京の宿で時貞も報告を読んだ。
時貞は報告書をゆっくりと読んだ。
旗を立てた。
アリューシャン列島に、鳳凰寺の旗が立った。
時貞はしばらく動かなかった。
窓の外に冬の京の夜が広がっていた。
(白石)
胸の中で呼んだ。
ありがとう、と。
そして——これが始まりだ、と思った。
旗を立てることは、終わりではなく始まりだ。
この旗を守り続けることが、これからの仕事だ。
時貞は机に向かい、白石への返信を書いた。
白石へ
報告を受け取った。
アッツ島上陸、おめでとう。
旗が立ったことを、七島の全員に伝える。
アレウト族の痕跡への対応——お前の判断は正しい。
誠実に向き合うこと。それが鳳凰寺の流儀だ。
引き続き、無理をするな。
お前と班員全員が無事に帰ってくることが、最も重要だ。
時貞
書き終えて、時貞は灯りを落とした。
冬の京の夜が、静かに深まっていた。
三 龍造寺、動く
同じ頃、九州・肥前。
龍造寺隆信は村中城の広間で、家臣たちを集めていた。
「鳳凰寺の件について、決める」と隆信は言った。
家臣たちが顔を上げた。
隆信は続けた。
「あの島の力は本物だ。南蛮船を一発で退けた鉄の艦。博多で評判の薬。豊後の村の話——全部、確かめた。本物だ」
「はい」と重臣の鍋島直茂が答えた。
「直茂。お前はどう見る」
鍋島直茂は三十前後の、細面の男だ。龍造寺家の中で最も頭が切れると言われる。
「鳳凰寺家は——今のところ、九州の誰とも戦っていません。大友とも、島津とも、俺たちとも。ただ動きながら、関係を作っている」
「それが怖いか」
「いいえ」と直茂は答えた。「むしろ——関係を作るのが目的だと思っています。戦よりも外交を優先している。そういう相手は、扱い方を誤らなければ、味方として非常に頼りになります」
「俺も同じ見方だ」と隆信は言った。
「では——」
「鳳凰寺に、取引を持ちかける」と隆信は言った。「薬の取引だけではない。もっと深い関係を」
「具体的には」
隆信は腕を組んだ。
「あの鉄の艦隊を持っているということは——海の力が圧倒的に強い。俺たちは陸が強いが、海は弱い。その弱点を補える」
直茂が頷いた。「海の力を借りる代わりに——こちらは何を差し出しますか」
「陸だ」と隆信は言った。「九州の陸の情勢は、俺たちの方が深く知っている。鳳凰寺が欲しがっている情報を、俺たちが持っている」
「互いの強みを交換する」
「そういうことだ」
直茂は少し考えた。「隆信様。一つ確認があります。鳳凰寺家は最終的に、九州を統一するつもりだと言っているそうです。その時——龍造寺はどうなりますか」
「時貞殿に直接聞いた」と隆信は答えた。「降伏した者を丁重に扱うと言った」
「信じますか」
隆信は少し黙った。
「道雪の爺さんが動いている」とついに隆信は言った。
直茂が目を細めた。「立花殿が——」
「あの爺さんは、俺が一番尊敬する武将だ。その爺さんが鳳凰寺を選んだ。それが——俺の中で一番大きい」
直茂は静かに頷いた。
「では——鳳凰寺家に使者を送りますか」
「俺が直接行く」と隆信は言った。
直茂が驚いた顔をした。「隆信様が直接——」
「時貞殿は博多まで来た。ならば俺も、七島まで行く。それが筋だろう」
直茂は少し考えてから、頷いた。
「……わかりました。準備します」
「小さな船で行く。大袈裟にするな。俺と直茂と、供回り五人だけだ」
「はい」
隆信は立ち上がった。
窓の外に、冬の肥前の山が見えた。
「直茂」と隆信は言った。
「はい」
「鳳凰寺の旗が、遠い北の島に立ったそうだ」
直茂が目を丸くした。「北の島に——」
「博多の商人から聞いた話だ。どこまで本当かはわからん。だが——」
隆信は窓の外を見た。
「本当だとすれば、あの子供は本気だということだ。日本の外を見ている。そういう者と——俺は組みたい」
直茂は静かに頷いた。
「準備します」
四 七島へ
龍造寺隆信が七島に現れたのは、それから十日後のことだった。
小さな漁船が七島の港に入ってきた。
出迎えたのは成瀬だった。
隆信が船から降りた。
大柄な体軀が、冬の港に現れた。
成瀬が驚いた顔をした。当主が直接来るとは聞いていなかった。
「龍造寺殿が直々に——」
「時貞殿は今、京か」と隆信は言った。
「はい。まもなく戻られるかと」
「では待つ」と隆信は言った。「七島を見てみたかった」
隆信は港を見回した。
整然とした桟橋。近代的な設備。鉄の艦が数隻、静かに停泊している。
「……本当に存在した」と隆信は呟いた。
「殿」と直茂が横で言った。「あの艦は——」
「南蛮の船より大きい」と隆信は言った。「そして——鉄だ」
隆信は艦をじっと見た。
七島の民が、港を行き交っている。
着ている物が、九州のどこの民とも違う。清潔で、整っている。
道が舗装されている。建物が整然としている。
「ここは——別の世界だな」と隆信は呟いた。
直茂が静かに頷いた。「はい。まるで——」
「俺たちの知らない、別の場所だ」と隆信は言った。
時貞が七島に戻ったのは、それから三日後だった。
隆信が待っているという報告を受けた時貞は、少し驚いた。
だが——驚きより先に、何かが胸に来た。
(隆信殿が、来た)
前久が来なかったのは当然だ。朝廷の当主が島の勢力を訪ねることは、格式上できない。
だが隆信は来た。
自分から、七島まで。
「出迎えに行く」と時貞は言った。
七島の迎賓室で、時貞と隆信が向き合った。
隆信は三日間、七島を見て回っていた。
その目に、今は博多で向き合った時とは違う何かがあった。
「来てくださったことに、感謝します」と時貞は言った。
「俺が来たかったから来た」と隆信は答えた。「礼は要らん」
「七島は、いかがでしたか」
隆信は少し黙った。
「——驚いた」と正直に言った。「俺はこれまで、色々な場所を見てきた。大友の府内も、薩摩の鹿児島も。しかしここは——違う」
「どう違いますか」
「人が、いきいきしている」と隆信は言った。「貧しそうな顔をしている者がいない。おびえた目をしている者がいない。皆が——自分の仕事をしている顔をしている」
時貞は静かに聞いていた。
「そういう場所を作った者が——何を目指しているかを、俺は確かめたかった」
「それで、わかりましたか」と時貞は問うた。
隆信は時貞を見た。
長い間、見た。
「——話しよう」と隆信は言った。「俺が欲しいものと、お前が欲しいものを、全部出し合おう」
「はい」
「俺は海の力が欲しい。大友とも島津とも、いずれ正面からぶつかる日が来る。その時、海を押さえている者が横にいれば——俺は陸で思い切り動ける」
「はい」
「お前は九州の陸の情報が欲しい。俺は肥前を押さえている。大友の内情も、島津の動きも、今の俺は網を持っている」
「はい」
「交換しよう」と隆信は言った。「海と陸を」
時貞は少し考えた。
「一つだけ確認させてください」と時貞は言った。
「何だ」
「この取引は——龍造寺家が誰かと戦う際に、俺たちの海軍を先鋒として使う、ということにはなりません」
隆信が眉を動かした。
「どういう意味だ」
「俺たちの艦は、龍造寺家の戦争の道具にはなれない。ただし——龍造寺家が理不尽な攻撃を受けた時、海からの支援はします。また、海上の安全確保や物資輸送は協力します」
隆信は少し黙った。
「……つまり、俺の言いなりにはならない、ということか」
「はい。対等な関係でなければ、長続きしません」
隆信は時貞を見た。
それから——笑った。
博多で見せた笑いより、大きな笑いだった。
「気に入った」と隆信は言った。「言いなりになる者より、そういう者の方が信用できる」
「ありがとうございます」
「条件を詰めよう」と隆信は言った。「直茂を出す。お前の方は誰が窓口だ」
「成瀬参謀長です」
「では直茂と成瀬で細かいことを決める。俺とお前は——大事な時だけ直接話す」
「それで十分です」
隆信は立ち上がり、窓の外を見た。
冬の海が広がっていた。
「北の島に旗を立てたというのは本当か」と隆信は言った。
「はい。アリューシャン列島の最西端に」
「アリューシャン——どこだ、それは」
「日本の北、千島列島のさらに先です。北太平洋を渡る、島々の連なりです」
隆信はしばらく沈黙した。
「なぜそんな遠い場所に」
「その先に、広大な大地があります」と時貞は言った。「石油、金、銀、銅——この世に存在する富の多くが、その大地の下に眠っています。百年後、二百年後——その富が世界を動かします。だから今、旗を立てる」
隆信は時貞を振り返った。
「百年後の話か」
「はい」
「お前は——本当に変わった子供だな」
「よく言われます」と時貞は答えた。
隆信がまた笑った。
「わかった。北の話はわからんが——俺にできることをする。九州の情勢は、俺が押さえる。お前は北を押さえろ」
「はい」
「南も押さえろ。琉球か」
「はい。次は琉球への接触を始めます」
「俺も手伝えることがあれば言え」
「ありがとうございます」
隆信は港の方を見た。
鳳凰寺の艦が、冬の日差しを受けていた。
「時貞殿」と隆信は言った。
「はい」
「俺は——この国を強くしたいと思っている。九州だけじゃなく、日本を」
「はい」
「南蛮の奴らが、じわじわと来ている。俺はそれが気に入らない。俺たちの海を、俺たちで守りたい」
「同じです」と時貞は言った。「全く同じです」
隆信は時貞を見た。
長い間、見た。
「——一緒にやろう」
その言葉は短かった。
だが——その短い言葉に、隆信の全てが込められていた。
時貞は深く頷いた。
「はい」
冬の海が、光を弾いていた。
北の海では白石が、アリューシャンの島々を進んでいる。
京では前久が、信長の来たる上洛に備えて静かに動き始めている。
帝が——信じると言ってくださった。
そして今、肥前の虎が、七島の浜に立っていた。
鳳凰寺家の根が、また深く伸びた。
歴史は、静かに、確実に、新しい方向へ動いていた。




