第十二話 疑惑
―――しかし、それで助かったと判断したのは早計だったと、瑞希はすぐに思い知った。
「さーて、でまぁ、保健に振替なわけだが教科書を持ってないやつもいるだろう。今日はプリントを中心に授業するぞー」
そう言って教壇に立つ大谷が生徒達に配布したプリントのタイトルを見て、瑞希はギョッとした。
『思春期の夢精と健康的な自慰行為』
プリントが行き渡るなり、教室中の生徒がざわつき出した。
「まぁ、イレギュラーな授業だしな、堅い内容よりも実用的な話をしてやろう。もうここにいるほとんどの奴が経験をしているだろうが、夢精というのは10代の男子の正常な反応でな……」
「俺、中学2年の時が最初だった!」
「お前おせーよ、俺なんて小学校で経験済みだぜ」
「俺、小6の時、美少女アニメ見て、次の日の朝やっちまった」
「あれをお袋に最初に見つかった時、まじ家出しようかと思ったわ」
「それな」
夢精について説明を始めた教師に、周囲がひそひそと自分の経験を話し合い始め、教室はにわかに興奮した空気に包まれる。
「まぁ、母親に見つかったら恥ずかしく思うのは当然だが、そこは堂々としてだな。それでも見られるのを回避したいと思うなら、定期的にあらかじめ出しておく必要がある訳だが、まぁ、その題材はひとそれぞれだろうが先生の場合は……」
「やべぇ、大谷マニアック!」
「教師失格!」
「てか女子のこと変な目で見てんじゃねーのこの変態教師!!」
聞いてもいないのに自分の性癖や、性的好みまで語りだした教師にいよいよ男子生徒達は盛り上がり、好き勝手に話し始める。
その中で瑞希は一人、耳を塞ぎ体を小さく丸めて時間が過ぎるのをひたすら耐えていた。それはもう、居心地が悪い、なんて生易しいものではなかった。
性的な関心が最高潮に高まっている男子高校生の異様な熱気に、吐き気が込み上げて来る。
(何なんだよ……どうしてあたしがこんなん聞かされなきゃいけない訳?気持ち悪い、マジもう無理……!)
早く、この拷問のような時間が終わって欲しい。そう、考えていた時―――。
「先生、新倉がマジで顔色悪いんで、保健室連れて行きます」
ふいに近くの席に座っていた悠人が手を上げ、発言した。
(……え……)
瑞希は驚いて、悠人の方に振り向いた。
「新倉、本当に体調が悪いのか?」
一斉に周囲の注目を浴びたことに、瑞希はさらに身を固くした。悠人は瑞希が返事をする前に立ち上がり、瑞希の席まで歩いて来た。
「行くぞ、瑞希」
「……う、うん」
腕を引っ張られ、瑞希は言われるままに立ち上がる。大谷もそれ以上は二人を制止はしなかった。
廊下に出て、自分の前を歩く悠人に瑞希は戸惑いながらついて行った。
「……悠人、なんで」
「いや、授業始まる前から調子悪いって言ってただろ?大谷のやつ、仮病だなんて決めつけんなって感じだよな」
(信じてくれた……それに、気に掛けてくれたんだ)
二人で廊下を歩いていて瑞希は不覚にも泣きそうになり、唇をぐっと噛みしめて堪えた。
「―――すんませーん、先生こいつ体調不良で休ませてやって下さーい」
自分の前を歩いていた悠人は、保健室に着くとためらいなく入り口の引き戸を開けた。
しかし返って来た反応は、二人が予想していたものと違っていた。
「体調不良?」
やや高い少年の声で振り返った室内にいた人物を見て、瑞希は思わず「あっ!」と小さく叫んだ。
なぜならそこにいたのは女性の養護教諭ではなく、昨日神社で瑞希に注意をした男子生徒だったのだ。
「……君」
その男子生徒も瑞希を見て驚いた顔をした。
「瑞希、知り合いか?」
瑞希とその男子生徒の反応に、悠人が首を傾げた。
「い、いや……」
どう説明したものか、知り合いというほどではないのだ。そもそも名前すら知らない。
「先生なら席外しだよ。どう体調悪いの?痛み止めとか胃薬なら大体どこに何があるか知ってるけど」
男子生徒はすぐに気を取り直したのか、てきぱきと勝手知ったる様子で薬のある引き出しを開け始めた。
「いや、違うんです。ちょっと吐き気がして、休みたいだけで……たぶん、次の授業までには治ると思うんで」
「そ。じゃあ、その机の上のボードにクラスと名前書いて。一応ベッド使う生徒は記録残す決まりだから」
瑞希が遠慮がちに言うと、彼は素っ気ない態度でボードを指し示した。
(昨日のこと、特に言うつもりないのかな……?何にせよ、助かった)
男子生徒の態度に胸を撫でおろしながら、瑞希はボードにクラスと名前を記入した。神社に行っていたことを突っ込まれでもしたら、悠人にも不審がられてあれこれ聞かれるに決まってる。
「先生いないって……じゃあ、先輩は保健委員とかですか?」
どの学年であろうと、今は授業を受けているはずの時間だ。
「僕、先輩じゃないよ。同学年。1-5の斎 玲」
「あ、そうなのか……斎は授業は?」
「僕も体調不良。体が弱いんだ」
悠人と玲の会話を聞きながら、確かに玲はひ弱そうだと瑞希は心の中で思った。
悠人は昔から運動部で鍛えているし身長も高い方だから比較にならないにしても、同学年の男子生徒に比べ玲は色白で華奢な体格をしていた。それでいて何とも言えない落ち着きや大人びた色気があるものだから、一見年齢の判断が難しい。悠人が上級生扱いしたのも何となく頷けた。
「じゃ、新倉君、こっちのベッド使うといいよ」
そう言って、玲は3台ある保健室のベッドの、カーテンの一つを開けた。
「じゃあ瑞希、俺はクラス戻るから、無理すんなよ」
「う、うん。……悠人、サンキュ」
瑞希が照れ臭そうに短く礼を言うと、悠人は満更でもなさそうに鼻を擦り、「……おう」と頷いた。
その会話を何故かニヤニヤとした表情で見ていた玲が、悠人が保健室を出て行ったと同時に瑞希に意味深な目線を向けた。
「な、何?」
「……彼、2組の片山君でしょ?野球部のエースで人気あるよね。たしか、うちのクラスの川口さんと付き合ってるんだっけ?」
「そ、それが何だよ」
「……片山君、ガタイいいよねぇ……背もあるし、肩幅もあるし」
口元に手を当てながら、何か含みのある言い方をした玲に、瑞希は妙に引っかかるものを感じた。
「それに比べて、新倉君、君って小柄だよねぇ……腕も細いし、顔も可愛いし……女の子みたい」
そう言いながら近づいていた玲の様子に、瑞希は背筋がぞわぞわっとなるのを感じた。妖艶ささえ醸し出す端正な顔が、自分を舐め回すように近づいて来て、まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。
(こ……こいつ、なんだ……!?まさか、ホモ……!?!?)
「ちょ!ちょっと!!」
瑞希は慌ててそれ以上近寄られないように片手を前に伸ばした。
「お、俺……、本当に気分悪いから、ちょっと寝てもいいかなぁ!?」
そう言ってがばっとシーツに潜り込んだ。シーツの隙間から盗み見た玲は口の端を上げ、楽し気な笑みを浮かべた。
「そうだね……また体調がいい時に、君とは改めてゆっくり話したいなぁ。僕達、似た者同士みたいだし……ね、瑞希ちゃん?」




