愛と贖罪の日々
暖かい太陽の光。甘い花の香り。まるで頬を撫でるかのように柔らかく吹く風。
私は車椅子に乗ったまま、大きく伸びをした。伸ばした右手の手首には、マイト様が贈って下さった翠玉がはめ込まれた腕輪が光っている。
「まぁ奥様。お行儀が悪い」
「だって、ずっと車椅子に乗ってると疲れるんだもの。ねぇ、歩いちゃだめ?」
「……我慢なさって奥様。今日は旦那様がお屋敷でお仕事をしていらっしゃいますから」
メイドが耳元で小さく囁く声に頷き返しながら、私は微かに頬を膨らませた。
──マイト様に疎まれていると勘違いし、陽炎蜂の入った宝石箱を持ちだし、沼で自らそれに刺された。マイト様とルミ姉さま、そして結局私は一度もお目にかかった事はないけれど、ルミ姉さまの旦那様であるピルヴィ伯爵様。お三方が尽力して下さったお陰で、私は沼の底に沈む事なく生きて帰る事が出来た。
けれど、解毒薬の投与が間に合わず、私の両目の機能は狂い、夜にしか目が見えなくなってしまった。
マイト様は間に合わなかった事を何度も謝って下さったけど、正直そこまで不便を感じてはいない。
元々人前に出るお茶会やパーティーは得意じゃないし、夜になればマイト様の牛乳色の髪も紅玉色の瞳もはっきりと見える。
その瞳には、もう間違えようのないほど私への愛情が溢れていて目を合わせる度に幸せな気持ちに包まれるのだ。
それに、実は昼間も真っ暗闇の中にいる訳じゃない。
マイト様は日中の私は暗闇に包まれていると思っているみたいだけど、暗闇の中にずっといるとその内目が慣れてくるように、昼間も目が慣れてくれば本当にぼんやりとだけど、色と輪郭くらいはわかるのだ。
もちろん、灯りが無いと暗闇を歩けないように昼間もそうきびきびと動けはしない。でも、隅々まで知り尽くしている屋敷の中なら、ゆっくりでも何とか単独で歩ける。
だから、子供が出来ても抱っこしたりあやしたり、母乳を含ませたり位なら普通に出来ると思う。メイド達やお義母様の手は借りないといけないけれど、私は子育てについては何の心配もしていない。
でも、私はこの事をマイト様には秘密にしている。
だってその方がマイト様が甘やかして下さるから。真っ暗闇にいる、と思っている私の為に、今日の様に日中お屋敷にいらっしゃる時はどこに行くにも必ず私を抱き上げて連れて行ってくれる。
お食事も手ずから食べさせて下さったり、二人っきりでお部屋でお茶を飲むなんて、ものすごく恥ずかしいけど口移しでお茶を飲ませてくれたり、とにかく一生懸命お世話して下さるのだ。
カップの位置くらいならぼんやり分かるし、そこまでして頂く事に申し訳ない気持ちが無い訳じゃないけど、愛されている実感が伝わって来てとても幸せな気持ちになる。
だけど、こんな風にマイト様の罪悪感につけ込む行為をいつまでも続けていてはいけない事くらいは私にだってわかっている。
だから、折を見て正直に言うつもりなのだ。
『私、本当は独りぼっちで真っ暗闇の中にいるわけじゃないの。皆と同じ光の下にちゃんといるのよ?』
──きっとマイト様は安心した様に笑って、その後は優しく頭を撫でてくれると思う。
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マイト様とルミ姉様の事は、マイト様が丁寧に説明してくださった。
お二人が義兄妹になった経緯も、最初から結婚をする為に引き取られたのだという事も。
「……私が気づいていれば、良かったのに」
「違う。お前は気づかなくて良かったんだ。でなければ、俺達はお互い運命の相手を逃す所だった」
マイト様はそう必死に仰っていたけど、お二人がお互いを大切に思っていたのは確かだと思う。だからお二人の予定通りの結婚が、やっぱり最善の道ではあった事には変わりないだろう。
私はお二人の運命を狂わせた。その事実だけは、消えない罪として覚えておかなければならない。
「ルミへの想いはずっと、妹に対するものでも女に対するものでもなかった。俺にとって彼女はずっと、崇拝すべき姫だったんだ」
そして、マイト様は他にも手紙の返事を書かなかった理由を説明して下さり、初夜で私に痛い思いをさせたと心から詫びて下さった。
私は手紙が読まれていただけで嬉しかったし、初夜の事はそういうものだと思っていたから特に気にはしていなかった。それをそのまま伝えたら、マイト様はひどく落ち込んでしまっていた。
私はその時、マイト様は本当に繊細で優しい方なのだなぁ、と嬉しく思った。
◇
ルミ姉様には、結局ずっと会えてはいない。
お腹に赤ちゃんもいらっしゃるし、今はピルヴィ伯爵も忙しいから当分は会えないだろう、とマイト様が仰っていた。いつか姉さまの状況が落ち着いたら、ニーニの事を話したい。そして、彼女の亡骸を灰にしてしまった事を心から謝ろうと思っている。
そのニーニが眠る、姫林檎の木。私は時々、メイドと一緒に森に行ってはそこにお花やお菓子を供えている。これで彼女への贖罪になるとは思わないけど、もしかしたら友達になれたかもしれない彼女の為に、祈りを捧げるくらいは許して欲しいと思う。
姉様のお誕生に渡そうと思っていたプレゼントは、琥珀の髪留めだった。姉様の雪の様な白い髪にきっとよく映える。ピルヴィ伯爵は髪のお色が薄茶色だと聞いたし、私はそれを包み直してご懐妊のお祝いを兼ねて贈る事にした。
「俺からピルヴィ伯爵に渡しておくよ」
「ありがとうマイト様」
──後日、ピルヴィ伯爵から丁寧なお礼の手紙が届いた。姉様はお気の毒な事に、つわりがひどくてペンを握る事すら出来ないらしい。代わりに伯爵自らがお礼状を書かれるなんて、と私は感激してしまった。
「……俺だってそれ位の事は出来る」
マイト様はそう不貞腐れていたけど、そこで張り合ってどうするの、と少し可笑しかった。
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「奥様、旦那様がいらっしゃいました」
車椅子を押してくれていたメイドがそれだけ囁き、さっさとその場から離れていってしまった。私は振り返りたいのを一生懸命我慢する。
「キルシッカ」
やがて、優しい声と共に私の身体がふわりと抱き上げられた。そのマイト様の腕にも、私とお揃いの腕輪がはまっているはずだ。
「マイト様。お仕事はもう良いの?」
「あぁ、もう終わった。どうする? 部屋に戻ろうか?」
「まだ外が良いわ。風が気持ち良いから。それにお部屋に行ったらマイト様、絶対良くない事するもの」
「良くない事ってなんだ。“イイ事”の間違いじゃないのか」
「そういう事言わないで!」
ここで流されてしまっても、じゃあ夜は大人しく寝かせて貰えるのかというとそうではない。夜は夜で、私の目がはっきり見えるのを良い事に、マイト様は嬉々としてアレコレして来るし私もアレコレしないといけない。ここは体力を温存するべきだと思う。
「どこに行きたい?」
「裏の薔薇園が良いわ。ちょっと歩く距離でしょう? 重いから車椅子に戻して?」
「お前くらい平気だよ。ほら行くぞ、しっかりつかまって」
「はぁい」
マイト様の腕に揺られながら、私は昔の事を考えていた。
過去、無知だった私は色々な過ちをおかした。けれど、今度は間違わずにいたいと思う。その為にはまず、甘えて頼るばかりではなくきちんと物事を考え精神的に自立して行かなければ。
けど、まだ少しだけ甘えていたい。本当にあと、少しだけで良いから。
──陽の光。花の香り。優しい風。そしてマイト様の心臓の音。
私はそれらを感じるだけで、泣きたくなるほどの幸せを感じていた。
お読み頂きありがとうございました。