第一章 28歳の李清瞳が目が覚めたら同姓同名の6歳の女の子の体になって、全く未知の時空に迷い込んだ。この男尊女卑の時代で生きていけるのだろうか。
第一章
清瞳は目を開け、そして閉じた。もう一度開き、また閉じる。
――夢ではない。
これは絶対に夢なんかじゃない、と胸の奥で確信する。
つい数時間前、自分は被災地支援へ向かう車の中にいた。そして土石流に巻き込まれ、土砂に埋もれ、意識を失った。
ならばここは……病院だろうか?
清瞳は手足を動かしてみる。動く。
首も動く。ただ、少し重い。
身体を起こすと、見知らぬ部屋が目に飛び込んできた。
広さは十平米ほど。白い壁には水墨画と掛け軸。天井には木のモザイク。床は大理石で、窓際にはアンティークのテーブルと琴。棚には観葉植物が並び、ベッドは硬い。板の上に敷布団だけという造りで、マットレスはない。
入口の扉は重厚な木材と格子の組み合わせで、彫刻が施されている。全体的に、控えめだが品のある部屋だった。
ベッドには天蓋までついている。時代劇でしか見たことがないような寝台だ。
――映画のセット……?
そう思いながらベッドを降りようとした瞬間、清瞳は凍りついた。
足が小さい。
異様に小さい。
震える手を目の前に持っていく。
小さい。
慌てて胸に触れる。
……何もない。
「いやぁぁっ!」
悲鳴が喉まで込み上げたが、声にならない。
その時、パタパタと足音が近づき、扉が勢いよく開いた。
二十代前後の若い女性が駆け込んでくる。
「清瞳、悪い夢を見たのね。汗でびっしょりだわ」
女性は柔らかな香りとともにハンカチを取り出し、清瞳の汗を丁寧に拭いてくれる。
そして震えているのに気づくと、そのまま膝に抱き上げ、背中をやさしく撫でた。
「清瞳、母ちゃんはここよ。大丈夫、大丈夫……」
清瞳は衝撃で身体が固まり、言葉が出ない。
彼女の異常に気づいた女性――七夫人は清瞳の肩を揺らし、焦りの声を上げた。
「清瞳? どうしたの? 清瞳! 何か言って!」
返事がないことに恐怖を覚え、叫ぶ。
「誰か来て!」
すぐに侍女服の二人が駆け込んできた。
一人は年配、もう一人は七、八歳の少女だ。
「七夫人、お嬢様はどうされたのですか?」少女が怯えて尋ねる。
七夫人は震える声で叱りつけた。
「清瞳が一人で寝るのを怖がるのは知っているでしょう! どうしてそばにいなかったの!」
二人はすぐに跪き、青ざめる。
年配の張婆が震え声で言った。
「朝日が差し込みましたので、式のお召し物を取りに……お嬢様が怯えるとは思いもせず……申し訳ございません!」
少女の小玉も泣きながら頭を下げる。
「先ほどお嬢様に声をかけた時、お返事なさったので……起きられたと思って……すぐに顔洗いのお湯を準備に……ごめんなさい……次から絶対に離れません!」
七夫人は二人の様子にため息をつき、静かに言った。
「もういいわ。張婆、小玉、支度してちょうだい。遅れたらまた怒られるわ」
二人は慌ただしく動き出す。
七夫人は清瞳を抱きしめ直し、優しく囁いた。
「清瞳、張婆も小玉もね、母ちゃんが選んだ人なの。あなたを大切にしてくれるよ」
清瞳はまだ混乱の中だったが、かろうじて小さく答えた。
「……うん……」
七夫人は清瞳の顔を両手で包み込み、真剣な眼差しで見つめる。
「清瞳、怖いのは分かる。でも式には行かないといけないわ。
父上様に叩かれたら……それこそ母ちゃんは耐えられない。いい子だから、頑張りましょうね」
悲しみがその目に滲んでいた。
張婆が整えた服を持ち、小玉がお湯の盆を運んでくる。
七夫人は清瞳の顔を丁寧に拭き、張婆は水色のスカートを巻き、赤紫の上着を着せ、帯を結んだ。清瞳はされるがままだ。
「清瞳、今日は母ちゃんが髪を整えてあげるね」
七夫人に手を引かれて鏡の前に座った瞬間――
清瞳は息を飲んだ。
鏡の中には、自分ではない顔。
赤い目をして泣き腫らした、やせ細った六歳ほどの少女。
(……私は……この子に……?
二十八歳の私は……土石流で死んで……この子の身体に……?)
外はどんどん明るくなる。
「清瞳、遅くなるわ。急ぎましょうね。遅れたらまた叱られてしまうから」
七夫人は素早く清瞳の髪を二つに結い、リボンをつけた。
張婆が嬉しそうに言う。
「お嬢様は七夫人にそっくりで……将来美人になりますよ」
七夫人は清瞳の手を握り、部屋を出る。
外は中庭だった。花海棠の木が朝露で赤く光っている。
式に遅れるのはよほどまずいらしい。
――式?
親子の生活がかかっている?
七夫人は二十三か二十四に見える。
この体の“母親”ということ……?
混乱しつつも、清瞳は七夫人の歩みに合わせ、ひとつ質問をした。
「……式で……気をつけることは……?」
幼い自分の声に、再び驚きが走った。
七夫人は立ち止まり、清瞳の頭にそっと触れた。
「清瞳、母ちゃん知ってるよ。あなたは頑張ってきた。
琴も、書も、絵も、詩も……嫌いなのに、一生懸命習ったね。
でもね、今日は……泣いちゃだめ。
何を言われても、何をさせられても、涙は一滴も流さないこと。
母ちゃんとの約束だよ」
その目には、悔しさと憎しみが入り混じっていた。
清瞳は静かに頷いた。
やがて二人はホールに入る。話し声が止まり、視線が集まる。
豪華な服の五人の夫人が並び、その奥には正座らしき二つの席。
七夫人は深々と頭を下げる。
「遅れてしまい申し訳ございません。お姉様方」
左右に礼を済ませ、二人は末席へと向かった。
清瞳が横目で見やると、向かいの少女が軽蔑の眼差しで睨んでくる。
清瞳が視線を合わせると、傲慢に顎を上げてぷいとそらした。
――ガキのくせに。
心でそう毒づいた途端、
“自分の方がもっと小さい”
その事実を思い出し、清瞳は重くうつむいた。
そのとき、衣擦れの乾いた音が響き、男女二人がホールへ入ってきた。
夫人たちは一斉に立ち上がり、膝を折って深く頭を下げる。
「旦那様、大夫人、おはようございます!」
男性の低い、威厳に満ちた声が返る。
「座ってよい」
――ビッグボスが座るまで下々は座れない。会社組織と変わらない、と清瞳は思った。
夫人たちが整然と腰を下ろしたところで、男性――この家の主、李宰相が口を開いた。
「今日の式、清蕾、清飛、清瞳……皆、準備はできているのか?
三ヶ月前より上達しているのだろうな?」
堂々とした響く声。ここが李府だと実感させられる。
清瞳はそっと顔を上げた。
年の頃は四十前後、茶色の長服に端正な面差し。太い眉の下の目は鋭く、ただ座っているだけで周囲の空気が張り詰めるほどの威圧感がある。
隣に座る大夫人は淡いブルーの華装に金の縁取り。にこやかに微笑んではいるが、その目の奥には油断のない計算高さが光り、清瞳は思わず内心で唸る。
「清蕾、まずはお前だ」
呼ばれた十歳ほどの少女――清蕾は、淡い桃色の衣を揺らしながら前へと進んだ。表情は落ち着いているが、袖に隠れた手は緊張で小さく握りしめられている。
「清蕾、この三ヶ月、何を上達させた?」
「はい、父上様。清蕾は琴の練習をいたしました!」
召使いが素早く椅子と台を運び、琴を置く。
清蕾は琴の前に座り、軽く弦をはじいて告げた。
「清蕾は、梅花変奏曲を弾きます」
やがて澄んだ音色がホールに満ちる。
氷玉がかすかに触れ合うような繊細な響きに、清瞳は自然と息を呑んだ。オンラインで聞いた古琴曲とは比べものにならない。これが“生”の音色か。
清蕾は音に完全に没頭している。
わずかに傲慢さの漂う楚々とした顔立ち、そして十歳にして驚くほどの技量。
清瞳はただ感心し、そして少し羨ましく思った。自分は小さい頃のピアノも続かなかったのに……。
七夫人がそっと清瞳の手を握る。指先に温かさが広がり、胸の奥がじんわりと熱くなる。
曲が終わると、清蕾は父を真っ直ぐに見上げた。
「清蕾、なぜこの曲を選んだ?」
「庭の梅を思いました。白い梅が、雪や霜にも負けずに咲いていて、とても美しかったからです!」
李宰相は髭を撫で、満足げにうなずく。
「よい。今宵、父もその梅を見てこよう」
左側の夫人のひとり――清蕾の母であろう――の顔に誇らしげな色が浮かぶ。
次は清飛が前に出た。
七、八歳だろうか。生き生きとした大きな目を宰相に向け、はきはきと言う。
「父上様、清飛は書を頑張ってきました!」
机と筆墨が用意され、清飛は袖を捲られたあと筆を取る。
しばし考えた後、一気に書き始めた。筆致は思いのほか堂々としていて、幼いながらも活力に満ちている。
書き終えると清飛は胸を張った。
「父上様、ご覧くださいませ!」
宰相はしばらく作品を見つめ、静かに言う。
「うむ。上達している。まだ粗さはあるが、よい兆しだ」
清飛は母の方を向き、勝利の笑みを浮かべた。
そしていよいよ。
「清瞳、お前の番だ」
鋭い声がホールを刺す。
「姉たちは琴と書を上達させた。ではお前は何を学んだ?
三ヶ月前、七夫人はお前の代わりに鞭十回を受け、必ず成果を出すと約束したのだ。
よいか、成果がなければ承知せぬぞ」
――鞭十回?!
絶対に嫌!
清瞳の喉が乾く。琴も書もできない。
どうする……?
詩だ。
古詩なら覚えている。
この時代で既に存在するものかは分からないが、失敗したとしても“暗唱した”と言えばいい。
未発表なら、自分の詩ということにしてしまえる。
清瞳は意を決し、顔を上げた。
「父上様……清瞳は詩が好きです。父上様に、一つ詩を唄います」
その場の空気が一瞬止まり、くぐもった笑いが漏れる。
七夫人の顔が青ざめる。
清瞳は小さな声で、しかし確かな調子で詠んだ。
「二月の寂しき庭に風が吹き、
早春の冷気が残って旅人は去り。
花海棠は美しき、小雨の中でぽつんと佇み。」
ホールが静まり返る。
驚きと嫉妬の入り混じった視線が清瞳に向けられた。
宰相はしばらく考え、七夫人へ短く視線を送った。
振り向くと、七夫人は涙をこらえながら微笑んでいた。
(よかった……!)
清瞳は胸をなでおろした。どうやら宋の時代ではない。宋詩は“使える”ようだ。
宰相は口元をほころばせる。
「清瞳、六歳にしてこれほどの詩を唄うとは……母上の教えがよいのだな。
このまま励め。いつか唐園に行って、お前の詩を聴かせてもらおう」
その瞬間、鋭い嫉妬の視線が一斉に突き刺さった。
――まずい。みんな、この詩が七夫人作だと疑っている。
清瞳は心の中で必死に次の策を考える。
宰相は最後に厳しい声で言った。
「李府は寧国でも名族と言える学者の家。
お前たち、家の名に恥じぬよう励め」
夫人たちは一斉に立ち上がって膝を折る。
「はい!」
宰相と大夫人が退室すると、その場の夫人たちはそれぞれ自分の園へと散っていった。
七夫人は清瞳の手を固く握りしめ、足早に歩いていた。
動揺を隠しきれない。間違いない——あの詩は、彼女の心の深部に触れたのだ。
寧国。未知の時空。
七夫人を敵視する夫人たち。
偽善に満ちた父親。
才能を備えた姉二人。
自分は一体、どういう場所に来てしまったのか。
どうすれば生き抜けるのか。
(……一晩寝て起きたら元の世界に戻ってたり、しないかな)
淡い期待は喉の奥で消えた。
この体の“元の清瞳”はきっと内向的で、口数も少なく、父親の望む才能もなかったのだ。
それゆえ蔑まれ、いつか切り捨てられる未来——そんなものはいくらでも想像できた。
(今のままだと、この体は……餓死しないにしても、惨めな人生になっていたかもしれない)
だが、今の自分は違う。
ここに来た理由が分からなくても、やるべきことは一つだ。
状況を把握すること。
そして——生き延びること。
清瞳は自分の小さな手を見つめ、息を整えた。
幸い、今の体は六歳。
六歳なら、知らない、覚えていない、何も分からない——それらが許される。
質問もできるし、知らぬふりで逃げることもできる。
古風な廊下を歩きながら、通りすぎる召使いが皆、七夫人に深く頭を下げるのを横目に見て、清瞳は思う。
(ここは……本当に裕福な家)
庶民として生まれたら、飢え、厳税、賦役、売買。
歴史を知る現代人だからこそ分かる、この時代の庶民の苛酷さ。
(裕福な家の陰謀と権力争いだって……まだマシかもしれない。
知識と経験があれば、対処できる)
そう考えたところで、唐園に戻った。
七夫人は中庭の花海棠を見つめ、大きくため息をついた。
張婆が椅子を運んできて七夫人は腰を下ろし、清瞳を抱き寄せる。
「清瞳……あなたは優しい子ね」
七夫人は、いつもは冷たく見える清瞳が急に自分を守るように振る舞ったことを思い出し、声を震わせた。
「母ちゃん、ずっと清瞳は冷たい性格だと思っていた。でも、今日……分かったわ。母ちゃんの苦労を分かってくれたのね。母ちゃんは嬉しいよ。母ちゃんには清瞳しかいない。父上様が来ても来なくても構わない。清瞳が幸せに育ってくれればいい……」
しかし、七夫人は首をかしげた。
「でも……六歳であんな詩を唄えるなんて……どういうことかしら。良いことなのか、悪いことなのか……母ちゃんにも分からないわ」
清瞳は心の中で叫んだ。
(カンニングだなんて絶対言えない!!)
七夫人は続ける。声の中に憤りが混じっていた。
「みんな私たちを追い出したいのよ。清瞳に才能がないことを理由にね。李府の娘は、才能がなければ生きていけないの。母ちゃん……ずっと心配だった。清瞳を守ってあげられないから……」
七夫人は迷いも疑いもなく、清瞳を抱きしめる。
その温もりは実母を思い出させた。柔らかく、甘い香りのする胸元。
清瞳は目を伏せ、胸の奥に熱いものが広がった。
「母ちゃん……教えてほしい。どうして李府の娘は……芸に優れてなきゃいけないの?」
問いを発した瞬間、清瞳は後悔した。
——もしすでに説明されたことだったら?
怪しまれたら?
どうする?
しかし七夫人は静かに笑い、頭を撫でた。
「清瞳はまだ幼いもの。大きくなったら教えてあげるわ」
やっと安心する間もなく、清瞳は必死に縋るように叫んだ。
「知りたいの! 清瞳、がんばるから!
次の式で叩かれなくても済むように、がんばる!」
七夫人は苦い表情でため息をついた。
「李府には七人の夫人がいるのに、後継ぎの男の子がいない。
父上様は宰相で、李家は大きな権力を持つ家。
その力を維持するために、娘たちを皇族や有力者へ嫁がせる必要があるの。
だから……父上様はあなたたちに厳しいのよ。全部……政治のため」
七夫人は言葉を続けながら、ぽろぽろと涙をこぼした。
「母ちゃんは子を産むための道具でしかない……
でも、あなたまで……そんな苦しい思いをしなくていい。
清瞳は昔、母ちゃんそっくりでわがままで、いたずら好きで……
お稽古を嫌がって、張婆も小玉も困らせたのよ。
でも……良い家に嫁がなければ、女は本当に苦労するの。
この世で女性として生きるのは、とても……とても辛いことよ、清瞳……」
その涙は、静かに清瞳の小さな心へ落ちていった。
清瞳は理解する。
自分と七夫人の運命は、もう切り離せないと。
(……守らなきゃ。私が、この人を)
現代での自分は、裕福な家庭に生まれ、平等が当然の世界で育ち、弁護士として働き、LiveGood の活動で自由も金も手に入れていた。
——だがここでは何も通用しない。
(……男尊女卑なんて、ふざけるな。
七夫人の人生まで……この時代に奪わせてたまるもんですか)
七夫人は清瞳を抱きしめたまま、かすれた声で呟いた。
「可愛い清瞳……君がどうして女の子として生まれたのか……
どうして李府の娘でなければいけなかったんだろうね……
母ちゃんの……可哀そうな清瞳……」
優しい手のぬくもりに包まれながら、清瞳の意識はゆっくり沈んでいった。
——この時代で、私は生きていけるだろうか。
——どんな波乱の人生がこれから待っているのだろう。
そう思いながら、瞼は静かに閉じていった。
次回へ続く。




