制約の想像力
ここ最近、小説と言うものを書き始めて分かったことなのだが、私の経験が異常に乏しいことが分かった。
私は別作品において学園ものの作品を書いているのだが、この学園ものと切っても切り離せないものが、異性との交流である。当たり前のごとく私は異性との交流など全くない。すると、異性との交流の描写を書く時、手が止まるのだ。あれ、異性との会話ってどんなのだっけ?となったり、異性のしぐさってどんなのだっけ?となる。
しかし、これはデメリットではない。これを証明する言葉がある。
「小説の根源は、憧れの渇望である。」
これは、この文章を読んでいる人は一度は聞いたことのある人物の言葉である。この言葉を言ったのは、恒河沙と言う底辺なろう作家である。
「経験は買ってでもしろ。」とか、「経験は力なり。」とか浅い経験を広くした人間が良く言うが、そんなことをして成功できる人間とできない人間がいる。
よく考えてみてほしい。例えば、シュレーディンガーの猫だ。これは、猫を箱の中に入れて、その箱の中にランダムに猫を殺す毒が出る装置を仕掛けると、箱の中には猫が死んでいる状態と生きている状態が重なっているという思考実験である。
この時、もし、箱を開けるという経験をしなければ、猫が死ぬという悲惨な状況を避けることができる。しかし、なぜか普通の人は、猫の入った箱を開けてしまうが、開けないという選択肢がある。
では、経験をしないということが、どのような利点があるのかということを考えてみよう。その利点は、たらればへの異常な執着である。
シュレーディンガーの猫の例を続けて考えると、猫の入った箱を開けないで、家に帰ったとする。すると、果たして、猫はどうなったのかと考える。まだ生きているかもしれないし、死んでいるのかもしれない。生きていたならば、毒の出る装置の横でのんきに寝ているのだろうかとか、装置を使って爪とぎをしていないかとかを考える。また、死んでいたならば、安らかに死んだのか、苦しんで死んだのか、まさか、化けて私の夢枕に立たないだろうかと考えることができる。
しかし、箱を開けた時、そのような可能性を考えることは限りなく難しくなる。なぜなら、可能性は生き死にのたった二つしかないのだから。
つまり、経験しないという制約は、想像力を育てる礎となるのだ。
さて、ここまで読んでくれた皆さんに一つ朗報だ。この話は著作権フリーである。
なので、明日から恋愛経験の少なさをいじられたとしたら、この話を朗々と語った後こう付け加えるのだ。
恋人ができないんじゃないの、作らないの。ってね。




